note創作大賞応募作品 恋愛小説部門 短編小説「29歳」(再投稿)

あらすじ:二十九歳の翻訳家、冷泉エミリはスペインと日本のハーフの美女。
理想の人だった元カレと、理想のやり方で再会を果たすが、彼女には既に彼氏が居て・・・。二十九歳と言う微妙な年齢は、三十を前にして結婚や出産を選択するかどうか岐路に立たされる年齢。果たしてエミリの選択は?


29歳
                              Loca Hermana
 春知らぬ人に思ひを尽くしてもその心には文月の雪


二十九歳って、あぁ何でこんな遠いところまで来ちゃったんだろうって感じの年齢である。昔好きだった人の事を想ったけど、だいたい私はもういい大人だし、狭い部屋でヘッドホンしてキーボード弾いてる男の子を見てたまらない気持ちになったのは多分もうずっと前。深夜に地球の反対側に住んでるあいつの事を考えて爽やかな朝の動画を送られてきて何だかよく判らない感情に襲われたのもずっとずっと前の事。
人様の恋の話はもう聞き飽きたって感じだけど、でも私はもっと特別なやり方で誰かと関わる事をしたかったのに、理想は絶対的に叶わなかった。十七歳の時にはもう自分の求めてる理想があったのに、実はとっくにもう理想は売り切れてて手に入らなかった。
夏休み中にお洒落なブックカフェで本棚越しに君の横顔を見つめる恋はレモンイエロー、みたいな恋がしたかったのにさ、十七歳で。でも私はもう二十九歳だし、紅い口紅に紅い靴履いて誰かの心を狂わせる恋は燃えるレッドでした、なんちゃって。
 あぁ、いつの間にかこんなに遠くまで来てしまった。
書店の洋書コーナーで、ソファでコーヒー飲んでる年配の人を横目に見ながら大きな英語の辞書を眺めて、あの辞書に書いてあるどんな言葉で君を想えばいいんだろうって、そういう恋がしたかった。そういう恋がしたかったし、そういう恋を探してきたつもりだったし、結局のところ広い空間も、大きな辞書も、苦いコーヒーもあのおじさんのメガネも何にも私の恋には出てこなかった。
私の恋に出てきたのはいつも、強めのお酒と危険な助手席、深夜の長電話、ときめかせるメッセージ、目を閉じて思い出すのはパステルカラーのアイコン。これらだって十分悪くないけど、でも私はやっぱり夏目漱石の本棚の所で同じぐらいの斜に構えてる視線で本を吟味してる君と出会って、森鴎外の意味なんかとっくに判ってるって感じで、ピサの斜塔の角度の計算なんか考えても居ないですって顔で澄まして紅茶をすする訳。そういう人が好きなのに、そういう人は私の人生には現れないし、現れても手に入らないからただひたすら小説の中にそういう人を登場させるしかない。
私の人生に現れたのはライトノベルを純文学だと思ってるような男だからいつまで経ってもそんな奴の為にボトルワインを頼む気にはなれず、私はずっとグラスワインをあれこれ頼んで飲み干す毎日だった。
 かくして、昔夢見たレモンサイダーは赤ワインになったし、十七歳は全然十七歳じゃなくて二十九歳だったけど、今となってはどうでもいい。だって私はもう十七歳じゃないから。私は二十九歳だし今更誰かの奥さんになるという事にすらもう興味が無いし、そんな事どうだっていいから。
二十二歳の時に付き合ってた男の子はまさに私の理想通りって感じだったのに、どうしてあの手を離しちゃったんだろう。昨日あいつが夢に出て来たけど、もう今更どうしようもないんだよね、もう二十二歳じゃないから。日本酒の味も夏目漱石の何たるかも知ってる男の子だったのに、説明すれば辞書の中の言葉を探す事もイパネマの娘の意味だってきっと判ってくれたのに、だけれども私はそれをしなかったし、二人は永久にお互いを失ってもう戻ってこない二十二歳の冬。車の上にはどっさりと冷たい雪が積もって、サングリアの上に飾られたコットンキャンディみたいで馬鹿馬鹿しかった。今頃どうしているのだろう、そんな事すらもうどっちにも知る権利が無いのに。
わかりやすいバカップルは皆の憧れの的だけれど、私が好きなのは深夜に部屋の隅で誰も知らない洋楽のラブソングを聞いて君の事を想う恋。そういう恋も何回かしたけど、もうそういう恋ができるとは到底思えない。
だいたい二十二の時に付き合ってたその彼だって、もはや私の手をすり抜けて行ってしまった。あれからどれほどの年月が経ったかも計り知れないぐらいなのに、私の心はどこかで彼に似た誰かの事を探しているような気さえしてしまう。
私の事を口説いてくる男は後を絶たないけど、私の心を鮮やかに奪えるほどの人は居ないから、もしそんな度胸がある人が居るなら場所は絶対的に本屋。舞台は書店以外有り得ない。
もし本屋の夏目漱石の所で危険なまなざしですれ違っても、私の事は口説けない。でも思い出して欲しい、分厚い辞書の中からどうやって私を想う言葉を見つければいいのか、探して、言葉を。思い出して欲しい、言葉を、私を。

 お気に入りの書店は最寄り駅の目の前にある老舗の百貨店の中にあって、まるで自分の庭みたいにその本屋さんの中に居る時は楽に呼吸ができた。
 十七歳の時、私の心を鮮やかに奪った人が居て、だけれどもついぞその人と結ばれる事は無かったし、無論この本屋さんで口説かれる事も一ミリたりとも無かったのだ。十七歳から二十九歳まで、私は成長と共にどんどん魅力的になったが、この書店に似合うだけの教養のある人には出会えなかった。付き合った何人かの男はこの書店にデートで連れて来たし、幼い頃から来ている思い入れのある場所だと告げても、私が手に取る分厚い書籍の、細かく美しい装飾ではなく、綺麗に化粧が施された私の顔や、黒いワンピースに包まれた体の中、これまた黒い上下の下着を取り除いた肌を見る事しか頭に無かった。もしくは紅いヒールを履いた脚ばかり見ていて、私が話すどんなに知的な内容も頭に入ってこないような奴ばかりだった。
 何故本屋で恋をする事に意味があるのか、そこに何の意味があるのか、それすら判らないような奴ばかりで、私はデートで書店に来るのも辞めてしまっていた。大卒だろうが院卒だろうが、彼らには教養と言うものがまるでない。厚い辞書を見てこの中のどんな言葉で私を口説けばいいんだろうって、それを考えてもらえたら、本当に相手の事が好きだと判るのに。私が欲しいのは心だ。ブランド物とか高いレストラン、ドライブデートじゃないのに、誰もかれも判っちゃいない。
 その日私はデートから逃げ出してきたところだった。半年前から付き合いだした恋人・洋(ひろし)から高級フレンチレストランのランチデートに誘われ、出向いたら彼の様子がどうにもおかしい。服には無頓着なのに、こ洒落たジャケット姿で、なんだかおかしいとずっと思っていた。部屋も個室で、まるで隔離された気分。料理のコースが進んでいくにつれ、洋は緊張しており、私は暗い顔になった。きれいに仕上がった顔が、華やかなメイクとは正反対に暗いのを見て、洋は慌てふためいていて、時折料理を運んでくるスタッフさんに何か耳打ちして相談していて、それを見る度に私の口角はどんどん下がった。
 残すメニューがメインのお肉と、デザートだけになった時、その日私は元々あんまり食欲が無く、コースを食べるのに適していない状態だった。ただでさえそういう状況なのに、不審な様子な洋を見ていて彼の良からぬ企みはますます私から笑顔を奪った。洋がそそくさとお手洗いに立った後、女性スタッフが腕に抱えきれないぐらい大きなバラの花束を持って入ってきて、私の顔を見てしまったという表情になる。
 愕然とした顔でその花束を見て、私は状況を完全に理解した。女性スタッフが慌てて個室から引っ込んで行ったのを見て、洋が戻ってくる頃にはきっと、あの花束を持って、ダイヤの指輪を私に渡すだろうと容易に推理できた。
 洋がぎこちない表情で戻ってくると、彼のポケットは不自然な形で膨らんでいて、どう見ても指輪の箱が入っていた。メインの料理が来る前に事を終わらせようと考えているのは明らかである。
 私はハンドバッグを手に、立ち上がると笑顔で言った。
「ごめんね、ちょっとお手洗いに行ってくる」
 荷物はそれだけだったので、私は華麗に現場から逃走する事に成功した。トイレに行くと言うと洋は笑顔で頷いた。個室を出て、トイレには行かず、レストランの受付を通る時にスタッフに向かって自分の名前を名乗り、急用ができたので帰るが支払いは連れがするのでと伝えて、怪盗みたいに堂々と逃げた。
 レストランを出てタクシーを拾って本屋に向かっている間中ずっと、どうして洋じゃ駄目なのか考えていた。洋は優しいし、真面目だし、安定した仕事をしているし、身長も百七十センチある。洋の事は好きだ。だけど、好きってだけだ。あの人の奥さんになるために生まれてきた訳じゃない。でも、多分そういう事じゃないのだ。そういう事じゃない。結婚したくないとかじゃなくて、そういう事じゃないのだ。あの人の妻になりたくない。洋は大卒で頭も悪くないけど、夏目漱石の何たるかも知らないし、第一お酒も一滴も飲めやしない。バーで私を口説いた事も無くて、告白されたのは真昼間のカフェだ。
 そういう事じゃない。
 一人、首を横に振る。判ってもらえないのは判っている。説明しても誰も理解できないだろう。でも、とにかく、無理なのだ。
 いつものように洋書のコーナーの、すぐ傍でコーヒーを飲んでるカフェの客が見えるところまで行って本を眺めていたら、私がずっと前に忘れて行った筈の、二十二歳のあの冬に、終わった筈のすべてがそこに居た。二十二歳の冬に別れた男の子。
 駿(しゅん)。
 すれ違った二人はもう既にあの時程手放しで若いと言える筈の年齢ではなかったけれど、あの時見ていた横顔は二十二歳のままで、どうしてあの時手放しちゃったんだろうという手も何もかも昔のままで、私は本を落っことした。
 駿は彼自身も手に取っていた本を棚に戻して、驚愕の表情でこちらを見て見下ろしてきて、それが私達の再会だった。どうしてここに居るのかという馬鹿げた問いはしないままで私と元恋人は七年ぶりに再び会った。二十二歳は共に二十九歳となり、失われた七年間は二人をあまりにも色っぽく成長させていた。
 つまり、私達二人は二人ともに魅力的になっていたという事であり、それは互いに釘付けのまなざしからしてそう思わずにはいられなかった。多分。
 この劇的な出会いをした私は、未だかつてやってのけた事の無い事をやる事にした。私はすぐ横のカフェスペースを指さして、
「・・・・とりあえず、コーヒーでも飲みながら話さない?」
 と問いかけた。この書店には何度も何度も何度も何度も何度も、恐竜が死んで骨になって化石になるぐらい長い間訪れていたけど、本棚の森の奥の、あそこのカフェだけは何となく敷居が高くて足を踏み入れた事が無かったのだ。お客さんの中に若い人が居なくて年配者ばかりというのもある。
 別に、お茶するだけならそれこそ駅の中にあるスターバックスでもいいだろう。というかそっちの方がよっぽどカジュアルさがあって、緊張しなくていい筈だ。でも、今の私達、七年ぶりに再会した私達、七年間というあまりにも長い時間をそれぞれ独自に積み重ねて来た私達、まるで地層、地層にスタバを使えって?ご冗談を、それじゃあまりにも今は魅力的じゃなさすぎる。
「・・・・」
 駿は一瞬黙って考え込んでいたが、彼自身も我々が積み重ねて来た地層について話すには、チェーン店のコーヒーじゃふさわしくないと思ったのだろうか?そうかどうかは判らないが、次の瞬間、
「じゃあ、そうしようか。ここに入ろう」
 と同意した。かくして、書店で運命的に再会した二十九歳二人は今まで一度も足を踏み入れた事の無い場所へいざ出陣。
 カフェへ。
 店に入るとぎこちない二人はぎこちなく注文を済ませると再びそこにはぎこちない時間が漂って空に消えそうな程で、間もなくコーヒーと紅茶がそれぞれの元へ到着するまでの数分間、男と女はぎこちなかった。
「・・・元気、だった?」
 コーヒーを一口飲んだ彼が消え入りそうな声の大きさで聞いてくるから、こちらも紅茶を一口飲んで、あらこれ美味しいわね。
「うん、元気よ」
 オーディションぎりぎり通過できそうな愛想の良さで答えて見せると彼がほっとしたような顔になったので何故か腹が立つ。
「今どうしてるの?」
 確か駿は大学院の修士課程を卒業して、そのまま博士課程に進んでゆくゆくは研究者として名を馳せる筈の人生だった。順調ならば。
 気まずそうな表情から何かを悟った私は、彼が続きの言葉を言うのを少し待って、その判断は正しかった。
「博士課程まで行ったけど、いろいろあって院は辞めたよ。今はベンチャー企業で働いてる。仕事は忙しいけど、何とかやってるよ」
 院を辞めたのか。別れてから全然連絡取るどころか絶縁してしまったからその後どうしてるか全然知らなかったし知る必要も無かったからどうでも良かったけど。どうして院を辞めた後にベンチャー企業になるのか意味不明だったが。
 私と駿は同じ大学の大学院で出会った。私は文系で、彼は理系。専門分野が全然違うのに、文理が合同でやる講義で出会ったのだ。彼は元々その大学(国立大学だったが)の学部生で、内部進学し、私は別の私立文系大学から大学院受験して入った立場だった。
「で、エミリは?」
 同じ事を聞かれたから、再びギリギリ合格の笑顔を慌てて持ち出して貼り付けて答えて
「院は辞めたの。駿君と別れた後に。いろいろあって。だから私大卒なの。・・・塾講師とか会社員とかいろいろやったけど、今はフリーで翻訳家」
「院辞めたの?何で?」
 ただでさえ大きな目をもっと大きくして聞いてくるから、私は目を伏せる。
 が、次の瞬間、もっと思いがけない質問が飛んできて、顔を上げる。
「・・・・・・彼氏は?」
 彼氏?
 顔を上げてみれば、相手が僅かに熱を帯びた視線でこっちを見つめていた。
 こいつ、何でそんな事聞いてくるんだ?
 落ち着き払って、微笑んで答えた。
「どうしてそんな事知りたいの?」
 温くなった紅茶をすすると、元恋人はもごもご何か言う。
「いやその・・・ごめん、ただ、」
「ただ、何よ」
「綺麗になったなと思って・・・」
 これには私の方が紅潮させられ、思わずうつむいた。
 首元に手をやると、付き合い始めてすぐに洋からプレゼントされたシルバーのネックレスが指に触れた。滴型のダイヤモンドが光る。ダイヤモンドと言っても本当に一ミリも無いぐらいの小さな石だけど。
「そのネックレスは?誰から?」
 訝しがる駿に、私は微笑まずに回答。
「どっちもあなたとは違う人よ」
「え?」
「私を綺麗にしたのも、このネックレスをくれたのも、どっちもあなたとは別の人」
 彼氏が居るとは言わなかった。曖昧な答え方に相手が納得していないのが、コーヒーの飲み方で判る。
 スマホが鳴ったので見てみると洋からのLINEのメッセージ。さっきから何度も何度も何度もメッセージも電話もかかってきていて、それを見て彼への愛情がどんどん冷めてきてしまうのは実に理不尽というものだろう。
 難しい顔をしてスマホを覗き込んでいる私に、駿がおずおずと話しかけた。
「どうしたの?仕事の連絡?」
「もっと難しい問題」
 結婚?
 私は洋と結婚しなきゃいけないの?
 難しい問題が頭をよぎるが、今は目の前にも大問題がある。
 微笑んで無視し、駿を見つめる。
「あのさ、・・・LINE、俺の事、ブロックしてる?」
 おーっと、ところがどっこいもっと厄介な問題だったようです。
「LINE交換しようよ、もう一度」
 ばちっと目を合わせると彼の茶色い瞳はまっすぐにこちらを見ていて、私も負けずに見つめ返すけど、そしたら何も言えなくなる。
「・・・・何で?」
 鋭い質問にもひるむ事無く返してくる元彼女にも誠意見せて答える元彼氏。
「偶然、会った事だし。というかエミリはどうしてあの本屋に居たの?本好きなのは、覚えてたけど」
 私が本好きなのをよく覚えてたわね。
「たまたまよ。駿君は?」
「たまたま、かな。俺も」
 まあお互いのSNSも知らないし本当に単に偶然なだけだったんだろうけどそれにしても怖すぎるし洒落にならない、七年ぶりに元恋人同士が再会するなんて、それ何てホラー映画ですか?
「まあ、いいけど」
 再び七年の時を経て交換したLINEの連絡先のアイコンはあの頃と全く変わっていなくてその事実にくらくらと眩暈がした。ホーム画面は何て事無いどこかの観光先の景色か何かで、とりあえず女の子と一緒の写真じゃなくて安心し、どうして今更安心する必要があるのだろうと自分にイライラした。
「明日飲みに行かない?」
 唐突すぎる誘いが突然聞こえてきてびっくりして顔を上げると彼は頬をローズピンク色のチークと一緒の色合いで誘ってくる。
「・・・いいけど、彼女は?彼女居ないの?」
「そんなの、居ないよ」
 何故か吐き捨てるように言って、気まずそうな表情になる元恋人。
「まあ、別にいいけどね、別に」
 何故だか別にと二回言ってしまう。
「どこ行く?エミリ、何か食べたい物ある?・・・あぁ、エミリは刺身が好きだったよね、俺覚えてる」
「よく覚えてたね」
「覚えてるよ。俺、そういうの忘れられないタイプだから」
「それは不便な能力ね」
「じゃあ、海鮮居酒屋とかでいい?・・・あっ」
 急に駿が声を上げて、困った表情になる。
「居酒屋なんてさ。俺達、もう学生じゃないのにな」
「・・・そうね。まあ、お店選びは任せるから」
「うん、何か適当に探しとく。あのさ、今日の夜、・・・・電話かけていい?」
「明日会うのに、電話するの?」
 呆れて問いかけると、彼は照れくさそうに答えた。
「うん、七年も時間が空いてると、話足りないし。それに、そろそろお店混んできたし」
 確かにお店が混んできたので、私達は席を立った。自分で飲んだ物は自分で会計して、店を出る。
 店を出る時、彼がまだ何か言いたそうだったので、
「今夜連絡して、じゃ」
 とだけ言って突き放すようにしてその場を後にする。どうしようもなく腹が立ってきたからだ。
 彼は今から七年前に私の人生から退場したのに、今になって今になって今になって再入場してきて、チケットなんかとっくに失くしちゃって、入り口に立ってる警備員の私は「そうですねえお客さん、有料のビールでも三倍分買ってもらえればそれでチャラにしますから」だなんてウィンクしながら言うと思った?
 今から七年前の冬に、私は駿を失って、駿は私を失った。彼は何の同意も無しに、私と駿の関係を終わらせる事を一方的に決めて友好条約を破棄して会議室を出て行ったのに、それなのに今更私の人生にもう一度再入場しようと言うの?
 あの時私の心を踏みにじったのに、どうしてそんな事を平気でしていられるの?それとも私に何か言いたい事があるの?未練でもあるの?
 バスに乗って家に帰る間、初めて駿とキスした時の事を思い出す。柔らかい唇と、キスする直前まで飲んでいた赤ワインの渋みが混ざって、何とも言えない官能的な味だった。今まで誰ともした事が無いくらい魅力的なキスに私と駿は虜になって、窒息して死ぬんじゃないかって思うぐらいの長い時間、お互いの唇を貪っていた。唇を離した時、あまりにも長時間酸素を吸っていなかったからくらくらして顔が赤くなって、そういう表情すらもはや官能的にすら感じられて、もっとだもっと、我慢できなくなってしまったあの夜。
 駿は私の理想の人だった。これまで出会った世界中のどんな男よりも魅力的で、頭が切れて、ハンサムで、セクシーで、彼の遺伝子を手に入れるためならどんな事でもできちゃうぐらいの強烈な魅力を持っていて、それに抗う事なんかどこの誰にも絶対にできないってぐらいの、もう完璧な男。
 だから私は抗えないのだろうか?彼と突然再会して、彼の事が忘れられなくなっていた事を思い出して、彼と連絡先を交換して、電話する約束までしちゃって、おまけに明日飲みに行く約束までしちゃってさ、こんなの、
「・・・馬鹿じゃないの・・・」
 と独り言ちた。
 それでも駿の事を考えずにはいられなくって、遂にその日の夜私は電話を待っていたのだった。一人暮らしの自分の家で、夕食を簡単に済ませて、お風呂に入って、風呂上りにつやっぽい着物型ガウンを着る。ちょっとだけ紅を引いて、自分の紅い唇を我ながら素敵だと思う。
 バラの香る香水をちょっとだけつけて、フランス人が書いた本を読んでいると、駿から電話があった。
 通話ボタンを押して電話に出ると、上ずった元恋人の声がした。駿は明らかに、昼間会った時よりも緊張しているようだった。
「も、しもし」
「もしもし、駿君?」
「そうだよ、・・・エミリ」
「うん」
 自分の名前を元カレに呼ばれるのは案外照れくさい。
「駿君」
「うん?エミリ?」
「ううん、呼んでみたくなって、名前、あの時みたいに」
「そっか」
 ずっと他愛ない会話をしていたかったのに、でも、義務みたいに聞き出さなきゃいけないあの頃の真相。
 思い切って息を吸って聞いてみる。
「何で別れなきゃいけなかったの?」
「えっ」
 いきなり聞かれて面食らう駿。
「どうして別れなきゃいけなかったの?私達。あんなに好きだったのに。あんなに好きだったのに別れなきゃいけなかった理由って何?好きなら別れる必要無いじゃん」
「それは、」
 口ごもる駿。
「あんなに好きだったのに勝手に別れておいて、それでもう一度出会って、私はもう何でもないふりしようと思ってたのに、でももっかい私の人生に再入場してきたのは何故?あの時別れたかった理由は何、今もう一度私の所へ戻りたいと思っている理由は何なの?答えなさいよ」
「エミリ、それは」
「答えて。答えてくれないんだったらもう明日飲みには行かないし、これ以上私の人生に侵食するのはこれっぽちも許さない。私はあの時傷ついたままなの、何の解決もしていないのよ、この問題は。答えてよ、あんなに好きだったのにどうして、私を捨てたの?」
「・・・捨てた訳じゃない、ただ、お互い院生で忙しかったろ?」
 絞り出すような駿の声。
「忙しかったら何してもいいの?!忙しかったら捨ててもいいの?!」
「エミリ、それは違うんだ、説明させてくれ」
「じゃあ説明しなさいよ。あんなに好きだったのに、どうしてあんな事、よくもできたわね」
「確かに好きだったよ、エミリの事は」
「あんなに好きだったのに?」
「そうだよ、大好きだった」
 ここで彼は一呼吸置く。
「結婚したいと思ったほどだったよ」
「・・・・・・・・・・え?」
 びっくりするのは私の方だった。
「結婚?」
 だって、付き合っていた時結婚の話なんか出なかったじゃない。というか、あの時私は駿に惚れこんでいて、結婚するならこの人と決めていたけれど、駿の方は博士課程に進んで研究者として成功する事しか頭に無くて、そんな話一ミリも出なかったじゃないの。どうして今になってそんな事言われなきゃいけないの。
「だって、付き合ってた時そんな事一言も言ってなかったじゃん。どうして言ってくれなかったの」
「・・・言おうと思った時には、もう別れようかなと思ったから」
「どうして私と別れたかったの?」
「余裕が無かったんだよ」
 暗い調子で話す元カレ。電話の向こうで、頭をかきむしっている姿が目に浮かぶようだ。
「エミリは、違う大学からうちの大学院に進んできたろ?」
「うん」
「公務員試験の勉強もしてたし。研究も進んで無くて大変だとか、教授とそりが合わなくて大変だとかもいろいろ聞いてたし、力になってあげたいと思ったし、頑張り屋さんで努力家のエミリに心底惚れてた。でも、俺の方も研究が本当に大変で、申し訳無いけど俺は俺で限界だったんだ。もう交際が続いていっても支えきれないって思ったし・・・とにかく、いっぱいいっぱいでエミリの事まで気が回らなかったんだ」
「いっぱいいっぱいなら、それを言ってくれればそこまで待ったのに」
「それすら言う元気も無かったんだ」
「そう・・・・・」
 それを聞いたら、何だかもうそれ以上責める気にはなれなかった。私達は適当に話をした後で、眠くなってきたので、電話を切り上げて眠る事にした。
 鏡を見ながら口紅を落として、ベッドにもぐりこむ時、明日も平日で明日の夜も会うのに、駿君大丈夫かな、こんな遅い時間まで電話して・・・と思った。
 翌朝スマホを見ると、無視しっぱなしだった洋からのメッセージや着信履歴を見て、げんなりした。
「とにかく話をしたい」
 という洋のメッセージを見て、寝起きのぼんやりした頭で考え込む。
 昨日の今日で、私の人生はがらりと変わってしまった。漠然と洋と結婚するのかと思っていた人生に、駿が転がり込んで再入場してきた。これから自分が足を踏み入れるのは危険な世界だと知っているが、それでも私は足を進めるしか無さそうだ。
 パンを焼いて、お湯を沸かす。水槽の中に居る熱帯魚に餌をやって、洗顔をするために洗面所に向かった。


 朝食やら何やら済ませた後、次にやる事、無視し続けていた洋からの連絡を返す。
「とにかく一度話し合いたい」
 と主張し続けている彼に対して返答したのは、
「土曜日の夜に私の家に来て」
 というごくシンプルなもので、それに対しての返事は待たずに私は黙々と仕事を始める。
 パソコンに向かって黙ってひたすら文字を打ち始める、横には大きなスペイン語の辞書と日本語の辞書を置いて、ただひたすらに仕事をする。化粧もしていないすっぴんで、部屋着のゆったりしたワンピース姿で仕事をし、エアコンの効いて涼しい部屋で一人孤独に作業に打ち込む。
 駿と会うのは今夜なので、それまでの間に少しでも仕事を進めておきたい。会社じゃないから誰も私に仕事をしろなんて命令してくれないし、仕事の手を止めて昼ご飯を食べろだなんてもっと言ってくれないよね絶対。
 トイレに立って洗面所で手を洗っていると自分の顔が嫌でも目に入る、どうしてあなたは私なの?鏡に映る自分の顔の異質さが嫌でも目に入ってきて、その度にどうしたらいいのか時々判らなくなる、時々ね、私自分の顔気に入ってるし、まあ、大体は。
 どう考えても日本人じゃない自分の顔の作りは、鼻は高いし目は大きいし、黒いけど親しみを感じない目と太い眉毛、ぼてっとした唇、駿も洋も私のどこに情熱を感じたのだろうと感じずにはいられない。髪の毛は目と同じ意志を持つ黒髪、長く伸ばしたその髪は、一見地味に思えるが派手過ぎる顔つきと相まってだんだんちょうど良くなるお年頃。私の顔は、目も鼻も唇も、どこもかしこも自分を主張しすぎる、濃すぎる。どこまでも強気なぱっちりとした目を、他人に羨ましがられる事もあるけれど、そんな事は自分でどうでもできる部分じゃないので適当に笑って愛想笑いしておく、来年三十路になる女の生きる知恵。唇に血の気が無さすぎるのでリップクリームを塗っておく。
 駿が私を好きになった理由はもしかして外国の血が入ってる者同士だから好きになったのじゃないかしら、と何度も何度も考えてそれを打ち消すぐらいには考えて来た。それか彼の求める女性像が黒髪ロングで色白ではっきりした顔立ちで可愛いらしいものが好きな割とどちらかと言うと女性らしい人だからじゃないかとか思うけど、そんな事思ったところで所詮本人に聞く以外に確かめる方法が無い。
 私の父はスペイン人で母は日本人で、父は永住権を取ってずっと日本に住んでいる。両親と私は私が幼い頃はスペインに住んでいたものの、小学校に入るより前にはスペインの地を離れて日本を終の棲家とする事に決定し、私は時折スペインに連れて帰られるのをのぞいけば基本的にずっと日本が私の母国であり日本語が母語だった。小学生になった時から父は一人娘に自分の国の言葉を教えるという任務を開始し、お陰でスペイン語もそれなりに使いこなせるようになったのは親に感謝しなければいけない。
 エミリという名前を一番最初に決める時に外国でも日本でも通用するような違和感のない名前にしたとかで私は二十九年間エミリと名乗り続ける事になったのだった。これまでの人生で実に様々な事を経験し、今ではアラサーとなった私は紆余曲折あって今は自分の第二言語となったスペイン語を生かして仕事をしている。
 翻訳の仕事を始めるのは決して簡単ではなかった、自分で仕事を始める前に会社員として働いていた時は自分がさぼっても真面目に勤めてもどっちでも給料が自動的に入ってきた。そこそこ良い会社に勤めていたのを自ら放棄して茨の道を歩み始めた時、家族も友人も周囲のあらゆる人が反対して、自分の判断が間違っていたとは思っていなかったけれどそれでもそんなに自分のやっている事は非常識なのかと思わざるを得ない事もあった。とにかく最初はろくな仕事がもらえなかったけど自分なりにどうにか踏ん張って続けていくうちに少しずつまともな仕事がもらえるようになって、貯金を切り崩していく必要も無くなったし、税理士を雇って税金を払えるぐらいにはなった。
 会社員でない、会社員でなくなるという事を周囲に反対されて不平不満を散々言われた時、私の顔が平坦でないのと同じぐらい私の人生も平坦でなかったし、平坦でない私が平坦でなければ務まらない会社員を勤められる訳が無いという事をどうして誰も判ってくれないのだろう、皆私を昔から知っている、知っているという顔をしておきながらどうして誰も判らないの。
 洋と出会ったのは平坦な会社を辞めて自分らしくいられる個人事業主になってからだったから、私の人生において彼は最も私の人生に遅く入場した人間という事になるが、それでも私はそれなりに洋の事は好きだったと思う、過去形にしちゃ駄目だけど。
 どうして洋と結婚しようと思わないのか、それは自分でも上手く言葉に表せない、言葉に関わる仕事をしているというのに、どうしてだか私は自分でも自分の感情が判らない、時々私はどうしようもなく自分で自分の感情が判らない時がある、胡蝶の夢を見て自分が胡蝶だったのか胡蝶の夢を見ていたのかすら判らなくてしょうがないみたいに。
 洋の事は好きなのに、どうしてだか私は彼の奥さんになりたくない。一生誰の奥さんにもなりたくない訳じゃないのに、だけどそれは、私の隣に座って婚姻届の夫の欄を一心不乱に埋め尽くす、緊張して汗を手から滴らせて婚姻届を一緒に書いて、手を繋いで役所へ出しに行く相手は、洋じゃない。
 かと言って、駿がその相手に世界一ふさわしいかと聞かれると、それはそれで難しい問題である。駿が私を好きになったのは外国の血を引いている仲間だからというのと理想のタイプの女だからというだけの理由でも十分あり得るし交際していたたった三か月間は、季節が秋から冬に変わるのとちょうど同じ長さで、たったそれだけの長さだったのに別れる時の胸の痛みには相当悩まされた二十二歳の私だった。
 駿の祖父はドイツ系スイス人で、幼い頃から祖父のしゃべるドイツ語に触れてきた彼と、スペイン人の父を持つ私達が惹かれ合ったのは、ハーフとクォーターだからという実に馬鹿げた理由だったかもしれないというのを、私はよく眠れない夜に一人で時折考えた。カモミールティーを淹れて、ヨガや瞑想をして深く呼吸をしながら過去の恋愛について振り返る時、果たして私は結婚するのだろうか、もしかして今後の人生も一生誰とも結婚せず一人かもしれないとふっと考えて、それって私の人生にとって正解の形なのかしらとか思ったり思わなかったり。
 駿と出会った時私は別にそれぞれのルーツがちょっと似ているからって理由で好きになったりはしなかったけど、もしかしたら相手はそうじゃなかったかもしれない、そもそも私の方だって彼に一目惚れしたのだし、あぁお互い表面的な面しか見ないという所ではお似合いだったかもしれない、今思うとすごく。
 仕事をしている間中ずっと、頭の中はスペイン語やら日本語で渋滞していて忙しい。適当に作って食べるお昼ご飯がのどを通って行く間も頭の中はずっとうるさくて忙しくて、あなたの事を考える暇も無いぐらい忙しい。あなた?あなたって誰よ、そう言えば今私が好きなのって誰なのだろう、洋?駿?それとも名も無きそこら辺の誰か?もしも今ラテンの賑やかな音楽がかかったら、私は駿でも洋でも無くて目の前を通過しそうなあなためがけてキスをしたい。
 この日は約束の時間のきっかり二時間前まで仕事をして、時計の針がちょうどのところに来たところで仕事を放棄した。辞書やパソコンやら資料を全部片づけて見えなくしてしまって、フランフランのスーツケース型になっている女優ミラーを取り出した。プロのヘアメイクが使うようなメイクボックスを見るといつも心躍る。私は女優でもないしヘアメイクアップアーティストでも無い訳だけど、まあ私の人生はいつだって波乱万丈な舞台みたいなもんだから、OK。
 自分の顔にファンデーションを塗っている時、自分で自分の顔は素顔で見せてはいけないという宣言しているような気分になる。今日はそんなに肌荒れしていないからベースメークはあんまり厚塗りにしなくて済むのはめちゃくちゃお得感満載。
 仕上げに昨日と同じ紅い口紅を引くと、鏡の中の私は一気に艶めく女になって、いつだってこの瞬間は気分が上がる。
 今日の服はネイビーのワンピースに、裾の所が白と赤のラインが入っていて、トリコロールみたいな感じに仕上がっているやつ。その洋服に身を包んで、これまた昨日履いていた紅いパンプスを履いて、ベージュのバッグを肩からかけて、出かけた。外に出るとふわっと風が吹いて、ヘアアイロンで毛先を巻いただけの、ヘアセットも何もしていない下ろした髪が浮いて舞うようだった。
 割かし街の中心部に住んでいる方だが、それでも今日行く店の真ん前に住んでいるという訳ではないので、市電に乗って出かける。もう何万回も乗っていて新鮮さのかけらも何も無い路面電車は、余所から来た人しか喜ばない。路面電車の何がそんなに珍しいんだか、と思うけれど小さな男の子が懸命に首を伸ばして窓の外を見ているのを同じ乗客として見ている時、自分が思ったよりも路面電車を喜ぶ人はこの街にいるんじゃないかとか考えてみたり考えなかったり。
 繁華街付近の電停で降りて、歩く。歩く度に靴がコツコツと音を立てるから、紅いヒールを履いた女が歩いているって、街中に宣伝しているみたい。若い男の視線を感じても、視線を感じる事に慣れ過ぎてもはや視線を感じる事に何の新鮮さも感じられない。
 午後六時きっかりに待ち合わせしていたスペインバルに到着する。スペインの旗が立っているレンガ造りのお洒落な外観の店。私の染の店を選んだのは単にマウントを取りたかったからかもしれない。店に入ると陽気なラテン音楽がかかって、平日なのにテーブル席もカウンター席もどこも混んでいる、と思ったら、カウンター席の端っこから手を振る見目麗しい男が一人。
「エミリ!」
 爽やかな笑顔で手を振る駿を、どうして私はあの笑顔を振りほどけない、拒否できない、とあの笑顔を拒否できない自分に腹が立つ。駿に拒絶されて別れたのに、今自分は駿に拒絶されていないけれど仕返しに駿を拒絶したいのに自分の人生に突然再入場した彼を、彼を拒否できない、悔しいけれど拒否できない。
 周囲から見てお似合いだった二人が別れてしまった時、周囲はあんなにお似合いだったのにどうして別れたの、と口々に好き勝手言うけれど、そんな事言われたってもうどうしようも無いのに、その二人だって別に別れたくて別れた訳じゃなくて、そこには確実に別れるだけの理由があったというだけなのに。それでも人は誰かを愛し、そしていずれ別れる。どうして別れなければいけないのだろう?私だってセレーナゴメスだって別れたくなかったよ、ボーイフレンドと。ボーイフレンド。ボーイフレンド。恋人には甘い響きがあるのに夫は違う。旦那は違う。彼氏は欲しいけれど旦那は求めてない。
 結局人は誰の事も欲しがる癖に、その人を完全に自分のものにする事すらできやしない。「永遠に僕のもの」でラモンを殺したカルリートス、彼はラモンを殺す事で完全に自分のものにしたと言える、だけれどもカルリートスはその代わりに犯罪者で自由を失って刑務所の中。やっぱり人が人を完全に自分のものにするには殺しなんかしちゃいけないんだ、だったらどうすればいい?愛する男が居てそいつを完全に自分のものにしてしまいたいと思ったら、結婚か。結婚しかないのか、もはやこれまでって感じ。だけどそれはそれだけはどうしても嫌なのよ、結婚なんかしたら自分も相手も縛られてしまう、じゃあ結婚せずに相手の子供を産む?そんなの絶対に嫌、私は子供に縛られるのもうんざりよ、じゃあもうどうすればいいって訳?私は自分も相手も縛られるのなんかまっぴらごめんよ、それなのに恋人のままで相手を縛る方法なんかこの世には一個も無くて、合法的に相手を縛るためにはその代わりに自分も自由を失うような方法、
 結婚。
「待った?」
 微笑みながら着席する私、たった今結婚を拒否する事に決めた女。
「何か飲む?」
「スパーリングワインにしてくれる?」
「判った。俺もちょうどそれ飲んでたんだ」
 同じく微笑みながら彼はうなずいて自分の目の前にあるのと全く同じ飲み物を注文する、ついでに既に頼んでいた生ハムが乗ったタパスとオリーブのタパスを私にも勧めて、ワインが来たらそれで乾杯。
「今日は何してたの?」
 と駿が聞いてくるから、そんなの仕事に決まってるだろ。と腹の中で毒づく。
「仕事よ。まあどうって事無いけど、この仕事嫌いじゃないし」
「そう」
 どうでも良さそうに答えたら、駿が何故かがっかりする。
「仕事、どう?忙しい?」
「まあまあ。・・・駿君は?」
「俺も、まあまあかな」
 どうでもいい会話はうんざり。
 タパスは美味しいけど、今居るテーブルは嫌。じゃあ他のテーブルなら私は満足するのかしら?よく知らない人達に混ざれば、それで満足するの?私の心は。
 茶色い瞳が、ずっと私を見ている。遠慮する事が無い彼は、まっすぐに私を見ていて、あの目で見つめられていた頃はたったの三か月だったのに、どうして今更私を苦しめるの。
「彼氏は?」
「え?」
「彼氏。彼氏は?」
「彼氏が、何?」
「いや。・・・・居るの?」
 イライラしながらタパスを食べていた私は、気づけばお皿を空にしている。駿が気を利かせて何皿か注文してくれる。
 ワインを飲もうとした私は、ワイングラスを持とうと手を伸ばすが、その手にぱっと自分の手を伸ばして駿が私の手を握る。
 驚いて手を引っ込めようとしたら、また茶色い瞳で見つめてきて、もう一度、子供に聞くような感じで言った。
「彼氏は、居るの?」
 自分の黒い瞳でぴったりと彼を捉えながら、キスするぐらいの距離まで顔を近づけて、吐息で返事する。
「・・・・何で、そんな事聞くの?」
 思わぬ攻撃を食らって面食らった駿は、されど顔を離す事ができず、ぎこちなく、負けを認める。
「好きだから」
「ふんっ」
 鼻で笑って、二人共ワインが空になっていたので新しくワインを注文する。ロゼワインにした。すぐにワインが来た。
 ピンク色のワインは、二人の心を揺るがす今の感情そっくりの色。一口飲んで、ほんのり頬が熱くなり彼を見つめる。彼もまた、ワインを一口飲んで、こっちを見ていた。
「何年前に別れたと思ってるの?」
「そりゃ、そうだけど。でも、再会できたし。運命的に。俺は彼女と別れて、今居ないし。エミリはどうかなって」
「居るけど、何?」
「え?」
「彼氏。居るけど、だから何?」
「関係無い」
 たじろぐかと思ったのに、私の答えを聞いても駿は退かない。ますます私を見つめてくる。
「別れて欲しい」
 直球な言葉に、私の方がたじろぐ。
「何で」
「好きだから」
「嫌だって言ったら?」
「諦めない」
 そこで彼はワインをもう一口飲む。
「奪いたい。エミリを」
 男に奪いたいという類の言葉を言われた回数はもう数えきれないぐらいなので、私は落ち着き払って居られる筈なのに、どうしてだか今夜はそれができない気がする。
「俺とやり直して欲しい」
 ああ、駿に別れを切り出された後に、あなたの口から何度その言葉が出てきてほしいと願ったか知れないのに、いつだって関係を始めるのも終わらせるのも主導権はあなたが握っているのね、でもそういうところが嫌いだとは言い切れない自分が嫌いよ。
「エミリは俺の事、どう思ってる?」
 あなたの事がどうしようもないぐらい好きよ。
「私の理想の人」
「理想?俺が?」
「そうよ、頭のてっぺんからつま先まで理想の人よ」
 タパスを一口食べる。
「それに、再会の仕方もそっくり理想と一緒」
 理想の人と言われ、駿の頬がワインと同じ色になる。
「Te quiero」
 スペイン語で返して、彼の手を握ると、同じぐらいの力の強さで握り返してきたので、もう運命には抗えないのだと知った、知ったのだこの二十九歳の夜。

 時々思う、
 人間というのは遥か昔から、太古の時代から生物として進化を続け、動物としての要素は次第に薄れながらも生きとし生けるものとして務めを着実に果たしてきた。家族の形は時代によって異なるけれど、子を産み、着実に繁栄してきた。
 かつては重要視されていなかった教育は次第に重視され始め、男だけに許されていた学問は女にも許されるようになり、やがて男も女も大学へ行くようになった。そのうちいい大学へ行っていい会社へ勤めるようになるのが人生の理想の生き方であると、誰もが信じるようになっていった。
 それでもそれらだって結局は結婚して子を成し、人類の数を増やすために必要だと思われたから許されたのだ。よくニートの子供が「何のために大学行かせてやったんだ」と親に怒られるシーンがあるが、あれだっていずれは結婚して子供をもうけ、社会の役に立つ、いずれは還元されて元が取れると思うからこそ親は高い学費はたいて子供に高等教育を受けさせるのだと言うもの。いや、別に子供を産まなくたって、世の中のためになるような事をちょびっとでもすれば、とやかく言われないだろう。
 じゃあ、私は?
 両親から愛されて育ち、大学まで行かせてもらって、仕事もしていて、しかもそこそこ美しい。いつでも結婚できる程魅力的で、しかも自分を愛してくれる男が居るし、子供も十分産める年齢だ。いろいろ既に手にしている恵まれた女だ。
 でも私は結婚を拒否している。
 結婚だけじゃない、子供を産む事も拒否している。
 結婚もしたくない、子供も産みたくないという事に正当な理由は一切無い。もし万が一子供がうっかり生まれちゃってもまあどうにかそこそこ大事に育てるだろう。但し、「うっかり」生まれる可能性はあるとしても、「確実に」生まれる可能性はまるで無い。私は特にトラウマがある訳でも無いし、子宮の病気も無い健康体で、男が寄ってこない程醜くは無い。毒親育ちとか天涯孤独でも無いし、社会の役に立つよう子供を産むべきなのに、それを一ミリもしたくないのだ。仕事命のキャリアウーマンでも無い。洋も駿も、どっちにしても絶対に良い父親になるだろうし。特別子供が大嫌いとか苦手とか、他に子供が欲しくないと思っている「仲間達」の誰かから共感を得るような理由は何一つ無いのだ。
 ただ、産みたくない。産むつもりは一ミリも無い。ずっと自由で居たいし、誰にも縛られたくない。夫にも、子供にも。私には常に色んな選択肢がいつまでもあっていて欲しいのだ。誰かのものになって誰かの母になる人生は要らない。
 高いお金を払ってもらって育てられたのに、私はずっと自分勝手に生きている。子供を産んで少子化に貢献するつもりも無い。仕事はそこそこ好きだけれど、仕事によって世の中を変えようとか一ミリも思っていない。世の中のためになる事をしようとするつもりは一ミリも無い。
 自分が子供を産まない代わりに、子供の居るママさん達をサポートしたり、寄付したりする気なんて毛頭無い。自分のお金と時間を赤の他人のために使うなんて・・・最悪のゲームだ。
 人間は社会を良くするために知能を高くした筈なのに、何の役にも立ちたくないと心の底から思っている私のような女が生まれてしまっている。
 べろんべろんになるまで飲んでどっちがどっちの体かもわからなぐらい泥酔した後、駿がホテルに行こうという旨の言葉を言ってきたので、彼を放置して自分だけタクシーで帰った。
 現彼氏が居ながら元彼氏とお酒を飲みに行ってしまう癖して、恋人がいる間は一応貞操を守ると言う自分の変なところで出る真面目さ。
 酔っ払って帰ってきて、どうにかシャワーを浴びてメイクを落とし、風呂上りでタオルを巻いて冷蔵庫からビールを取り出し勝手に一人で二次会を開催しながら、要するに私はとことん自分勝手な人間なのよねと思う。
 私は他人のお金や時間は奪いに奪うけれど、お返しなんて一切あげない。その代わりに自分のお金や時間をあげるなんて絶対しない。他人から奪うだけ奪って、もう奪えるものが何も無いって判ったらあとは逃げるだけ。
 骨の髄まで利己的な人間なのに、時々私の事を優しいなんて勘違いするアホが居るから、そういう奴らって幼稚園卒なんじゃないかとか思うけど、優しさなんて一ミリも持ち合わせていないけど奴らの理想通りにそこそこ優しい女を演じたら何でだか判んないけど勝手に好かれて告白断ったら勝手に撃沈。
 誰も判っていない。誰にも私の気持ちは判らない。私と言う女の真髄を。私という女の本当の気持ちを。誰も判ってくれない。判る筈も無い。こんないかれた女は、そうそう居ないから。しょっちゅう居たら社会が成り立たない。
 ふと寂しくなり一番の親友に電話する。相手はすぐに出た。
「ねえ、寂しいよ」
「どうしたの、急に」
 親友は結婚していて既に自由の身では無いが、子供は居ないのでまだ多少は私の気持ちが判ってくれる。
「今何してんの?」
「元カレとデートした後、酔っ払って帰ってきて一人でビール飲んでる」
「元カレ?あんたって女は、どうしてどこまでもそんなにも自分勝手なのかしらね。多分いつか罰が当たるよ」
 親友の冬子は、親友と言うよりは姉に近いかもしれない。あれだ、天国に近いホテル、みたいな。訳判んないけど。中学の時からの親友なので付き合いは十何年である。私が質問する。
「あんたは何してたの?どうせ旦那といちゃついてた癖に」
「旦那も今友達と電話してるよ。旦那の親友が、プロポーズ失敗してどうしようって嘆いてるのを聞いてる。親友が泣いてるって」
「げっ」
「どうしたの?げって」
「・・・いや、身に覚えがあって」
「あ?あんたプロポーズ断ったの?いい年して?」
「まだ二十九歳よ」
「でも、来年三十歳でしょ」
「私は早生まれだからあんたと違って誕生日が遅いのよ」
「何寝ぼけた事言ってるの?私だって早生まれよ」
「でも冬子は一月で私は二月よ。私の方が一か月若いもんね」
 私が嫌味を言うと、冬子は責めるでもなく、しんみりした口調で言った。
「あんた、いつまでそうやって生きるつもりなの?」
「どういう意味よ」
「そのままの意味よ。いつまでそういう自分勝手な生き方をするつもりなの?」
「説教は嫌いよ」
「でも、実際そうじゃない。あんたは自分以外の誰にも優しくない。顔が綺麗だから今まで許されてきただけ。今までは二十代だから別にそれでも良かった。だけどその特権ももう今年いっぱいでおしまいよ。三十になったあんたはどうやって生きていくの?」
 冬子は溜息をつく。
「何でプロポーズ断ったの?最後のチャンスだったかもしれないのに」
「断ったんじゃなくて、逃げたの。プロポーズされそうだったから、洋が・・・彼氏がそう思ってるの判ってたけど、私は結婚したくなかったから」
「え?洋?」
 親友がびっくりして聞き返す。
「その人、名字は?」
「小坂だけど」
「何歳?」
「三十四歳」
「えっ、まさか・・・エミリ」
 電話の向こうで呆れている冬子。
「エミリ、それ多分、旦那の親友よ」
「え?!マジで?!」
「マジも何も・・・・あああーもうあんたって子は!困ったもんね、全く、今あたしが話してる親友が、旦那に今電話をかけてきてる親友のプロポーズを断ったなんて。エピソードが全く一緒だから多分そう。エミリ、どうして断ったの。どうしてそんなに結婚したくないの?」
「自由を奪われたくないから。夫にも、子供にも」
「はあーどうしてそう頑ななのかね」
「こういう女だって昔から知ってた癖に」
「じゃあ、元カレ君とよりを戻すつもりなの?」
「判んない。気分次第かな」
「あのね、いい加減にしなさいよ。まさかずっと遊んでいるつもり?」
「そうよ。私は人生のすべてをかけて、ずっと遊んでいたいの」
 冬子が黙る。
 かと思いきや数秒間の沈黙を破って話し始める。
「エミリ、あんた、不幸になりたくないでしょ?」
「まさか、私はずっと前から不幸だし、不幸のままで居たいよ」
 再び親友が黙る。
 私はビールを一口飲んで、話を続けた。
「私はね、二十二歳の冬にその元カレと別れた時からずっと不幸なの。私は彼が大好きだったし、ずっと一緒に居たかったよ。でも彼は私を捨てた。だからもういい。今彼が再び手に入ったけど、彼の事が欲しかったのは七年前なのに、どうして今更彼を手に入れようと努力しなくちゃいけないの?欲しかったのはあの時よ、今じゃない。それに、私が欲しいのは七年前の彼で、今の彼氏じゃない。他の男は誰も欲しくない。だってそんなの、・・・皆偽物みたいなものだもん」
「だったら、どうして付き合ったの」
「うーん、セックスさせてくれるからかな」
「あんたね・・・」
「冬子には判らないよ」
 相手が何も言わないけど、気にせずしゃべる。
「冬子には私の気持ちは判らない。誰にも私の気持ちは判らない。どうして私が自由にこだわるのか、多分一生かけても判んないよ」
「・・・・・」
「だから、もう放っておいて」
 通話を切って、洋の写真をメッセージで送り、この人か尋ねた。冬子は「そうです」というラインスタンプを返した。
 私の気持ちは誰にも判らない。
 ビールを飲み干して、歯磨きをする。
 水槽の中のベタは、憎らしい程に綺麗で、腹が立った。
 ベッドに潜り込むと、夢も見ずに寝てしまった。


 週末、洋がうちに来る前にいろいろ嫌になって、約束は夜なのに昼からもうメイクもヘアセットもして、駅前のスタバでカフェモカを飲んでサンドイッチを食べた後、駅ビルをぶらぶら歩いていたら、占い師が占っていたので占い師のテントっぽいやつに自ら入っていった。
「こんにちは」
 返事も聞かずずんずん入っていくといかにもいんちき占い師っぽい女が私を見つめて唖然としているから、相手の反応なんかろくに聞かないで自分の置かれた状況をばーっと一方的にしゃべった。
 そしたら、バカでかくて怪しい水晶玉の向こうであんぐり口を開けて私の話を聞いていた占い師が、商売道具の筈の水晶玉を乱暴に除けて、テントを出てCLOSEDの札を下げて戻ってくると、腰を落ち着けて私の話を聞く体制にしてから初めて発言した。
「あなた、いくつ?」
「二十九歳です」
 ベールをかぶっている占い師は化粧も濃いのか年齢がよく判らない。
 はああああああ~っと、大きな大きなため息をついてから、彼女は話し出した。
「二十九歳ねえ。普通の二十九歳とはずいぶん違った感じの二十九歳ね、あなた」
 占い師は肩を落とし、名刺を差し出してきた。名刺には「占い師 ローズエリコ」と書かれている。
「私、あなたの明るい未来を占いますって触れ込みでやってるんだけどね、まあ占い師よ、見たら判ると思うけど。あなたお名前は?」
 私も翻訳家の仕事で使っている名刺を出した。と言ってもほぼ引きこもりで仕事関係の人と出会う事なんかほとんど無いから、ほぼ持っている意味が無い。
「翻訳家、冷泉(れいぜい)エミリ。あなた翻訳家なの?」
 目の前の女の職業が信じられないのか、占い師のローズが驚く。
「ええまあ」
 私は肩をすくめる。
「何語?」
「スペイン語と、日本語を」
「へええええ。あ、じゃあ、あなた、」
「ええ、父がスペイン人で」
「あらそうなの、・・・・ねえ、エミリさん、エミリさんて呼んでいいかしら、」
 ローズは躊躇いながらも、私に問いかける。
「あなた彼氏にプロポーズされたけど断ったって言ったわね」
「そうです」
「で、今からその彼氏がうちに来ると」
「ええ」
「でも、この間元カレに偶然会ってしまったと。理想像そのものだった元カレと、理想の場所で再会してしまって」
「ええ」
「心が揺れ動いてる?」
「そうです」
 ローズは私の目をじっと見て言う。
「エミリさん、あなたが好きなのはどっちなの?元カレか、今カレか」
「・・・・・・・・・元カレ、かな」
 一瞬瞳を閉じて、まぶたの裏にあの顔を思い浮かべて、私の理想通り完璧に作られたようなあの、
 駿。
 彼の姿。
「私結婚したくないんです」
「何故」
「縛られたくないから」
「元カレでも結婚したくないの?」
「そうです」
「どうして?」
「縛られたくないから。夫にも、子供にも。私はただ、ずっと自由で居たいだけ」
「エミリさんの言う自由とやらは、一体何歳まで続くの?」
「一生」
 私の答えを聞いてローズは溜息をつく。
「そんなに自由が大事なの?」
「ええ、とっても」
「仕事命とか?」
「それほどでも」
「趣味は?」
「特には」
「ペットが大事とか」
「熱帯魚一匹です」
「・・・・・」
「それも、今朝死んじゃった」
 話にならない、と言いたそうな占い師。
「あなたって。結局のところ自分以外の誰の事も愛してないんでしょ?」
「そうかも」
 占い師は腕を組んで考え込んだ後、突然テントの片づけを始めた。
「今からうちに来て。この近くだから。ちょっとお茶するぐらいで、ね、いいでしょ」
「ええ?」
 私の返事も待たずにローズはさっさと店じまいをしてしまい、大き目の鞄一つに水晶玉やら何やらかやら全部収まって、テントは影も形も無い。
 いくら近くとは言え、ベールをかぶっていかにも占い師ですみたいなうさんくさい格好をしたローズと一緒に白昼堂々歩くのは恥ずかしかったし通行人にもじろじろ見られたし、だけれどもローズはお構いなし。
 そうこうしているうちに駅近くの住宅街に入ってそのうちのマンションにずんずかローズが入っていくので後をつけると、オートロック付きの良いマンションに住んでいるでは無いですか。この人何歳だよ。
 エントランスで操作してエレベーターに乗って部屋に上がる。五階で降りたローズについていって部屋に上がる。お邪魔しますともごもご言いながら入ると、広めの部屋はタロットカードやバカでかい水晶の原石など、占いっぽいグッズは棚やテーブルの上に山盛りだったが、全体的にきちんと片付いていて綺麗だった。インテリアは薄紫色で統一されていて、上品なイメージ。床も掃除が行き届いている。ローズが冷蔵庫を開けた時にちらりと見えたが、冷蔵庫の中は作り置きの料理や野菜が沢山入っていて、とても健康そうな食生活なのだろうと言う事がすぐに判る。
 ダイニングのテーブルの上は占いの道具でごちゃごちゃしていたが、それとは別にソファがあり、ソファの前には別にテーブルがあって、その上は何も置かれていなかった。ローズはティーカップやポットの準備を忙しくしながら、
「ソファ、適当に座って」
 と言った。
 私がソファに座ると、何か、何かの気配を感じた。初対面の占い師の家に来てしまったというだけでもやばいのに、幽霊か何かがいるのか?
 でもすぐにそれの正体が判ったし、幽霊じゃないと言うのも判った。床にはごみはおちていなかったが、釣り竿のようなものが落ちていて、但し付いているのは針ではなく、鳥の羽のようなもの。リビングの奥にはドアが開けっ放しで見える、ローズの寝室があり、薄紫色のシングルベッドと一緒に、誰がどう見ても判る、猫用のトイレが置いてあった。そしてローズのベッドの上には、もっふもふの灰色猫が丸まって眠っていた。毛が長い猫は、幸せそうに寝ている。私は思わずその猫を撫でた。猫を飼った事も無ければ触った事すら一度も無かったのに、つい撫でてしまった。灰色の長毛猫は、目が覚めて、侵入者である私を見て威嚇するでもなく、嬉しそうにごろごろと喉を鳴らした。猫の目はブルーグリーンで、まるでティファニーブルーと同じ色。猫はベッドからぴょんと降りた。私がリビングに戻ってソファに座ると、驚く事に猫は着いてきて、初対面の人間である私の膝の上に飛び乗り、そこで寝始めた。警戒心がまるで無い猫の様子に私は呆れ果ててしまう。
 そのタイミングでお茶が入って、ローズが二つのティーカップにお茶を注いで、一つを私の目の前に寄越す。ティーポットとティーカップはお揃いらしく、白地に紫色のバラの絵が描かれていて、カップの周りが金で縁取られていた。ポットも同じような感じである。
「お茶をどうぞ。ローズヒップティーだから、美肌に良いわよ」
 そう言われてお茶を頂きますと言って一口飲む。少し酸っぱい。ピンク色のお茶は酸味はあるけど美味しい。ローズも満足げに飲んでいた。
「ローズさん、バラが好きなんですね。名前と一緒で」
「まあ、そうね。紫色も好きよ」
「どうして紫なんですか?」
 と尋ねると、彼女は大真面目な顔で、
「若紫になりたかったからよ」
 と答えた。その迫力に気おされ、そうなんですかとしか言えない。
「そうよ。まあ私も源氏の君みたいなイケメンが迎えに来てくれないかなあとか思ってたけど、夢で終わったわ」
 彼女は私の膝で眠る猫に目をやった。
「可愛いでしょう、この子。メスでね。今三歳。ティファニーって名前なの」
「ローズさんの猫なんですか?」
 すると彼女は顔を曇らせた。
「・・・・・兄の猫だったのよ」
「お兄さんの?」
「そう、でも、・・・・死んじゃった。先週の事よ。兄はずっと独身で、子供も居なくて、この子だけが娘みたいな感じだったのに、自殺してしまったの。家族は誰も兄の深い悩みに気づいてやれなかった。心を病んでいたみたい」
 ティファニーは何の苦労もしていなさそうだが、そういう事情があったとは。
「他に誰も引き取り手が居ないのよ。実家の親は猫アレルギーでね、無理だし。それに私も長く世話するのは無理なのよ。実は、近々犬を飼う予定でね。長らく病気の友人がいて、もう長くないからその人の犬を引き取る事になってるの。犬と猫を一緒に飼うのは無理でしょ?友人には今待ってもらってる状態なのよ。新しい飼い主を必死で探してるけど、私も占いの仕事で忙しいし、なかなか探す時間も割けないし。周囲には猫アレルギーの人が多くてね。それにこの子はかなーり神経質な猫だから、誰かに引き取ってもらうのは無理かもしれない・・・飼い主の妹だった私ですらなかなかてこずってるのよ。このまま誰も引き取り手が居なかったら、可哀想だけど保健所行きよ」
「そんな・・・・」
 暗い顔をしていたローズだが、やがて名案を思い付いたとでも言うように、ぽんと手を打った。
「そうだ!あなた猫アレルギーある?」
「え、無いですけど・・・」
「猫好き?」
「え、まあ動物全般好きですけど、でも猫は無理ですよ!実家でペット飼った事無いし」
「大丈夫、私がみっちりお世話の仕方教えるから。兄が行ってたかかりつけの獣医さんも教えるわね。いつも食べさせてる餌とかおやつもだいぶまだ余ってるからそれを食べさせればいいし、おもちゃもトイレもあるし」
「で、でも私の家まで持って帰れないです。猫ちゃんも。バスとか電車には猫と一緒に乗れないですし」
「じゃあ車で送ってあげるわ。荷物も全部車に積めばいいでしょ。エミリさん、魚飼ってたんだからペット可の物件でしょ?」
「え、まあ、そうですけど・・・・でも、命には責任があるじゃないですか!ローズさん、こんな事私が言うのも変ですけど、いくら引き取り手が無いとは言え、亡くなったお兄さんの飼ってた大事な形見の猫ちゃんを見ず知らずの女に託すのはちょっと危険じゃないですか?」
 これで諦めてくれるかと思ったが、彼女は意外な返答をしてきた。
「エミリさん、あなた猫でも飼って何かを愛する心を取り戻した方がいいと思うわよ。今のままのあなたじゃ、元カレの事も今カレの事も愛せなくて当然よ。猫を世話する事で何かを愛するって事を思い出さないと、この先の人生幸せは来ないわ。占い師としてってより、人生の先輩として言うけど」
 そのために猫を飼えと?冗談じゃない。でも猫は可愛いし、私が引き取らないとこの子は保健所行きだし・・・。
「この子もあなたに懐いているみたいだし、翻訳家で、家で仕事してるなら猫も寂しくないでしょ。さ、準備するわよ」
 かくして、半ば強引に猫を引き取る事になった私は、初対面の占い師によって猫の飼い方を叩きこまれ、一通りの世話の仕方を習った後、猫トイレやおもちゃ、餌、そして猫本人と一緒に、ローズさんの車で私のアパートに送り届けてもらう事になる。
 彼女は運転が上手で、行った事の無い私の家の住所でもカーナビに打ち込んで楽々と運転し、安全運転で運んでくれた。私の部屋まで着いてきて、猫や荷物を運ぶのを手伝い、そして嵐のように帰っていったのだった。
 取り残された私は呆然として、とりあえず魚の居ない水槽を片付けたり猫トイレを設置したりしたが、全く違う環境に連れてこられたというのに、猫のティファニーは堂々として、床に寝ころび、私に向かってお腹を見せる。
「全く、お前は大した猫ね。ああ、猫を飼った事無いってのに、あんたの世話ができる自信が無いよ」
 ぶつくさ言いながらも猫のお腹を撫でると、驚く程ふかふかで柔らかかった。猫と触れ合うのは新鮮で、熱帯魚を飼うよりも楽しかった。
 猫と触れ合っているとあっという間に約束の時間になり、インターホンが鳴って、洋が来た。ティファニーを抱っこして出ると、今まで猫を飼っていなかった彼女が突然猫を抱いているので、彼はずいぶん面食らっていた。
「どうしたの、その猫」
「友達のお兄さんが飼ってた猫。友達のお兄さんが亡くなって、友達は猫アレルギーで買えないからって引き取った」
「いつ引き取ったの?こないだ俺が来た時はまだ居なかったよね。ってか、魚は?一緒に飼っても大丈夫?」
 事実を元に嘘をついただけなのに、心配してくれる洋の優しさが今初めて染みて罪悪感を覚える。
「今朝死んでた。一人で居るとあの子が居ないのが辛くて、それで引き取ってきたの」
「そうなんだ・・・」
 よく判んないけど、と言いたそうにして洋が入ってくる。
 寝る時はベッドになるソファベッドに二人並んで座る。猫は無邪気にごろごろ喉を鳴らしている。
「それで、今日は話したい事があって来たんだけどさ」
「うん」
 まあ内容は判っている。
 洋は思いつめた表情で話を切り出す。
「俺がプロポーズしようとしてた事、気づいてた?」
「うん、まあ」
「それで逃げたの?」
「そう」
 彼は大きく息を吸って、確信に触れる質問をしてきた。
「どうして?俺と結婚したくなかった?」
 それに対して、コンビニに寄るぐらいの軽さで答える私。
「洋が嫌なんじゃなくて、誰とも結婚したくないの。結婚とか子供に縛られたくない。私はずっと自由で居たいの。子供を産むなんて、考えただけでぞっとする」
「・・・・でも、付き合う時に俺は結婚願望があるって話したじゃないか。それでそれでもいいかって聞いたけど、エミリは嫌だって言わなかったよね」
「願望があっても結婚しない人はいくらでも居るでしょう?だいたい洋だって結婚したい結婚したいとは言っていたけど、結婚したいと口では言いつつ結局口だけの男なんていくらでも居るんだから洋だってそういう類の男だと思っていたのに、本気でプロポーズしてくるんだから。それに結婚したくない、だけど恋愛はしたかったの」
 私の返答にどんどん暗い顔になっていく洋。
「じゃあ、結婚はせずに付き合っていたいって事?」
「まあ、簡単に言うと、そうね」
「・・・・・俺と別れたくない?」
 ずいぶん勇気を持って聞いた問いだったろうに、私は残酷なまでに軽く答える。
「別に、どうでもいい」
「どうでもいいって・・・・」
 自分が愛した女はこんなだったかと言う顔をしている。
「じゃあ、事実婚は?」
「うーん、まず一緒に住むのが無理だから・・・別居婚かな」
「別居婚の形ならいいの?」
「うん。でも籍は入れたくないかな」
「それじゃあ今と変わらないじゃないか!」
 ここで初めて洋が激高し、声を荒げたので猫がびっくりして飛び上がる。
 怒りを露にした自分自身を恥じながらも、洋はどうにか自分自身を落ち着かせて、
「俺はエミリを本気で愛しているんだ。エミリは俺の事、あまり好きじゃない?」
「あなたがそう思うなら、そうかもしれないね」
 またしても冷酷過ぎる私の返答に彼は怒りで顔を真っ赤にするが、私は氷よりも冷たい目つきで彼を見つめるだけ。
「俺と別れたい?」
「どうだろ、今んとこよく判んないけど」
「よく判んないって・・・・」
「洋には私の考えてる事なんか一ミリも理解できないでしょ。だから無理よ。それに、そういうところが嫌なのよ」
「嫌って・・・」
「洋の事は好きだけど、あなたが思う好きじゃない」
「とにかく、俺は結婚したいんだ」
「私は結婚する気は無いの。とにかく帰ってくれない?」
 怒り心頭の彼氏を部屋から無理矢理追い出し、ドアを閉める。ドアの向こうの彼がまだ怒っているのが大声で判るけど、私はごみでも触ったみたいに両手をぱんぱんと払う。
「何よ」
 猫が責めるような目つきで私を見る。
「私は何も悪くない」
「にゃー?」
「私はいつでも自分の心に従うだけ」
 

 元カレにこだわるのはある意味すごく生きていく上で楽かもしれない。失った人の事だけ考えていれば、次の男に言い寄られても元カレの事が忘れられないからとか言っておけばいい。そうすれば角が立たなくて済むし、自分の中の理想像を汚す事にもならなくてラッキー。一生誰とも付き合った事無い女を男達は馬鹿にするけど、ひっそりとたった一人の男だけを想って色っぽく寂し気に笑う女に、男達は惹きつけられる。彼女、誰か好きな人が居るらしいけど、諦められないみたい。俺に興味が無いって言うんだ。もったいねえよなあ、あんなに綺麗なのに。俺の事を好きになってくれねえかなあ、無理かなあ。でもあんなに綺麗な子を悲しませるなんて、相手の男はよっぽどいい男なのかなあ、俺勝てないのかな・・・。
 それにどこぞのくだらないJ―POP歌手が出してる安っぽいウェディングソングなんかじゃなくて、上質な歌声を出す洋楽の歌姫が歌う、深くて悲しい失恋ソングを聴いておけばいい。友達とカラオケに行って恋バナが始まってしまったとしても、精一杯に悲しい目つきでそういう歌を歌った後で、ごめんね、まだ彼の事が忘れられなくて。と言いながら伏し目がちになれば、誰も余計な事は聞いてこない。
 いつになったら結婚するんだと親族に聞かれても、元カレを忘れられないの、あの人以上の人は居ないから、と言ってまた目を伏せて美しい涙さえ見せれば、家族も親戚も、デリカシーの無い事を言ってしまったと思って互いに顔を見合わせるだろう。
 クリスマスやバレンタインのような愛の季節が来るたびに、悲しい顔をしてデパートの地下の、スイーツ売り場に立って、誰にあげるのでもない自分一人の為のケーキでも買って、これくださいと声を震わせるように言えば、若い男の店員の同情すら引くかもしれない。
 ジュエリーのコマーシャルやお店で売られている宝石類を見て、ああこれを買ってくれる男は今の私には居ないんだわ、みたいな事を潤んだ瞳で呟けば、同じような境遇の仲間が同情してくれて楽しい女子会を開ける言い訳ができるし、あわよくば可哀想に思った男が誰か、それを私のために買うためだけに、私に結婚を申し込むかもしれない。受けるかどうかは別。
 しっかりファンデーションを塗って、きらめくアイシャドウと紅い口紅で武装して、デパートの化粧品売り場で化粧品売り場を物色しているふりをしている時、女の美容部員たちがあれこれ聞いてきて、これらは彼氏に買ってもらうためではなく自分で買うために私はここへやってきたんですという顔をする時、自分の艶やかで美しい髪や、芳しい香水の香りが、自分はいつでも魅力的な女で、いつだって異性を魅了する事ができるしより美しくなる準備をしている最中なの、そのためにここへ化粧品を買いに来たんです、という顔をしてみせる時、私はまだ誰のものにもなりたくないし、もし誰かのものになってしまったらこんな事は二度とできやしない、と強く思わずにはいられない。
 デパートからの帰り道、町中でベビーカーを押している自分と同い年ぐらいの若い女を見かける時、果たしてあなたのその生き方は正解なの?と心の中で相手に質問しながら通り過ぎる、あなたはまだ私と同じぐらい若いしおまけにきちんと化粧をしてそれなりにおしゃれな恰好をすればあなたはまだいくらでも生き生きとして、自分勝手にかつ魅力的に振る舞えるだけの、いい女としてのポテンシャルをまだ持っている筈なのに、自分が持っている大いなる偉大な特権を永久に手放して、さっさと地味なジーンズ姿で、大勢の男達のための女ではなく、大勢の男達が魅了されるためのいい女ではなく、ベビーカーの中にいるちびのためだけの女になるなんて、あなたは人生を損している。
 私の美しさや私自身の価値は、常に誰かを振り回すためだけに与えられた筈なのに、いずれ私が自分以外の人間に振り回されるかもしれないという恐怖の攻守交替は、いつだっていつまででも永久に追放しておきたい。私の人生の主役の座を、自分と言う若くて美しくて魅力的な女ではなく、腹に宿ったその瞬間から、もやしより小さいぐらいの胎芽の段階で既にもう自分という女の最高の人生は永遠に奪われて、その胎芽に支配され主役の座を奪われる人生が始まる。私が心の底から恐れていたのは結婚と言うより、妊娠そのものだった。自分の体を乗っ取ってしまう侵入者を宿さないように、私はいつも細心の注意を払っていたのだ。
 私はいつも選択肢が自分にある事を重要視していた。誰のものになるのか、結婚するのか、どこへ行くのか、いつでも自分に数多くの選択肢がありながら、決してどれも選ばないというわがままし放題の状況が心の底から大好きで、例えて言うならいろんな男から言い寄られても決して誰も選ばない、だけれども若くて美しい女でい続けていろんな男を虜にし続けて、彼らの目の前に食事があるのにわざと食べさせずに餓死させる、みたいな悪魔な遊びをずっとしていたし、それをするのが楽しかった。選ぶのは彼らじゃなくて元カレしかありえない、みたいな言動をしていればそれもチャラになって無罪だし、そういう人生をずっと選び続けていたかったのに。
 もしも理想の男である元カレの駿と、理想の状況で再会する事ができたらどんなにいいだろうとずっとずっと願いつつその間いろんな男と恋愛して彼らに期待させながら残酷なまでに振る舞って、好き放題して生きてきて、あんたの事なんかどうでもいい、どうでもいいって顔して冷たく見下ろして、恋愛の美味しい所だけ食べて、不味い所は捨てる、みたいな生き方をずっとしてきて、そういう恋愛しかしてこなかったし、これからもずっとそういう恋愛だけをして生きていくんだろうなって思ってたのに、私からそういう恋愛だけして生きていく人生を取り上げる程に私を真摯に愛してくれる洋と何故だか出会ってしまって、私は一切そういうつもりが無いのに、結婚して欲しい、自分の妻になって家庭にぽんと収まって、僕の王国の妃になって欲しい、この城からの眺めは最高だよって、私はどの王国にも定住せず城から城へと渡り歩き、あらゆる王国の王子を魅了するだけ魅了して、結局どこの王国の妃にも収まるつもりが無いまま、捕まりそうになったら別の王国へ逃げる、みたいな事をずっとこれから先も繰り返していくつもりだった女なのに。
 元カレにこだわって生きているのは楽だった。だのに、もしも理想の男である元カレの駿と、理想の状況で再会する事ができたらどんなにいいだろうと思って生きてきたのに、いざ理想通りに再会してしまうと、これは駿じゃない、私が思い描いていた駿じゃないとさえちょっと思ってしまう瞬間があるのは否めない。私が好きだったのは二十二歳のあの冬に別れを告げられたあの瞬間に瞬時に頭の中で瞬間冷凍して完全に凍らせて美化してしまった、あの時の駿だけなのかもしれないって。
 きっちり七年間歳を重ねて、あれほど魅力的になった私達、だけれども私は、だけれども私は魅力的になった自分の方だけ認めて、歳を重ねて魅力的になった駿の事を認めないで、二十二歳の時のままの駿の事だけじっと見つめ続けている。七年後の駿がどんなに熱い視線で私の事をこんなにも見つめ続けているとしても。
 もしもこの世に自分の事をごみみたいに扱う天才が居るのなら、私はきっと自分を壊れ物みたいに扱う天才かもしれない。私はいつだって無限に言い訳を魔法のように作り出せるし、自分を女王様みたいに見せかける事もできる。
 私は私と言う女がどんなに残酷でむごい事ができるか知っている、私は私と言う女がどんなに冷たい心を持つ女か知っている、だけれども自分の事を愛してくれる男が大勢いる事も知ってるし、それなのにも関わらず自分が誰の事も選ぶつもりが無い事も知っている、あれだけ両親に愛情かけて育てられた美しい娘の内面が、こんなにも冷酷で無慈悲で、人を人とも思わないモンスターであるという事も知っている。

私は冷泉エミリ、
 二十九歳の翻訳家。

 きっと誰の事も心の底から大事にしていないしその資格も無い、
 猫以外は。


 縛らないで、私を縛らないで。
 泳がせて、自由に泳がせて。
 愛しているなら、放っておいて。
 どうせ私の事が理解できないのに、理解しようとするのはやめて。
 

 もう忘れた筈なのに、心の奥底ではまだ想っている。
 あんなクズとどうして付き合ってたか判らないと友達の前で笑ってワインを飲むのに、
 元気?って言いながら連絡が来るのを待っている。
 優しい彼氏が居て幸せな筈なのに、何故だかちっとも幸せじゃない。
 洋と結婚すればきっと私の人生この先ずっと安泰かもしれないって、頭は言うけど心は違う事言ってる。
 もうあいつの誕生日何て忘れたって言いながらスターバックスに入ってしょうもないネットニュース検索して一人笑うのに、頭の中では本当は覚えていて今日何歳になったかという事をずっと考え続けてて、その事を考え続けていた事を始めから考えていなかった事にしようって事を考え始める。
 お店に入ってはあいつの好きだったものを手に取って、あいつの好きだった香水の香りを嗅いで、買いもしないのに美容部員に話しかけられて、あいつのいかにも好みそうなメンズの服ばっかり見てる。スターバックスのメニューの、何にも入っていないブラックコーヒーとチョコチップスコーンが大好きだって、いつになったら忘れられるんだろう、レノアの柔軟剤のあの香りが好きだった、電話する時、深夜に電話する時いつもあの話をしていた、笑う時はいつもあんなだった、なのに今ではもう忘れたよって友達と笑って言いながら一緒にスターバックスに入る時、あいつが好きだったのと全く同じメニューを頼んでいる、それを見た友達が、エミリがこんなの頼むなんて珍しいねって言いながら、えへへそうでしょたまにはね、ってさも何でもない事のように言いながら、私は大罪を犯している、彼氏が居る、彼氏が居る、洋が居ると言いながら、平気そうな顔をしていながら実は内心そうではないという事をどうやって言語化して説明すればいいのだろう、すべての友よ、すべての良心、もう私という女は全く持ってどうかしているとしか言いようが無いよ。
 もう忘れた筈なのに、心の奥底ではまだ想っている。
 あんなクズとどうして付き合ってたか判らないと友達の前で笑ってワインを飲むのに、
 元気?って言いながら連絡が来るのを待っている。
書店の洋書コーナーで、ソファでコーヒー飲んでる年配の人を横目に見ながら大きな英語の辞書を眺めて、あの辞書に書いてあるどんな言葉で君を想えばいいんだろうって、そういう恋がしたかった。そういう恋がしたかったし、そういう恋を探してきたつもりだったし、結局のところ広い空間も、大きな辞書も、苦いコーヒーもあのおじさんのメガネも何にも私の恋には出てこなかった。
二十二歳の時に付き合ってた駿はまさに私の理想通りって感じだったのに、どうしてあの手を離しちゃったんだろう。あいつと偶然的に再会する前日の夜にあいつが夢に出て来たけど、もう今更どうしようもないんだよね、もう二十二歳じゃないから。日本酒の味も夏目漱石の何たるかも知ってる男の子だったのに、説明すれば辞書の中の言葉を探す事もイパネマの娘の意味だってきっと判ってくれたのに、だけれども私はそれをしなかったし、二人は永久にお互いを失ってもう戻ってこない二十二歳の冬。車の上にはどっさりと冷たい雪が積もって、サングリアの上に飾られたコットンキャンディみたいで馬鹿馬鹿しかった。今頃どうしているのだろう、そんな事すらもうどっちにも知る権利が無いのにって長い間思っていて、あまりにも長い間ずっとその事だけを想っていて、やっと理想の場所で理想のやり方で理想の男と理想の再会を果たした時にはもう私は洋のものになってしまっているというのに。
 愛は苦しめる、いつだって愛は私を苦しめる、相手の事を愛してない時も相手の事を愛している時も相手の事を愛していたって過去形の時も、愛はいつだって私の事を絶えず苦しめる、苦しまない愛は無い、この世に存在しない。
 洋と別れて駿とやり直す、だけれども駿がもしも私に結婚して欲しいと申し込んできてしまった場合、一体私はどうすればいいのだろう、愛する男を永遠に手に入れてしまいたいという願望が叶うと同時に、私の自由は永久に奪われるという束縛の地獄が同時に待ち構えていると言うのに、どうして私がそんな決断をしてしまえるだろう、本当に、誰が私がそんな馬鹿な事をしでかしてしまえる程の勇気があるって思っているのだろう、ばかばかしくて仕方がねえや。
 駿を愛して駿も私を愛して、もうここからは逃れられないかもしれないのに、どうして、どうして再会してしまったのだろう、こんなにも長い間それを待ち望み続けてきたと言うのに、どうして、どうして愛はかくもこうなのだろう、全く持って理解する事が出来ないよ。

 誰にも私の気持ちは判らない。
 誰にも、誰にも私の気持ちは判らない。

「パパ」

「パパ」
「エミリ、どうしたんだ。お前から電話をかけてくるなんて珍しいじゃないか」
「パパ、愛って何だと思う?」
「どうしたんだ、急に」
「どうもないわ、私は混乱しているのよ」
「エミリ、」
「辞書を見ても愛の言葉はあまりにも論理的なだけだという事が判るのに、どうして愛はこんなにも苦悩させるの、私を」
「おいおいエミリ、一体どうしたんだ。翻訳の仕事で頭がおかしくなったのか?」
「・・・・・・」
「少し仕事をセーブしたらどうだ?」
「・・・・・・」
「エミリ、パパはお前が何を考えているのかちっとも判らないよ・・・」
「パパ、」
「エミリ、・・・・・・どうしてお前はいつもそうなんだ?」
「・・・・・・・・」
「どうしてお前はいつもいつもそうやってパパやママの判らない次元の事ばかり考えているんだ?」
「・・・・・」
「パパはお前の事を愛しているけれど、お前からの愛を感じた事は一度も無い」
「愛しているわ、パパ」
「お前はそう言うけれど、実はほんとのところそうでもないんだろう、エミリ」
「・・・・」
「エミリ、お前は、一体誰を愛しているんだ?」
「え」
「お前は一体誰を愛しているんだ。一体誰の事なら愛せるんだ。一体お前は誰の為なら命を投げ出せるぐらい愛せるんだ?」
「パパ・・・」
「パパにはもうお前の事が理解できない」
「・・・私の気持ちは誰にも判らないよ」
「きっとそうだろうな。きっとこの世の誰にもお前の気持ちは判らないだろう」
「・・・うん」
「どうしてなんだ?一体どうしてなんだ?パパとママは育て方を間違ったのか?どうして、こんなにも、こんなにもお前の事を世界中の誰よりも愛している、愛していると言うのに、あんなにも、あんなにもあんなにも愛情を注いで注いで誰よりも深く愛して育てたのに、パパとママのすべてをお前に捧げたというのに、どうしてお前にはそれが判らないんだ?エミリ」
「判らない」
「どうして判らないんだ?パパとママが間違ってたって言うのか?」
「・・・・・」
「兄弟も作らず一人っ子として大事に育てたのに、」
「・・・・・」
「スペインと日本のルーツを持つお前の為に、日本語もスペイン語も両方不自由なく話せるようにしたのに、お前の為にできる事は何でもやったというのに、それなのにお前がパパやママに向ける愛情はこれっぽちも無いのか?」
「パパ、そんなの無駄よ」
「・・・・・・・・・・」
「無駄だったのよ、パパやママが私を愛したのは」
「エミリ、」
「ごめんね、まともな娘になれなくって」
「・・・・・・・・・」
「でも、もう諦めて。今更まともに、なれそうもないから」
「エミリ」
「ごめんね、パパ」
「ママに代わろうか?」
「ママに代わったところで、一体何を話すと言うの?」
「・・・・・・」
「ママと話す事なんて、何も無いわ」
「エミリ、実家に帰っておいで。パパやママと一緒に暮らそう。パパ達と暮らせば、お前も多少はまともになるかもしれない」
「ちゃんちゃらおかしいわ、パパ。私はこの世に生まれた時から、一ミリだってまともじゃなかったのよ。それに、私がこうなったのは誰のせいも無いわ。元からおかしいのよ」
「・・・・・・・・」
「パパは何も悪くない」
「じゃあ、何がそんなにお前を狂わせたんだ?」
「さあ、恋かしらね・・・」

 二十九歳は十九歳じゃないのに、十九歳みたいに感じられる。十九歳みたいにあれこれ考え思い悩むのに、実際は十九歳じゃなくてきっちり十年分歳を取っている。
 今後どう生きるか。結婚するのか子供を作るのか。あるいは独身貴族として優雅に生きていくのか。十九歳でそれを決めるのは早過ぎるし、かと言って三十九歳でそれを決めるのは遅過ぎる。二十九歳は十九歳程親がうるさくないし、三十九歳程切羽詰まってない。ふらふらしていていい、最後の年のような気がする。最後の年なのに、まるで最後じゃないみたいに振る舞ってる。来年三十歳を迎えるのに、未だに大学生の時と変わらないみたいなゆるっとした雰囲気を醸し出し、かと言って十九歳の時よりも経験を積み重ねていて大人の色気も身に着けていて、やる事はもう大学生の時みたいに初々しくない馬鹿馬鹿しさ。まだ若い、「まだ」若い、しかし永遠に若い訳ではない、これから少しずつ若くなくなっていくというのに、そういう危機感をまるで持たずに生きている、そういうふりをしている、もう二十九歳で誰とも結婚する予定があってもなくても、金曜日の夜には行きつけの店でお酒を頼んで気楽に飲みながらSNSを見て、「いつかは」結婚したいねなんて呟いている、それを自分事としては決して考えない、「いつかは」自分が結婚するのかどうかなんてことは現時点では考えていない、しかしじゃああと数年経てば考えるのかどうかを聞かれても、そもそも数年経って自分がもっと歳を取っているという事は、そもそも考えていない。
 親が昔よりも歳を取って、大学生の時はまだ四十代や五十代で、棺桶に片足突っ込んでるという冗談も、そんなのまだまだ冗談だよと笑い飛ばしていたのに、子供が三十近くなると、十年分歳を取って親も五十代後半とか六十代とかになってくるから、そういう冗談を聞いても笑いにくくなってくる。昔より白髪が増えてきたのを、白髪染めをしなくなった姿を見ても、気づかないふりをしている。肩とか腰とかあちこちが痛いのよと元気なく笑いながら言うのを目の前で聞いていても、ふうんそうなんだと言って自分はスマホから目もあげない。SNSのくだらない投稿をしたり、いいねを押すのに忙しいし、マッチングアプリや出会い系サイトで異性をひっかけるのに忙しい。結婚相談所に入る同年代を見て、まだ若いのにあんなに焦って馬鹿だねーと笑いながら、自分はいかに後腐れなくセックスできるかしか考えていない。結婚前提の堅苦しい交際ではなく、友達みたいに、いわば「大学生の時みたいに」何にも考えずにカジュアルにお手軽に「楽しめる」恋愛だけを求めていて、結婚するかどうかは考えていない。「いつかは」結婚するかどうかは考えるかもしれないけど、少なくとも今は結婚するかどうかについて考えるつもりはない。
 そういう二十九歳はそんなに珍しくなくて、何処にでもいる。男にも居るし女にも居る。結婚よりも自由が大事、自分自身の方が大事、よっぽど大事。結婚相手も子供も、自分から自由を奪う敵でしかない。
 誰にも私達の気持ちは判らない。
 私達のような人間の気持ちは、誰にも判らない。自由を捨てて子供を産んでしまった人間どもには私達の気持ちは判らない。
 昔は何でも自分で選ぶ事ができたのに、選ぶ自由があったのに、皆それを捨てて結婚してしまう、子供を産んでしまう。
 自由が無い事を幸福だと言って配偶者に束縛されて、子供に時間もお金も奪われて、それを幸せだと、それでも幸せだと、寝不足で隈を作りながら言う人間の意見を私は信用しない。
 私にとって婚約指輪は憧れなんかじゃなく、奴隷契約へのサインしろと圧力をかけるもので、結婚指輪はあのサイズにして男と女を縛る手錠みたいなものだった。

「別れてください」
 皮肉にも私に求婚したのと同じ高級フレンチレストランでしかも前回と同じ個室で、時間帯も同じランチの時間、それなのにこんな事を言われるはめになるとは、洋は本当に可哀想。可哀想だからって同情はしないけど。
 こないだの埋め合わせに付き合えと言われて、前と同じレストランに呼ばれて、前と同じように綺麗に着飾っていった私を見て洋は満足そうにしていたけど、それが別れを告げるため、最後の礼儀としてだとは思わなかったようだ。
 前回、自分がトイレに行っている間に女性スタッフが花束を持ってきて、その時に私に逃げられるという大失態を犯した洋は、メインのお肉料理が終わって、デザートの前に、女性スタッフにバラの花束を持ってこさせると、ポケットに忍ばせていた指輪の箱を取り出した。女性スタッフは去り、洋は椅子から降りてひざまずいて、ティファニーの箱をかぱっと開いて指輪を見せ、真剣な表情で求婚の台詞を切り出した。
「エミリ、絶対に後悔させないから、俺と結婚してください。エミリが望むなら、無理に子供も作らなくていい。籍は入れる事になるけど、エミリがそうしたいなら最初は別居婚でもいい。家事は俺もしっかり半分やるし、お互いのライフスタイルを壊さないように、完全に彼氏彼女のままでいるのは難しいけど、できるだけカジュアルな感じにするよう努力するから、結婚して欲しい。エミリの自由を奪わないよう、俺努力するから、だから・・・・」
 そんな長い台詞よく言えたな。と冷めた目で彼氏を見下ろしていると、さっきの女性スタッフがフルーツタルトを持って戻ってきて、まさにこの個室に入ってこようとしていた。そのケーキにはお祝い事の時によくレストランが使うバチバチするミニ花火が乗っていて、ケーキの表面にフランス語で「婚約おめでとう」と書いてあるのと、その女性スタッフの後ろには、お客様におめでとうというためにわざわざ駆け付けたであろう二、三人のスタッフが並んでいるのを見て、私の心はすっかり冷めきり、このタイミングで別れを告げる事にした。
「別れてください」
 冷めた目で別れを切り出したせいで、場の空気は凍った。お祝いケーキを持ったスタッフと他のスタッフは途端にさーっと青ざめ、まさかの衝撃的な展開にそれ以上何も言えなくなり、それ以上部屋に踏み込んでくるのをやめてその場にとどまっている。一方別れを告げられた洋は、後ろから殴られたみたいに呆然としていて、かと思いきや、急に顔が真っ赤になり、激しく感情を露にして怒り始めた。立ち上がった彼は、私に向かって怒鳴り散らす。
「どうしてなんだ!どうしてそんなに結婚が嫌なんだ!俺が、俺がどんなに君を愛してるか、知らない癖に!俺は、俺はな!エミリ!エミリが結婚する気が無いって言って、俺のプロポーズから逃げられた時、すごく苦しくて辛かったけど、それでも愛するエミリのために、できるだけ妥協してるんだぞ!俺は子供がめちゃくちゃ欲しいのに、それでもエミリに産んで欲しいなんて言う権利無いから!子供を作らず二人で生きて行ってもいいって本気で思ってるし、もし俺の親にその事でエミリが何か言われたとして、俺が全力で庇うつもりだった!本当は一緒に、今すぐにでも一緒に住みたいのに、でも自由を奪われたくないって言うエミリのために、できるだけ生活を変えずに済むように、俺がエミリの家の近所に引っ越して、週末婚とか平日の夜晩御飯だけ食べてその後は別々の家に帰る、みたいな生活でもいいって考えてたし!結婚して縛られたくないって言ってたから、結婚してもできるだけ変わらないよう、これまでの彼氏彼女みたいな関係のままで居られるように、俺もいろいろ考えてたのに!それをエミリが全部ぶち壊したんだぞ!」
 洋が大演説をする間中ずっと、私は反論せずに黙って聞いていたが、堪えられなくなり、激高する洋の顔に向かって、グラスに注がれていた冷たい水をぶっかけた。水をかけられた洋は勢いがなくなり呆然とした。私は彼に口を開く隙を与えないまま、自分でも怒りのあまりものすごい勢いでしゃべり始めた。
「何がエミリのためよ!何が愛してるだ、何が愛するエミリのためだ!ふざけんじゃねえよ!お前は私の何を知ってるって言うんだ、お前は私の何を愛してるって言えるんだ、え?!どうせ私の見てくれだけにしか興味が無いくせに、私がどういう人間で、どういう考えを持って生きてるかなんて、人間としての私なんか一度だって見てくれた事が無いくせに、夏目漱石の何たるかとか、ワインをボトルで頼むかどうかとか、そういう事一度だって考えた事無い頭空っぽのイワシ野郎の癖に、一体何様なの?!だいたい私は結婚したくないってこないだはっきりお前に伝えたのに、もう一度懲りずに結婚を申し込むなんてあんた馬鹿なの?別居婚でもいいとかほざいてるけどそれはあんたが勝手に妥協してるだけでしょ?!私は一度だってあんたにそんな事要求した事無いよ、だってそもそも結婚する気が無いんだから!結婚する気も無いし子供だって産むつもりも無い、この際だから言っておくけどあんたの子供なんか最初からいらないと思ってたわ!それにあんたが子供欲しいかどうかなんてね、どうでもいいしはっきり言って気持ち悪いんだよ!子供子供って、自分が産めもしないのに贅沢言ってんじゃねーよ!お前レベルの遺伝子なんか残すだけ地球に申し訳ないと思うべきだし、そんなに子供が欲しいなら精子提供でもすれば!!」
 一気にまくしたてると、洋を突き飛ばし、スタッフ達を睨んで「どけよ!」と叫んでこれもまた突き飛ばすようにして部屋を出て、そこからずんずんエレベーターに向かって歩き、エレベーターに乗って建物の外に出ると、怒りのままにタクシーを呼んで、ぶっきらぼうに家の住所を伝えて自宅へ送ってもらった。タクシーの運転手は怒り狂う若い女の客に恐れをなしたのか、何も聞いてこなくて助かった。家へ帰る道すがら、スマホに入っている洋の連絡先をブロックする。メッセージは来ていなかったが、見るのも嫌なので、過去のトーク履歴も全部消した。
 家に帰ると、猫のティファニーが私を見るなり甘えて足元にすり寄ってきて、お腹を見せてごろんと横になったが、怒り心頭の私は猫に構う余裕がある訳もなく、ほぼ蹴っ飛ばす勢いでずんずん前に進み、ベッドに倒れ込んだ。ちょっと蹴られた猫は怒るでもなく、これはただ事じゃないと言った風に慌てて私に駆け寄ってきて、にゃーと鳴いて神妙な顔で鳴いたが、私は彼女を無視して横になり続けた。
 どれぐらいそうしていただろうか?自分でも気づかないうちにぐっすりと寝込んでいて、気が付けば外は暗くなっていた。六時前。起き上がってカーテンを閉める。しばらく横になっていたせいか気分が良くなってきたので、冷蔵庫から赤ワインとチーズ、生ハムを取り出してつまみ始める。酒が入るとネガティブな気持ちも薄れてきた。酒を飲むのは人生で最も素晴らしい事なのに、それをガキのせいで奪われると思ったら、妊娠なんてとんでもない。私の子宮には絶対そんな事させるものか。飲酒習慣があると不妊症になりやすいらしいので、子供なんて作らせないという気持ちを込めて飲酒を続ける。ついでに猫にも餌をやる。空っぽの餌にキャットフードを入れてやると品が無くがつがつと食べ始めた。
 だんだんいい感じに酔っ払ってきて、つまみじゃなくて本格的に晩御飯を作ろうと思い立つ。冷蔵庫を開けて今ある材料の中で使えそうなものをいくつか取り出し、料理を始めた。パスタをゆで、野菜を切る。その間もワインを飲んでチーズや生ハムをつまんでいると、電話がかかってきた。画面を見ると、冬子だった。
「はい、もしもしー」
 ほろ酔い気分で電話に出たのに、何だか冬子は激しく怒っておいでだ。
「ちょっとエミリ!あんた一体どういうつもりよ!」
「どういうつもりって、私はいつもこういうつもりですけどお」
「ちょ、あんたまさか酔っ払ってるの?!もう、洋さんのプロポーズまた断ったんだって?!彼が今泣きながらうちに来てて、旦那がもうずっと慰めっぱなしよ!どうしてくれんのよ!」
「どうしてくれんのって、別にあんたの家族を傷つけた訳じゃないんだから、あんたがそこまで怒るの理解できない」
「何言ってるの?!あんた人の心が無いの?!しかもよりによって前と同じレストランでのプロポーズで、プロポーズされた瞬間に振ったんですって?!スタッフも見てる前で!」
「・・・・冬子には理解できないのは判ってるよ。別に弁解するつもりも無いから」
「はあ?!あんたはクズよ、人間のクズよ、あんたみたいな人間のクズ、一生結婚できずに独身のまま過ごして最期は孤独死すればいいッ!!」
「・・・・言われなくてもそうするつもりだったわよ、最初から。というか、最初からそのつもりで、ずっと一人で生きていくつもりだったのに、私の計画を見事にぶっ潰して二回もプロポーズしといて、少なくとも一回目のプロポーズの後には結婚するつもりは無いって伝えておいた筈なのに、性懲りも無くプロポーズしてきたのは洋の方。私には人の心があったからご丁寧に、結婚するつもりも無いし別居婚も入籍も全部嫌だって、前の時に伝えた筈なのに、あいつは私の話を全然聞いてくれなくて勝手に暴走した。一方だけの話を聞いて勝手に責めるのはやめてくれる?」
 マイナス百度の冷たさでつらつらと反論したら、ヒートアップしていた親友が黙った。そして、気まずそうな口調で謝罪してきた。
「・・・・・ごめん」
「別にいいよ。ああいう振り方は最低だって自覚あるし。でも、あのまま洋がずっと暴走し続けてたら、無理矢理結婚させられそうになる危機感もあったんだよ。そもそも、一度私はプロポーズを断ったんだよ?逃げるって言う事で。普通だったらもうそこで私みたいな女、ああもう結婚するのは無理だなって判断して、別れる事も視野に入れるでしょ。何なら逃げた時点でもう洋に別れようって言われてもしょうがないって私は思ってた。でも、それでも私を諦めなかったのは洋。あそこまで言われても結婚したい気持ちを持ち続けてたのは洋。私が別居婚も何もかも嫌だって言ったのに、話を聞いていなかったのも洋。何も学習せずにプロポーズしてきたのも洋」
「・・・・それは、確かに、そうだね」
「そもそも、私が前回と同じ店で彼に恥をかかせたみたいな事あんた言ったけど、前にプロポーズしたのと全く同じお店を選ぶ事自体、頭おかしいでしょ?まともな人だったら、場所を変えるとか、だいたい一回断られてんだから、もっと慎重になる筈でしょ。でも洋は私の意向を全部無視して、ああいう暴走を勝手にしといて被害者面してんのよ?どっちが悪いかなんて明白でしょ。結婚は両性の合意によってなされる筈なのに、片方の意志だけで結婚しようなんて、私の人権を無視してるのと一緒よ」
「・・・・・・」
 淡々と言葉を重ねると、冬子が再び黙った。親友が黙ったので、沈黙が起き、冬子の電話の向こうの音もよく聞こえてきた。洋がすすり泣く声と、それをずっと宥めている親友の夫の、穏やかな声が聞こえてきたのだ。私は冬子の夫が大嫌いだった。穏やかなふりをしているけれど、中身は一癖も二癖もある厄介な男だから。どうして冬子があんな男と結婚生活を続けられているのか、不思議でしょうがないぐらいだった。あいつが冬子にモラハラでもしてくれれば、モラハラ被害を弁護士に相談させてがっぽり慰謝料取って離婚させられるのに。でもあいつは冬子に対してはスパダリぶりを発揮しているらしいので、当分その夢は叶わない。きっと向こうも私の事が嫌いに違いない。いつも冬子が電話をかける親友のあの女、スペインハーフのエミリとかいう女、あいつ外国の血が入ってるらしいから頭おかしいに違いない。いつもいろんな男をひっかける魔性の女の癖に、今はよりによって俺の親友を毒牙にかけてやがる。そんな女が俺の愛する妻の親友だなんて耐えられない、冬子もさっさと縁を切ってくれればいいのに、俺と行くって約束してた筈のテーマパークにあの女と行きやがった。でもそれはお前が、私と冬子がいつか一緒に行こうって高校生の頃から約束していたパリに新婚旅行で冬子と行きやがったから仕返しされて当然。
「あんた、本当にそれでいいの?」
 沈黙が終わった後、最初私を糾弾するような口調だった冬子が、今度は打って変わって心配するような口調で問いかける。
「何が?」
「幸せにならないまま、生きていって」
「冬子にとって独身貴族は不幸なの?」
「そういう訳じゃないけど、でもだってエミリ、言ってたじゃん、幸せになるより不幸になりたいって」
「うん、言った」
「どうして不幸になりたいの?」
 今度は私の方が黙る番だった。
「エミリは美人だし頭もいいし才能もある。翻訳家としても頑張ってるし、翻訳した本が本屋さんにあるレベルじゃん。愛されて育って、特に大きいトラウマが、少なくとも私の知る限りでは無いし、すごく恵まれてる筈なのに、どうしてそんなに幸せから遠ざかろうとしてるの?理解できない、私には理解できない、どうして自ら不幸の方へ歩いていこうとするの、エミリ、ねえ、エミリ」
「誰にも私の気持ちは判らないよ」
「あんたいつもそう言うけどね、だったらこの世の誰ならあんたの気持ちが判るって言うの?この世の誰ならあんたの気持ちが判るって言うの?」
「さあ・・・・」
 何度目か判らない沈黙。
「エミリ、私ずっとあんたの事見てきたけど、いつからそんなにおかしくなったの?少なくとも高校時代はそんなに頭おかしくなかったじゃん」
「・・・・・・」
「あんたがそんな風になったの、大人になってからだよ」
「・・・・・・」
「教えて、エミリ、何がそんなにあんたの事をおかしくしたの?何があったの?私の知らない間に何があんたをそんな風に変えたの?」
「恋、かな」
「恋?」
 唸るようなトーンの親友。
「そう、恋」
「あんたの言う恋、ってこないだ言ってたあの元カレさんの事?それとももっと他に沢山居る元カレ達の事?」
「多分、こないだ話した人かな」
「その人、あんたに何をしたの?」
「別に。私を振った」
「どうしてその人が・・・」
「私をおかしくしたか?」
「そう」
「多分、理想通りの人だったからかな。あまりにも完璧すぎて、理想通りだった。別れた後も。別れた自分を後悔したし、いつか何処かで再会できればってずっと思ってた・・・その夢が叶ってしまったのは、予想外だったけど。理想通りの人と結ばれなければ、他の人なんてどうでもいいの。洋の事も。まあ、駿君と出会うもうずっと前から私はおかしかったのかもしれないけれども」
「その人の事、愛してるの?」
「どうかしらね。私は頭がおかしいから」
「・・・・・」
「でも、頭おかしい私も含めて丸ごと愛して欲しかった。そうしてくれる男は居なかった。洋もそうだった。たった一人そうしてくれたのは、駿君だけ」
「駿君との恋愛は、幸せなの?不幸なの?」
「そんなの不幸に決まってるじゃない。でも、それでいいの。幸せな恋愛や結婚や出産は、私向きのイベントじゃないからさ」


 婚約指輪。
「エミリ」
 私から自由を奪う、
「エミリ」
 奴隷契約へサインするよう促す証拠品、
「エミリ」
 私には縁の無いイベントだと、
「エミリ」
 どうして?
「エミリ、聞いてる?」
 聞いてなんかいない。
 ゴージャスに着飾った私の前には、同じぐらいゴージャスに着飾った駿が頬を赤らめて座っていて、世界中の美しさを閉じ込めたみたいな日本庭園がすぐそこに見えるお高い和食レストランの、特別に予約された個室の、掘りごたつ式の席で、もうどうしようもないってぐらいに用意された完璧な薄暗い黄昏時の、夕暮れと夜の間の色が、私よりカラフルで派手な、でっぷり太った錦鯉が何匹も泳ぐ池に良い感じに反射してとても素敵。だけどこの思惑は私の望んでた事と正反対過ぎてちっとも素敵じゃない。しかも、またしてもメインディッシュが終わって今から和風スイーツのデザートがやってくるという前のタイミング。どいつもこいつも、デザート前のプロポーズが好きらしい。
 洋の時と同じように逃げようと思ったが、それはどうやら使い古された手段だったようだ。
「エミリ、結婚してくれる?」
 真剣な瞳でそう問いかけてくる駿が、テーブルの上に出してあった私の左手を、結婚を申し込まれた瞬間引っ込めようとした左手をつかんで、私の方向にこれ見よがしにパかっと開かれているネイビーの指輪ケースから、てめえの給料何か月分だよって思うような、どでかいダイヤモンドが光る婚約指輪を、私の薬指にいきなりはめてきた。一切承諾していないのに。
 仰天して指輪を手から抜き取って池にでも放り投げてやろうかしらと思ったのに、駿は私の左手を自分の両手できつく握りしめて離さない。
 こんな事ならよりを戻すんじゃなかったと、心の中でうめく。
 正式によりを戻してからのデートはまだたったの四、五回しか重ねていないのに、先週七年ぶりに体を重ねてから、妙に様子がおかしいと思ったらこのような事を企んでいたとは。ヤリ捨てしてくれちゃっていいのに、妙にはりきって、俺が責任取るとでも思っているんでしょうこの、青二才めが。
「エミリ、返事は?」
 私は拘束されていない右手で、自分の左手を拘束している両手を思いっきり叩いた。痛っ、と驚いて駿が手を離す、その瞬間、指輪を抜き取る事も忘れ、自分の左手を右手で守るように包み込み、男の方を睨みつけながら自分の思っている事を言う。
「返事も何も、私は一切結婚したいとは思ってない。勝手に暴走するのはいい加減にしてくれる?私は誰とも結婚する気が無いし、子供も産みたくない。いつ私があなたの奥さんになりたいと言ったの?どうして私の気持ちを決めつけるの?」
 駿は驚きを隠せないまま反論する。
「エミリは結婚したくないの?でも俺と付き合ってた頃は結婚したいって言ってたじゃないか」
「若い時は間違った事を言う事もあるの」
「で、でも俺とやり直す事を選んでくれたのは、少なくとも今後の人生で俺とずっと一緒に居たいって思ってくれたからだろ?エミリもそう言ってたじゃないか。だったら、ずっと一緒に居るために結婚しようよ。子供は、・・・無理に作らなくていいし」
「結婚しないとずっと一緒に居られないの?恋人同士のままではずっと一緒に居られないの?不確かな愛に身を任せながらこの先の人生、愛だけで漂う事はできないの?」
 鋭く問いかけると、戸惑った様子で答える彼。
「ずっと恋人のままなんて・・・それじゃエミリに何かあった時に、夫として守ってあげる事ができないし、それに・・・・」
「守る?」
 私は信じられなくて目を見張る。
「守る?!何が守るよ!あんた、人を馬鹿にするのも大概にしなさいよ!」
 怒りのあまり立ち上がる。
「私がいつあんたに守って欲しいなんて言ったの?!」
「え、いや、エミリ・・・」
「私が欲しいのは心の闇もすべて理解してくれる理解者よ!誰にも守ってくれなんて言って無い!私の事を守るのは、自由を奪うのと一緒よ!」
 私は激高して、部屋から出ていこうとした。今すぐにでもそうしたかった。
 それだのに、ああ、愛と言うものはかくも愚かなものだろうか。
「エミリに何て思われてもいいよ。俺はエミリの事を、エミリだけを愛しているから」
 駿は自分も立ち上がり、喚き散らしたいぐらい怒りでいっぱいな目の前の女を抱きしめた。
 その胸に抱きしめられた時、私は負けたと思った。人生に。人生そのものに。私、冷泉エミリは負けたのだと。
 不幸になる事ができなかった。
 不幸になりたくて生きてきたのに。
 いつの間に私はこんな、頭のおかしい女になってしまったのだろう?
 駿に抱きしめられながら、自分も駿の背中にそっと手を回す。
 私の理想の人。
 こんな形で愛してるなんて、言われたくなかったよ。
「駿君」
「エミリ」
「あなたって馬鹿ね」
「うん、そうだよ」
「でも、そんなあなたに愛される私の方が、よっぽど愚かよ」
 

 お互いの愛を確かめ合った後、そうは言っても、結婚絶対反対派の私がその場の流れに流されてプロポーズを受け入れる訳では無く、駿と私は長い時間をかけて話し合い、その結果、私は駿のプロポーズを受け入れる事に決めた。つまり、正式に婚約したのである。あの私が。
 この話し合いの末、私と駿は様々な事を決定したのだ。
 最重要事項は、私の自由を確保する事。自由を奪われるから結婚は嫌だと拒否する私にとって、自由を確保できるかどうかは無視できないものである。そもそもだからこそ結婚は嫌だったが、
「エミリが納得できるまで俺は歩み寄るし、俺よりエミリの事を何よりも尊重するから!」
 と全力で説得され続けたので、まあ、それならお手並み拝見と行くか。と思ったのである。
 ただ、二十代のうちはぎりぎりまで一人の自由を楽しんでいたい。三十歳になればもう諦めもつくが、二十九歳の内は自由な感じを楽しんでいたいので、私の三十歳の誕生日の前日までは婚約期間、三十歳の誕生日に婚姻届を提出しようと言う事になった。私が三十になるまであと数か月はあるので、それまでは婚約者として結婚を具体的に意識しながら過ごす事になる。
 で、結婚については、当初私の希望通り別居婚で行こうという事になっていた。だが、よりを戻してから何回か、駿が私の家に泊まった時に、何故か猫のティファニーが異常に駿に懐いてしまい、駿自身もティファニーに夢中になってしまったのだ。もし別居婚という事になれば、毎日ティファニーと会う事は難しい。そのような状況になる事に対して、駿がストレスを抱くかもしれないという事が判明した。とは言え他人と暮らすのが無理な私にとって、完全に同居というのは受け入れられない。
 ではどうするか、と悩んでいた時、駿の親戚で二世帯住居に暮らしていた家族が、家を手放さなければいけない事になった。親夫婦と娘夫婦で住んでいたが、娘夫婦が仕事の都合で海外に引っ越す事になってしまった。親夫婦も、父親の方が病気で急死してしまい、母親は一人では不安なので、孫の子守のためにもと、娘と一緒に海外についていく事になったという。そんな訳でもうその家には誰にも住まないが、その親戚一家も赤の他人に売るには少し抵抗があったのだそうだ。内装等を母親と娘がかなりこだわったらしく。海外へ引っ越すまでに家を売らないといけないのに、わがままを言っていたという。しかし駿の母親がその親戚と親しいらしく、息子が婚約者と住む家を探している事と別居婚希望なので、二世帯はちょうどいいという事を伝えると、喜んで売ってくれると言ったそうだ。しかも親戚価格で、かなり安く売ってくれた。
 という訳で、私と駿の新居は、その中古の二世帯住宅に決まった。二つの家族が別々に暮すための作りだから、これで私と駿の居住スペースも完全に分ける事ができる。夫婦でそんな使い方をする人は居ないと思うけど。ともかくこの方法で、普段は別々に暮らせるだけでなく、一緒に時間を過ごしたい時はどちらかがどちらかを訪ねればいいし、駿もティファニーと離れて暮らさずに済む。
 それから、当然の事だが、子供は作らない。夫婦二人で、いつまでも恋人同士みたいに暮らすのだ。それ以外有り得ない。
 親友の冬子にカフェで婚約した事を伝えると、顎が外れそうになるぐらい驚いていた。
「行き遅れなくて良かったね!」
 と嫌味を言いつつも、その目は涙ぐんでいるのを私は見逃さなかった。二世帯住宅での別居婚や子供を持たない選択については、
「あんたらしいわ」
 と安堵したように言った。
 両親同士の顔合わせは、駿が見つけてくれたお洒落なイタリアンレストランで、貸し切りにできると言うので、貸し切りにしてもらい、顔合わせをした。
 絶対に結婚しないと言っていた一人娘が突然婚約したので、両親は驚くどころかちょっと引いているぐらいのテンションだったが、結果的には喜んでいた。スペイン人の私の父親と、ドイツ系スイス人のハーフである駿の母親は意気投合し、純日本人の配偶者同士を置いて盛り上がっていた。駿の父と私の母も和やかに談笑した。
 両家顔合わせが済んで、家の購入手続きが終わると、私と駿はさっそく暮らし始めた。ティファニーも一緒に。
 約束通り私の三十歳の誕生日までは婚約者として過ごし、残り少ない独身としての時間を楽しんだ。
 三十歳の誕生日の当日、駿が有休をとって婚姻届を二人で提出しに行き、その帰り際に結婚指輪を買った。それほど高くはないが、安くもない、そこそこの値段のものを選んだ。結婚式は、二人だけで挙式できるものを選択し、誰に見られる事もなく行った。私は白いドレスを拒否したかったので、紅いドレスを選び、タキシード姿の駿と式を挙げた。披露宴はナシで、後日それぞれの親族に個別に互いを紹介する形を取った。
 新婚旅行は豪華にヨーロッパ巡り。と言っても全部の国を回る事はできないので、駿のおじいさんの出身国であるスイスを少し見て、私の父の出身国、スペインも回り、最後にパリで時間を過ごしてから帰国した。タイトなスケジュールではあったものの、なかなかに充実した一週間だったと言える。
 

 きりのいいところまで仕事を終え、二階の自分の居住スペースから一階に降りると、駿が料理を作ってくれていた。土曜日のお昼、ゆったりとした時間。
「エミリ!ちょうどできたから食べよう」
 エプロン姿で微笑む駿。彼の足元には、まとわりつくティファニー。
 私が望んだ幸せは、こんなだっただろうか?
 いや、まさか。全然違う。
 城から城へ渡り歩く魔性の女、各国の王子をたぶらかす悪女、それが私の望んだ自分の姿。こんな風に一つの城に滞在し続ける人生は一ミリも望んでなかった。
 ほんの少しも。
「ありがとう」
 と言って席につく。
 私は誰も愛していない、自分以外誰も愛していなかった、それは間違いない。
 数々の男と付き合ってきた、誰の事も丁重に扱わなかった、千年前の歴史書とか、高価な贈り物をデパートの店員が包むぐらい丁寧に扱った男は一人も居なかった、それでも。
 それでも駿の事だけは忘れられなかった。
二十二歳の時に付き合ってた駿はまさに私の理想通りって感じだったのに、どうしてあの手を離しちゃったんだろう。昨日あいつが夢に出て来たけど、もう今更どうしようもないんだよね、もう二十二歳じゃないから。日本酒の味も夏目漱石の何たるかも知ってる男の子だったのに、説明すれば辞書の中の言葉を探す事もイパネマの娘の意味だってきっと判ってくれたのに、だけれども私はそれをしなかったし、二人は永久にお互いを失ってもう戻ってこない二十二歳の冬。車の上にはどっさりと冷たい雪が積もって、サングリアの上に飾られたコットンキャンディみたいで馬鹿馬鹿しかった。今頃どうしているのだろう、そんな事すらもうどっちにも知る権利が無いのに、そう思っていた人が、今同じ屋根の下に一緒に暮らしている相手になった。
 もうスターバックスに行っても駿の事を思い出す事は無いだろう、コーヒーとスコーンを頼んでも切ない気持ちになる事は無いだろう、だって、彼はもう過去の人ではないから。
 彼の作った料理を食べて、美味しいと微笑むだけで駿は嬉しそうにする。
 猫が私の膝の上に飛び乗ってきて、ごろごろとのどを鳴らすから、撫でてやるととても幸せそう。
二十九歳って、あぁ何でこんな遠いところまで来ちゃったんだろうって感じの年齢である。昔好きだった人の事を想ったけど、だいたい私はもういい大人だし、狭い部屋でヘッドホンしてキーボード弾いてる男の子を見てたまらない気持ちになったのは多分もうずっと前。深夜に地球の反対側に住んでるあいつの事を考えて爽やかな朝の動画を送られてきて何だかよく判らない感情に襲われたのもずっとずっと前の事。
 でももうそれも昔の話。だって私はもう、二十九歳じゃないから。
 三十歳になって、結婚した私は、もうこれ以上出会いを求める必要は無い。もう愛について深く考え過ぎる必要も無い。
 お気に入りの本屋で理想の人と理想のやり方で再会する事に固執する事はもう無いのだ。
それでも、もし誰かが本屋で私とすれ違って、私の事を見て、夏目漱石の所で危険なまなざしですれ違っても、私の事は口説けない。でも思い出して欲しい、分厚い辞書の中からどうやって私を想う言葉を見つければいいのか、探して、言葉を。思い出して欲しい、言葉を、私を。
 但し、二十九歳の時の私とは決定的に違うのは、私の左手の薬指には光り輝く、プラチナの指輪がはまっているという事。
 そしてその輝きは、決して失われる事は無いのだ。
 永遠に。
                                     「完」

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