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思考力を鍛える新書【第38回】チェ・ゲバラとは何者か?

連載第37回で紹介した『岡潔』に続けて読んでいただきたいのが、『チェ・ゲバラ――旅、キューバ革命、ボリビア』である。本書をご覧になれば、ゲバラの39年間の生涯とは何だったのか、なぜ彼は「手術するメスを銃に」替えたのか、彼が最後まで追い求めた「世界革命」とは何だったのか、明らかになってくるだろう。

著者の伊高浩昭氏は、1943年生まれ。早稲田大学政治経済学部新聞学科卒業後、共同通信社に入社。世界百以上の国と地域を取材して、編集委員を務めた。現在は、立教大学ラテンアメリカ研究所学外所員。専門はジャーナリズム・地域文化論。とくにラテンアメリカに関する研究で知られ、『キューバ変貌』(三省堂)や『ボスニアからスペインへ』(論創社)などの著書がある。

昨年の夏、カリフォルニア大学ロサンジェルス校を訪ねた際、チェ・ゲバラの顔写真をデザインしたTシャツを着ている学生を見かけた。ベレー帽を被って長髪と髭がトレードマークのゲバラの顔写真の下には「REVOLUTION」と書いてある。彼は、「革命」をアピールして着ていたのか、あるいは単なるファッションだったのか。

大学近くの壁にも、ゲバラの顔が描かれていた。そこには、スペイン語で「CHE VIVE」(チェは生きている)という落書きもあった。そもそもロサンジェルスは歴史的にスペイン領だったことから、今でも人口の半分近くはヒスパニック系で、英語よりもスペイン語が通じるくらいだ。そしてゲバラは、彼らの「英雄」なのである。

エルネスト・ゲバラは、1928年5月14日、アルゼンチンのサンタフェ州ロサリオ市に生まれた。幼児期から喘息の持病があり、読書が好きな利発な少年だった。父親は「12歳にして18歳くらいの教養がある」と喜んだという。国立ブエノスアイレス大学医学部に入学し、図書館で10時間続けて読書するほどの勉強家になった。

大学では、身体を鍛えるためにラグビーを始めた。23歳のゲバラは、ラテンアメリカ各地を放浪し、ペルーのマチュピチュで古代インカ文明に圧倒されると同時に、原住民のインディオが支配層のスペイン系移民から徹底的に虐げられている光景に衝撃を受けた。アマゾン流域に隔離されたハンセン病棟では、素手で患部を診察した。感謝した患者たちが、アマゾン川を下るためのイカダを作ってくれたという。

大学に戻ると猛勉強して学業の遅れを取り戻し、卒業して医師免許を取得。メキシコの総合病院アレルギー研究所に勤務しながら、どうすれば弱者を貧困や差別から救済できるか考え続けた。そこで彼は、キューバから亡命してきた弁護士フィデル・カストロと出会い、意気投合する。彼は、反乱軍の医師になることを決意した。

当時のキューバは半植民地状態で、独裁者バティスタがアメリカ政府と利権を分け合っていた。砂糖業はアメリカ企業、カジノや風俗業はマフィアが独占し、キューバ人は、あらゆる意味で搾取されていた。1956年12月、カストロとゲバラら82名の反乱軍兵士がキューバに上陸し、マエストラ山脈を拠点にゲリラ戦を開始した。キューバ人は、ゲバラの口癖だった「チェ」(ねえ)を彼のあだ名にした。

1958年5月、300人の反乱軍は120,000人の政府軍に取り囲まれて、絶体絶命の危機に陥った。参謀に昇格したゲバラは、政府軍から略奪した無線と暗号表で偽情報を流し、政府軍を大混乱させた。市民の助けもあって、反乱軍は奇跡的に勝利した。ゲバラは、戦闘後には敵味方の分け隔てなく負傷者を治療した。彼を慕って、政府軍から反乱軍に加わる兵士も多かった。1959年1月、「キューバ革命」が成立した。

カストロ政権で、ゲバラは国立銀行総裁や工業大臣の要職に就いた。それでも奢ることなく、暇があると農家のサトウキビの刈り入れを無償で手伝った。だが、ソ連の介入を許せなかったゲバラは、1965年4月、キューバ国籍を放棄して立ち去った。

私はチェを「キューバ革命の偉大な副産物」と位置づけている。しかし本人は、それに留まらず、運命に後押しされ、時には運命に引きずられて生き急ぎ、死地に赴いた。だがチェの死は、ボリビア軍部やCIAの思惑を大きく裏切ってチェに永遠の生命を与え、チェを無限大に膨らませた。(p. 295)

なぜゲバラはキューバを去ったのか、「世界革命」を求めてコンゴとボリビアに行き、CIAに謀殺された彼の最期を知るためにも、『チェ・ゲバラ』は必読である!

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高橋昌一郎
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