小林ルイス

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日本の渋沢栄一とブラジルの小林美登利(5/5)

小林美登利は渋沢栄一という強力な後ろ盾を得ることによって帰朝の最重要事項であった聖州義塾の活動資金を確保することに成功した。『聖州義塾後援者芳名録』に寄付者名の一覧があるが、前回に登場した有力者の名前も多く見える。 小林はおよそ半年間に亘って東西奔走、国内はもちろん満洲国の奉天(現中国遼寧省瀋陽市)や朝鮮の京城(現韓国ソウル特別市)にも足を延ばした。奉天では會中(会津中学校、現会津高校)の先輩であった小日山直登の尽力で満鉄こと南満州鉄道から二千円もの寄付を得ることができた。

    • 日本の渋沢栄一とブラジルの小林美登利(4/5)

      小林美登利が渋沢栄一と会ったのは他ならない、聖州義塾の活動拡大のための資金調達のためである。 渋沢が数回も小林と会ったのは、事業についての説明はもちろん、小林はどういう人物かを見定めるためであったであろう。 小林が募集していた金額は当時の十万円、現在だとおよそ1億7千万円にあたる。渋沢の協力なしではまず不可能だったに違いない。 渋沢はまず外務省当局にこの件について当たったところ、外務省としては表立った動きは取れないので、民間有力者の協力を願いたいとの答えが返ってきた。

      • 日本の渋沢栄一とブラジルの小林美登利(3/5)

        渋沢栄一は日本人の海外発展にも尽力、とりわけアメリカと良好な関係を築くことに力を注いだ。 しかしながら当時のアメリカは「黄禍論」、即ち日本人を含む黄色人種に対する差別が旋風を巻き起こしていた。最近ではアメリカでアジア人に対するヘイトクライムがニュースになったが、当時はそういう暴行や迫害を「クライム」、即ち「犯罪」とさえ見做さない場合もあった。 明治42年(1909年)、渋沢は渡米実業団を組織し団長として、全国の商業会議所会頭を率いて訪米。タフト大統領と会見する他、3ヵ月か

        • 日本の渋沢栄一とブラジルの小林美登利(2/5)

          昭和4年(1929年)6月9日、午前9時。渋沢栄一の自邸であった飛鳥山邸に案内された人物がいた。 小林美登利。福島県会津出身の人物で、会津中学校(現会津高校)を卒業したのちに京都の同志社大学神学部を首席で卒業した気宇壮大の男で、ハワイとアメリカを経て当時は地球の反対側、遠い国のブラジルで教育者及び宗教家として多方面で活躍していた。余談だが同志社大学と会津は明治時代から縁があり、数年前に放送されたNHK大河ドラマ『八重の桜』の主人公として描かれ、「会津の巴御前」とも称された新

        日本の渋沢栄一とブラジルの小林美登利(5/5)

          日本の渋沢栄一とブラジルの小林美登利(1/5)

          「渋沢栄一」といえばその名を聞いている人も多いだろう。丁度本日2021年12月26日に終了した、NHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公であり、また令和6年(2024年)には新しい一万円札の顔になる予定の人物である。 幕末では最初、勤王の志士として活躍、のちに徳川慶喜に仕え、幕臣として維新を迎えた。維新後には実業家として名を上げ、第一国立銀行(現みずほ銀行)をはじめ、多くの事業に携わった。「道徳経済合一説」を掲げたことでも有名である。現在の多くの大企業は「ビジョン、ミッション

          日本の渋沢栄一とブラジルの小林美登利(1/5)

          三元号と三大陸に渡った日本人の夢物語【小林美登利伝記】

          序今から丁度100年前、大正10年(1921年)のクリスマスに一人の日本人がブラジル・リオデジャネイロに到着した。 その男の名は「小林美登利」。 明治の会津に生まれ、京都で大学を卒業したのちに大正初期に海外へ飛び立った彼はハワイとアメリカを経て、第二次世界大戦前のブラジル在住日本人社会を照らす巨星として教育、宗教、武道、文化、音楽や考古学など多岐にわたって活躍した。 同時にブラジルで邦人初のキリスト教会、初の私塾、初の剣道場、初のレコード、初のアマゾンからのアンデス横断

          三元号と三大陸に渡った日本人の夢物語【小林美登利伝記】