摂食障害寛解までの道③入院生活、退院~大学院入学まで

この記事では、私が摂食障害の症状を強く抱えていた時から今までの気持ちの変遷、症状の変遷を書いていきます。読んでほしいのは、主に今摂食障害に苦しんでいる人、その家族や友人や恋人。後半になったら、摂食障害に限らず、何らかの“生きづらさ”を感じている人も、もしかしたら少しは参考に慣れるかもしれません。
あまり楽しい話ではないですが、少しでも”自分だけじゃない”、“自分も抜け出せる”そんな前向きな気持ちを持つ一助になれたらうれしいです。
摂食障害寛解までの道①:LINK
摂食障害寛解までの道②:LINK

入院生活~退院まで

まずそもそも、入院には大きな費用が掛かります。
だから、お金をかけてでも救い出そうとしてくれた家族には本当に感謝しているし、今摂食障害に苦しんでいる人の中には、入院費用を出すことを躊躇してしまう方も多いと推察します。
でも、勇気を出して短期間でも入院することを視野に入れてもいいのでは、と思います。無理やりにでも、毎日ちゃんと自分の体とご飯に向き合わざるを得ない環境に身を置くことに、私はとても助けられました。

入院してすぐに、基礎代謝や骨密度などの検査をさせてもらいました。
基礎代謝は常人の3分の1程度、既に骨密度は低く、軽度の骨粗しょう症と診断を受けました。
改めて、自分が“常人ではなくなってしまった”という事実に悔しさと恥ずかしさを感じたなあ。

そのあと、栄養士さんとの面談で「どんなものを食べるのに抵抗があるか(何であれば食べられるか)」を相談させてもらったと思います。
まずはきちんと体内に栄養を吸収させることが第一なので、お肉はまだ抵抗があるとか、ごはんは一口大から始めたい、とか、色々わがままを聞いてくれました。(もちろん摂取カロリーの下限はあるので、制限物が多いと、その分高カロリー飲料などを飲まなくてはいけないそうですが…)

私は摂取カロリーが増えることだけがとても不安だったので、摂取カロリーの上限だけわがままを言わせてもらっていました。
食事全体のカロリー上限が決まっている=「安心して食べられる食事」は久しぶりで、とてもリラックスして食べることが出来ていたと思います。

入院生活のことはあまり詳細に覚えていないのですが、①食べているうちに段々と体が暖かくなっていったこと、②家族がとにかくたくさん顔を見せに来てくれたことは強く印象に残っています。

気持ちも前向きに穏やかになって、家族とも少し笑顔で話せるようになって。母親が訪問するたびに、泣きながら笑って元気になってうれしい、と言ってくれました。
私も母が久しぶりに笑顔を向けてくれたことが嬉しくて、ちゃんと治したい、一緒に家族でご飯を食べたい、と心から思えて、
ああ、もう退院しても大丈夫、一人で治せそうだな、と思えた時は本当にうれしかったな。

「社会に出て働く」ことへの恐怖

元々治るまでの長期入院ではなく、治すマインドをつけるための短期入院だったので、私は下限体重に達してすぐに退院することになりました。

入院生活のおかげで「きちんと食べよう」という気持ちはしっかりついたのですが、やはり一人になると食べ物を見ること、食事をすることはとても緊張するイベントでした。

食べるのがしんどい状態で何かをすることは、想像以上に骨が折れます。
退院したころから、徐々に就職活動も始まり始めていましたが、摂食障害という“失敗”を経験した私は「自分が社会に出て、人と協力して働くなんて絶対にしちゃいけない」としか思えず、就活はとてもしんどかったです。

面接で話している外向きの自分と、家に帰って一人摂食衝動と戦う内向きの自分。あまりにかけ離れすぎていて、更に自分への肯定感が削られる日々でした。

面接に受かったら「でもあの面接官の方は私がこんな奴だって知らないもんね…」と落ち込み、面接に落ちたら「ああ、どこかで自分のダメなところを見透かされてたんだ」と落ち込む。

もう非常に面倒くさい女でした。(笑)
今、同じように、もしくはもっと重篤な症状で、就活やママ業、仕事、介護、いろんなことを並行してやっている人はとてもしんどいと思います。

「まともに食べることすら出来ない自分が人様に何が出来るというんだ?」って思いつつ、
「今まで失敗して迷惑かけ続けてきた分、何か存在価値を作らなくちゃ」って焦っちゃいますよね。少なくとも私はそうでした。

日本語教育との出会い

そんな時、日本語教育の世界に出会いました。

摂食障害に足を取られて大学生活に後悔しかなかった私は、「せめて何か、ちゃんと向き合える勉強に打ち込んでから大学を卒業したい」と焦っていました。
シラバス集をパラパラめくっていた時に見つけた「移動する子ども」という目新しい授業名が目を引き、「ちょっと見てみるか」くらいのかる~~い気持ちで、初回授業に参加しに行ってみたのがきっかけです。

その授業では、日本語教育者である先生が招待した「移動する子ども」、つまり多くの国や言語をまたいで移動を重ね、自分の“母国”や“母国語”といったアイデンティティに主観的な揺れを持つ人たちを招いて、お話を聞くのがメインコンテンツでした。
「ことばとは、アイデンティティとは何か」「そのアイデンティティに対して揺らぎ・不安を持たず、自分の強みとして捉えられる子どもを育てる教育とは何なのか」などをディスカッションしていく…という説明を受け、
「自分が何に所属する何者なのか」に迷う、どこか自信のない子どもの姿を勝手に想像し、何となく勝手にシンパシーを感じて、授業履修を決めました。
初めて大学で「もっと勉強したい」と思える学問に出会えたことがとても嬉しくて、
言語能力やアイデンティティの揺らぎのために自信が持てず承認や愛情や注目を求める子どもの姿に「もっと主体的にサポートしたい」と思い、
日本語教師になろう、と大学院進学を決めました。

これも自己満足の、「逃げ」の進路選択でしかなかったかもしれません。

就職して、普通の企業で働くのが怖い。
何も得ないまま、せっかく行かせてもらってた大学を卒業するのが怖い。
そして、自分と同じように、自信がなくなってしまっている人に何かしたい。自分でも何かが出来るのだと思いたい。
そんな欺瞞を合わせて、私は大学院進学を決めました。

ただし、結果として、この大学院進学で自分が大きく変われた。
本当に進学してよかったと思っています。

だからこそ、たとえ逃げだったとしても、社会のよくある流れに身を任せて走り続けず、立ち止まってみる、振り返ってみることも大事だと、今は心底思えています。

次はこんなことを書くよ!

大学院生活の中で変わったこと、変われなかったこと、就活、そして今の生活までを描きたいなと思います。

赤裸々に語ることがどこまで誰かの力になるのか分からない。
けど、私が今までいろんな人のブログに助けられていたように。
そして自分が自分の生き方を整理して、ありのままを受け入れて、変に気張らず進めるように。
最後まで書ききりたいなっと思います。


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