短編小説「あの人」

さよならなんか、言ってほしくなかったのに。

シャンパン何て別に美味しくも無いのに、飲まずにはいられなかった。
ビジネスクラスのラウンジで、こんなだらしない酔い方をしているのは私だけだ。
この後午後のフライトで台北に行くけど、どうせ重要な旅行でも何でもないから、飲み過ぎたってどうって事無い。

シャネルの香水つけ過ぎて、自分の香りにむせる。
あの人はディオールの香水をいい香りだと言ってくれたから、今その香水はつけたくない。
何でもほめてくれた、私が身に着けるものすべて。
メイク、香水、髪型、ジュエリー。
涙がにじんだので、手鏡でメイクを確認する。ヘレナのマスカラが黒くにじんでいる。
顔面をどれだけデパコスで塗りたくって、ハイブランドの香水をつけて、おしゃれな洋服と靴を身に着けて武装しても、心の中にぽっかりと空洞が空いている。
今頃どうしているのだろうか。
あの人の隣で白いドレスを着て笑い、いつか大きなお腹を抱えてベビー用品を微笑みながら見に行く未来もあったかもしれないのに。
もう、そんな事できやしない、生涯。
パスポートの写真に写る自分は、幸せそうに微笑んでいるけれど、本当はそこまで幸せではないという事を、空港の職員は見抜くだろうか。
あの人の隣に居なければ幸せなんかではないという事を。

あの人が居なければ、私の人生、何の意味も持たないという事を。

あの人も知っているのだろうか。
自分が居なくなった後の私の人生は輝きを失うばかりだと。

シャンパンが、どんどん減っていく。
早めに搭乗口に向かわなければ。

飛行機が飛び立つ様子が、ラウンジからよく見える。
見えないのは、私の未来だけ。


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