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モモ(ミヒャエル・エンデ作)とアフターコロナの都市

先日NHK 100分de名著でモモ(ミヒャエル・エンデ 作)が取り上げられていました。本作の主題の一つは「時間」ですが、これはリモートワーク等により時間の使い方に変化が訪れているウィズ・アフターコロナ社会においても大きな示唆を与えると思います。

そこで、改めてモモを題材にアフターコロナの都市について再考してみると、非常に面白かったので、記事にしてみました。
※以降では 大島かおり訳を元にしています。

あらすじ

時間どろぼうと、ぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子のふしぎな物語です。

主人公のモモは、年齢不詳の浮浪児の女の子ですが、不思議な「聞く力」を持っており、友達と一緒に楽しく暮らしていました。

ところがそこに、「灰色の男たち」が現れ、都市に住む人々に対して、「時間の節約と効率化」をひそかに説くのです。

やがて人々は、豊かな暮らしのために必死に時間を節約するようになり、おしゃべり等無駄なことに時間を使うのは辞めるようになり、子供たちも遊びを辞めて勉強を強要されるようになります。しかし、実はそこで節約した時間は「灰色の男たち」に盗まれていました。

一方でモモは世界の時間を司るマイスター・ホラに時間の意味を教えられ、その豊かさ・美しさを知ります。そして、時間泥棒の「灰色の男たち」から人々の時間を取り戻すことを決心します。

エンデの言う『時間』とは?

時間をはかるにはカレンダーや時計がありますが、はかってみたところであまり意味はありません。というのは、だれでも知っている通り、その時間にどんなことがあったかによって、わずか一時間でも永遠の長さに感じられることもあれば、ぎゃくにほんの一瞬と思えることもあるからです。
なぜなら、時間とはすなわち生活だからです。そして人間の生きる生活は、その人の心の中にあるからです。(p75)

つまり、エンデのいう時間とは、主観的な時間であり、人々の「生活」そのものであり、「心の中にある」といいます。モモに描かれる「時間どろぼう」は、人々の過ごす「生活」と「心」を奪っているという見方もできます。つまり、この本では、人々は日常をどのように過ごすべきか、この価値観を主題の一つとしているのです。

 光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのとおなじに、人間には時間を感じ取るために心というものがある。そして、もしその心が時間を感じ取らないようなときには、その時間はないも同じだ。(p.211)

 これは、時間を司るマイスター・ホラのセリフです。ホラは、時間を「感じない」ものは、ないと同じと言います。これは、「豊かな時間(生活)」ではない、といえるでしょう。例えば、こんな生活です。

 仕事がたのしいかとか、仕事への愛情をもって働いているかなどということは、問題ではなくなりました。むしろそんな考えは仕事のさまたげになります。だいじなことはただひとつ、できるだけ短時間に、できるだけたくさんの仕事をすることです。(p.94)

 多くの現代人は労働を資本にします。労働は、時間を資源にして生まれ、労働の対価として賃金が支払われます。企業は、その労働、つまり時間に対して賃金を支払います。ですから、無駄な時間を省き、効率的に時間を使うことは、現代社会において広く求められていることなのです。しかし、おそらくそのような時間(生活)は、豊かな時間(生活)ではないでしょう。
 エンデは二項対立を強調しすぎているようにも思いますが、行き過ぎた効率化は、逆に豊かな時間(生活)を奪ってしまうというのは的を得ていると思います。

「時間」と「都市」はどう関連するのか?

 さて、時間は、豊かな生活そのもの、と書かれていますが、それでは都市とはどのように関連するのでしょうか。
 都市は生活を反映します。都市は生活のための空間だからです。ですから、エンデの都市描写を読み解くと、都市が生活に呼応してどのように変わったかがわかるかと思います。

むかし、むかし、(中略)りっぱな大都市がありました。そこには王様や皇帝の宮殿がそびえたち、ひろびろとした大通りや、せまい裏通りや、ごちゃごちゃした露路があり、黄金や大理石の神々の像のある壮麗な寺院が立ち、世界中の品物があきなわれるにぎやかな市がひらかれ、人々があつまってはおしゃべりをし、演説をぶち、話に耳をかたむける、うつくしい広場がありました。なかんずく大きな劇場もそういうところにはあったものです。(p11)

物語のスタートは、大昔の、おそらく「豊かな時間(生活)」がおくられていた頃の、豊かな都市空間からスタートします。

それいらい、いく世紀もの時がながれました。そのころの大都市は滅び、寺院や宮殿はくずれおちました。風と雨、寒気と熱気に、医師は削られ穴があいて、大劇場も廃墟と化しました。いまでは、ひびだらけの石壁の中で聞けるものといえば、セミの単調な歌ばかりです。その声は、まどろんでいる大地の寝息のように聞こえます。
 けれどこのむかしの大都市のうちのいくつかは、いまなお大都会として生き残っています。もちろんそこでの生活はすっかり変わってしまいました。人々は自動車や電車で動き回り、電話や電燈を使うようになりました。それでも新しいビルディングのあいだのそこここに、むかしの建物の円柱や、門や、壁の一部がのこっています。そしてまた円形劇場も、あの当時の面影をとどめて残っています。(pp.12-13)

そして、今では大都会となったが、まだ昔の都市空間が残っているというのです。スタート時点では、生活はすっかり変わってしまったが、まだ「豊かな時間(生活)」が残っているということを暗示しているのかもしれません。

 そしてついには、大都会そのものの外見まで変わってきました。旧市街の家々はとりこわされて、よぶんなもののいっさいついていない新しい家がたちました。家をつくるにも、そこに住む人がくらしいいようにするなどという手間はかけません。そうすると、それぞれちがう家をつくらなくてはならないからです。どの家もぜんぶおなじに作ってしまう方が、ずっと安上がりですし、時間も節約できます。
 大都会の北部には、広大な新住宅街ができあがりました。そこには、まるっきり見分けのつかない、おなじ形の高層住宅が、見渡すかぎりえんえんとつらなっています。建物がぜんぶおなじに見えるのですから、道路もやはりぜんぶおなじに見えます。そしてこのおなじ外見の道路がどこまでもまっすぐにのびて、地平線の果てまで続いています。整然と直線のつらなる砂漠です!ここに住む人々の生活もまた、これとおなじになりました。地平線までただ一直線にのびる生活!ここではなにもかも正確に計算され、計画されていて、一センチの無駄も、一秒の無駄もないからです。(pp.94-95)

ここは、「灰色の男たち」が暗躍し始めた後の場面です。人々の生活の仕方や仕事の仕方が変わると、それに呼応して新興住宅街ができて、おなじ景色がすべて計画されて出来上がっているというのです。オールドニュータウンを思い浮かべますね。

はじめモモは、道をまちがえたのかと思いました。入口に小さなぶどうだなのある、雨のしみだらけの漆喰壁の古い家はそこにはなくて、そのかわりに、道路がわ一面にばかでかい窓のついた、よこに長いコンクリートの四角い建物が立っているのです。その道路そのものもアスファルト舗装になっていて、たくさんの自動車が走っていました。むかいがわには、大きなガソリン・スタンドと、そのすぐとなりに、とほうもなく大きい会社のビルがそびえています。(p.255)
ほんとうに高級な住宅地でした。道路はひろびろととってあり、清潔このうえなく、人のすがたはほとんど見当たりません。高いへいや鉄の柵にかこまれた庭に和には、点までとどくほどの巨大な老木がそびえています。庭のおくの家はどれもたいていガラスとコンクリートの横長い建物で、ひらたいやねになっています。家のまえにひろがる、きれいに刈り込まれた芝生は、みずみずしくみどりにもえて、その上でとんぼ帰りをうったらどんなにすてきかと思わないではいられません。でもどこの家でも、庭をさんぽしたり、芝生で遊んだりしている人のすがたは、見かけませんでした。この家の持ち主たちは、きっとそんなひまはないのでしょう。(pp.266-267)

 これも、「灰色の男たち」が暗躍した後の描写です。前段はヒューマンスケールを超えた道路社会の町並みがありありと思い浮かびます。また、後段は、単に空間そのものではなくて、空間の「使われ方」に言及しているように感じます。これは、最後の描写にもつながります。

大都会では、長いこと見られなかった光景がくりひろげられていました。子供たちは道路のまんなかで遊び、自動車でゆく人は車をとめて、それをにこにことながめ、ときには車をおりていっしょに遊びました。あっちでもこっちでも人々は足を止めてしたしげにことばをかわし、たがいのくらしをくわしく尋ねあいました。仕事に出かける人も、いまでは窓辺の美しい花に目を止めたり、小鳥にパンくずを投げてやったりするゆとりがあります。お医者さんも、患者ひとりひとりにゆっくり時間をさいています。労働者も、できるだけ短時間にできるだけたくさん仕事をする必要などもうなくなったので、ゆったりと愛情をこめて働きます。みんなはなにをするにも、必要なだけ、そして好きなだけの時間をつかえます。いまではふたたび時間はたっぷりとあるようになったからです。(pp.350-351)

 最後に、モモが時間を取り戻した直後、ハッピーエンドの最後の描写です。ここで書かれていることは、まさに今政府がウォーカブルシティで実現しようとしている絵姿ではないでしょうか?でも、実はこの最後の描写は、町並みそのものは変わっていないのです。では何が変わったのでしょうか?

 そう、空間の使われ方です。生活に呼応して都市空間は徐々に変わっていきますが、一度失われた都市空間はすぐには戻りません。ですが、「使い方」は変えることができます。そして、このような都市にしていくためには、根源的な所で「時間」の考え方が変わっていかなければならないのかもしれません。
 また、もう一つ、ここに「人」とそのコミュニケーションが描かれています。都市におけるこのような描写は物語のはじまり以来だと思います。『モモ』での豊かな時間には、人と人のコミュニケーションが重要視されているのです。

アフターコロナの都市計画への示唆

 『モモ』は、「時間の効率化」を追い求めることは、豊かな生活を奪ってしまうと考えていたように思います。とはいえ、現代社会や労働文化について批判するのは本稿に求められる役割ではないと思いますので、ここでは今後起こりうる「時間の効率化」に焦点を絞ってみたいと思います。
 「時間の効率化」については、以下の3つの問いを考えることが現代人には重要ではないかと思います。

・「時間を効率化」したときに、私たちは何の時間(生活)を省いているか?それは「豊かな時間(生活)」ではないか?
・省いた時間が、「豊かな時間(生活)」だったのであれば、何かで代替できるか?
・「時間を効率化」して生まれた時間は、どのようなことに使うべきか?
(補足)ここでいう生活には、労働も含まれます。

さて、話はやっとアフターコロナの都市計画に戻ってきます。
 アフターコロナで生活が変わるといいます。おそらくその最も大きな目玉はリモート社会・オンライン社会になることでしょう。新たなテクノロジーが普及してそれが当たり前になったとき、人々は常に効率的な方の選択を迫られるようになります。それが家庭にとっても企業にとっても経済的に優れた選択にもなるからです。つまり、間違いなく「時間の効率化」の波がやってきます。そして、ややもすると都市もそれを受け入れるように変わるはずです。
 しかしながら、単に「時間を効率化」できるように都市システム・都市空間を変えていくのではなく、そのことによって生まれる弊害や生じる機会を考慮した都市計画を、立ち止まって考える必要があると思います。

 ではどうすれば良いのでしょうか?「時間の効率化」は「空間の効率化」に結びつくというのは、強ち間違いではないと思います。ではもし「非効率な空間」を作ることができれば?私は空地にそのヒントがあるように思います。
今後は、具体例を考えつつ、もう少し掘り下げていきたいと思います。

参考

http://sori-yoshida.com/archives/4042
https://note.com/hiroki_hatano/n/nb4c204f66654
https://note.com/audiobook/n/n163a4bf8cda8
https://note.com/tuttlemori/n/nf68faaa30141
https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=64520?site=nli






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