日本の渋沢栄一とブラジルの小林美登利(4/5)
小林美登利が渋沢栄一と会ったのは他ならない、聖州義塾の活動拡大のための資金調達のためである。
渋沢が数回も小林と会ったのは、事業についての説明はもちろん、小林はどういう人物かを見定めるためであったであろう。
小林が募集していた金額は当時の十万円、現在だとおよそ1億7千万円にあたる。渋沢の協力なしではまず不可能だったに違いない。
渋沢はまず外務省当局にこの件について当たったところ、外務省としては表立った動きは取れないので、民間有力者の協力を願いたいとの答えが返ってきた。
次に渋沢は7月11日に東京銀行倶楽部で日米関係委員会小委員会を開き、小林の件について協議した。出席者は渋沢をはじめ、元大蔵大臣の阪谷芳郎男爵(のちに子爵)、福沢諭吉門下の実業家であった藤山雷太とジャーナリストで元衆議院議員の頭本元貞、幹事として小畑がついた。
ブラジルに関する問題を日米関係委員会で議論するのは場違いではないかと、違和感を覚えるかもしれないが、渋沢は全く関係がないわけではないと主張した。「特に北米移民問題も最初から準備してかかっていれば、今日の様な結果にはならなかったであろうと思う時に、前車の覆るは後車の戒なりという諺もあるので、南米に於ける移民問題の将来につき今より適切な方法を講じ置くべきではなかろうかと思いまして、ブラジル・サンパウロ市の聖州義塾塾長小林美登利氏の提案に共鳴したわけであります」と発言した記録が残っている。
注目すべきは渋沢が積極的に小林美登利の肩を持っていることである。小林がそれほどの人物であったのだろう。
一方、他の委員はかなり消極的な態度を示している。頭本、阪谷と藤山は南米問題なら南米を扱っている移民協会などの団体に任せ、渋沢を含む日米関係委員会は表面に立たずに単なる賛成者としての立場を貫いた方が当然と主張した。
それを受けて、渋沢はまず頭本に当時の通商局長であった武富敏彦に会議の内容について相談するようにと依頼した。武富もやはり、外務省にてはむしろ小林氏の事業に同情を表し過ぎたと思うくらいに色んな援助をしたので、かくなる上は純民間有志の尽力として何らかの援助を与えたらいいのではないかと返答した。
よって渋沢は個人として小林美登利の事業に寄附したのみならず、多くの有力者に小林美登利の紹介状を送り、小林の事業への賛助を募った。記録によると渋沢が紹介状を送った人物の中には
古河財閥3代目当主の古河虎之助
元東京貯蓄銀行取締の原邦造
服部時計店(現セイコーホールディングス)創業者の服部金太郎
丸文通商創立者の堀越善雄の父に当たる堀越店代表3代目堀越角次郎
森村財閥の7代目森村市左衛門
片倉製糸紡績株式会社(現片倉工業株式会社)の副社長を務めた今井五介
大倉財閥2代目総帥の大倉喜七郎
鐘淵紡績(のちのカネボウ株式会社)社長の武藤山治
大川財閥を築き、「日本の製紙王」と呼ばれた大川平三郎
三井財閥総帥の団琢磨
の名前が確認できる。そのほかにも博文館創業者の大橋新太郎、日本郵船株式会社社長の各務鎌吉と稲畑産業の稲畑勝太郎などに紹介状を送っている。
(2022年1月16日投稿、毎週日曜日更新予定)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?