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この違和感の正体

先日(何ヶ月も前)、社員旅行が催された。
ベトナムでは、社員旅行が福利厚生として非常に重要だそうで、ほとんど全社員が家族帯同で参加する。
私は猫のお世話を理由に参加しなかった。

私がベトナムで働くことになった時、仲間たち(猫5匹)を連れて行かないという選択肢は無く、また、海外へ出るにしても、日本からその国へペットを入国させることが難しい国であればそこに住むことは選択しない(オーストラリアなど、必要な手順に隔離期間が定められているようなところ)。
夫のように、自立した人間で、自分の意思で物事を決められる立場にあり、それを伝えることができれば、相談して一緒に物事を決めていくことができるが、彼らはそうではないのである。

親ガチャに近いもので、飼い主を選ぶことはできないし、人間のように、成人すればあらゆることの裁量権を持てるというような日は一生来ない。
飼い主(≒親)のライフスタイル内での生活はマストとなる。
そして飼い主(≒親)としての責任は、彼らを健やかに、死ぬまでなんの心配もしなくて良いように育てていくことが、マストであると私は考えている。


社員旅行に参加しない旨と、社員旅行<家族(猫)である旨をアドミンのマネージャーに伝えたところ、かわいそうと言われ、ペットを預かってくれるところに預ければ?と言われた。
その時点でとても違和感を感じた。
そういう場所に対応できそうな猫もいるけど、そうじゃない猫もいるから、やめとくと伝えたところ、いくつかのペットホテルのリンクが送られてきた。

そして、説得部隊がやってきて
ベトナムでは猫はネズミを捕えるために飼うもので(そういう概念で飼っていない人もいると思う)、云々と私が社員旅行に参加しない理由が猫にあるなら、選択肢はあるというようなことを話すのである。

結構なことである。
価値観の違いで、ネズミを捕まえるためかなんか知らんけど、そういう考えであって、またその考えが多数派だというならそれはそれで結構である。
そういう考えからすると、留守にするからといってペットホテルに預けるという行為は、十分に大切に扱っていると言えるし、何もペットホテルに預けることが悪いとも思わない。

ただ、私がそういう考えの持ち主ではないだけで。
なんらかのハプニングでペットホテルから脱走してしまう危険性や、異国でそんなことになった場合、私に探し出せる力はないと思うし、どの程度施設が責任を負ってくれるのかもわからない。
そもそも何年も一緒に暮らしている私から見て、その適性がなさそうだと、ストレスに感じさせたくないという判断で預けないという選択をしたまでである。
だから説得部隊の彼らには、
選択肢がある中から私はこの選択をしたので、選択肢が無いとは思っていない。
社員旅行を楽しんできてください。
と伝えた。

渡航時に使うキャリーは利用頻度は少ないが、
折に触れ、個室として利用されている。
案外ペットホテルもいけるかもしれない。


ベトナムに限らず、ペットはあくまでペットであると、所有物として扱うという感覚は広くあると思う。
現に日本の法律上、ペットは物として扱われている。

私は活動家でもないし、動物のスペシャリストでもないので、会社の人や世間の人々に対してペットは物ではない!と訴え、動物の命の価値観が向上するような働きかけはしていない(もちろん賛同はしている)。
近しい人と、ペットの扱いについて過激に議論する程度である(してるんかよ)。

ペットが物であるなら、自分の物は大切にするべきではないのか。
高価な時計を購入すれば、常に身につけ(コレクションとして自宅で大切に保管するかもしれない)、磨き、壊れれば修理し、きちんとメンテナンスするのではないか。
ましてや、ペットには命があり、生きているのである。
愛玩動物(ペット)として、ものと同じように大切にされるプラス愛されて然るべきだと思うのである。

しかし私の大切にする方法や愛し方について、それが正しいかどうかはわからないし、仲間たちがそれで満足しているかもわからない。
だからペットの扱い方について、これは良いこれは悪いと指摘するつもりもない(虐待とかは別)。
それは国や個人の背景も大いに関わってくることであり、人に対しての整備がまだまだ行き届かない以上、動物が二の次になってしまっている現状があると思うのである。

多様性を受け入れるということは、自分とは異なった価値観を認め、尊重し合うことだと思う。
今回の社員旅行の件で、私が感じた違和感は、
私が社員旅行に行かないことをかわいそうだと決めつけ、ペットに対する考え方について言及した一連のやりとり(実際には3日ほどかかった)が、彼らの感覚にしか基づいていないもので、それが正しいと疑っていなかったことだ。
そもそも社員旅行の参加不参加は自由であり、だから本気でかわいそうと思っているのだと感じたし、私を社員旅行に行かせてあげたい親切心だったのだと思う。
良かれと思ってというやつなのである。


社員旅行に行くことが、重要であり、楽しみである人たちの価値観は尊重している。
しかし私には社員旅行よりも猫たちが重要であり、そのことは伝えていたので、行けないことがかわいそうではないし、ペットに対する考え方も人それぞれでいいのではないかということだ。

あなたは社員旅行に行きたいか?という問いかけがあり、とても行きたいけど猫の世話で行けないという回答があり、それはかわいそうにという結果ならなんの違和感もない。
良かれと思って、ではなく、良いかを確認する方が、確実な結果を得られるのではないか。
今回は会社内の関係者が絡んだが、男女の関係、家族関係、友人関係など、あらゆる交友関係において、こうだろうああだろうで物事を進めることはすれ違いを生む。

ハラスメントなどはその最たる現象ではないだろうか。
そんなつもりじゃなかったとか、
そんな風に思われると思ってなかったとか、
そんなこと言われたらもうなんも言われへんわとか。
いや、聞けばええやん。
というか、自分の基準で人の気持ちを判断してしまうならいっそ何も言うな(極論)である。
(※あくまで私の思うところ)


私には他人の全てはわからない。
他人にも私の全てはわからない。
わからないから尊重し合い、受け入れ合いたいのである。

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