日本の渋沢栄一とブラジルの小林美登利(5/5)
小林美登利は渋沢栄一という強力な後ろ盾を得ることによって帰朝の最重要事項であった聖州義塾の活動資金を確保することに成功した。『聖州義塾後援者芳名録』に寄付者名の一覧があるが、前回に登場した有力者の名前も多く見える。
小林はおよそ半年間に亘って東西奔走、国内はもちろん満洲国の奉天(現中国遼寧省瀋陽市)や朝鮮の京城(現韓国ソウル特別市)にも足を延ばした。奉天では會中(会津中学校、現会津高校)の先輩であった小日山直登の尽力で満鉄こと南満州鉄道から二千円もの寄付を得ることができた。
その他にも大蔵省顧問で元横浜正金銀行(のちの東京銀行)頭取の児玉謙次や陸奥宗光の長男陸奥廣吉が発足した雨潤会、主婦の友社の創業者である石川武美なども芳名録に確認できる。渋沢栄一も「金 壹千圓也 澁澤榮一」と名を連ねている。
昭和4年(1929年)の7月31日午後6時には飛鳥山邸で晩餐会が開かれ、その中に来賓として小林美登利がいた。渋沢と小林のほかに東南アジアやペルーの開拓に力を入れ、南洋協会の発起人の一人として有名の井上雅二、スマトラゴム拓殖を創立して南洋協会理事も務めた山地土佐太郎、東京で海外植民学校を設立して後にブラジル・アマゾンの奥地マウエスに移住した崎山比佐衛や海外植民学校講師の今井修一などが招かれている。
偕楽園の中華料理に舌鼓を打ちながら北米やブラジル、東南アジアなど海外情勢と日本人としての活躍や可能性について大いに意見交換をしたと容易に想像できる。
そして餞別としてか、渋沢は小林のために揮毫を贈っている。
「成名毎在窮苦日 敗事多因得意時 小林詞兄囑 九十翁青淵」
名を成すは毎に窮苦の日に在り、敗れる事の多くは得意の時に因る、というこの一節を、晩年の渋沢はよく揮毫していたと言われる。
この言葉は渋沢によって書かれたものが知られているためか、彼の言葉となっている場合も多くみられるが、本人は「中国人の歌」、あるいは「古人の連句」としていたらしい。
陳継儒という中国・明時代の書家が編纂した格言集『小窓幽記』には「成名毎在窮苦日 敗事多因得志時」とあり、「意」と「志」の違いはあれど、出典は恐らく同じではないだろうか。
渋沢が書いた言葉は「苦難を乗り越えてこそ成果を出せる、そして調子に乗らずに気を引き締めていくように」と小林にエールとともに警鐘を鳴らしているとも捉えることができる。
渋沢の揮毫は聖州義塾で大事に飾られ、第二次世界大戦の混乱を経て今も遺族によって大切にブラジルで保管されている。
(追記:小林美登利と渋沢栄一の関連資料については渋沢史料館並びに国立国会図書館に大変お世話になりました。この場を借りて改めて篤く御礼申し上げます。)
(2022年1月23日投稿、次回は2022年2月投稿予定)
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