【ネタバレ】映画そのものが「あまのじゃく」――「好きでも嫌いなあまのじゃく」レビュー&感想
スタジオコロリドが送る長編アニメ映画「好きでも嫌いなあまのじゃく」。本作のヒロインの少女は鬼であるが、あまのじゃくなのは彼女ではない。一番「あまのじゃく」なのは、何よりもこの映画自身である。
1.凡作、つまらない、ひどい……本当に?
八ツ瀬柊は高校1年生。頼まれ事を断れない彼はクラスでもどうにも損な役回りばかりの日々を送っていた。そんなある日、彼はツムギという少女を助けるが彼女の正体はなんと鬼で……!?
「ペンギン・ハイウェイ」などで知られるスタジオコロリドがNetflixでの配信及び劇場公開作品として製作した「好きでも嫌いなあまのじゃく」。キービジュアルから「ボーイ・ミーツ・ガールものかな?」くらいの気持ちで映画館へ行った私だが、観終わった直後は首を傾げたのが正直なところであった。本作は鬼の隠れ里が雪神様の雪によって人の目から隠れているだとか、自分の気持ちを押し殺している人間は体から小鬼という雪のようなものが出てやがては鬼になるだとか、色々な設定が意味ありげに語られるがそれらは物語を牽引する謎としてはあまり機能していない。また母親を探しているという鬼の少女・ツムギと柊が目的地を目指す道中はロードムービー的な作りとなっているが、それらが後半への伏線になっているとも言い難い。そもそもで言えば柊は自分の気持ちを押し殺してしまう悩みを抱えているというが、発端が頼まれたのではなく自分からの善意の申し出の場合も多く苦悩としては中途半端に感じられてしまう。
重要そうに見えるものが重要でなく、深刻そうに見えるものが深刻でない――そういう作品を普通は凡作と呼ぶのだろうが、こと本作に限ってはそれは結論を急ぎ過ぎている。なにせこの映画のタイトルは「好きでも嫌いなあまのじゃく」であるが、鬼こそ出てくるものの種族としてのあまのじゃく(天邪鬼)は存在しない。また柊やツムギがあまのじゃく=他者に反発するひねくれ者なわけでもない。あまのじゃくは他にいる。例えばそう、「重要そうに見えるものが重要でなく、深刻そうに見えるものが深刻でない」作りそのものがあまのじゃくだったとしたらどうだろうか?
2.映画そのものが「あまのじゃく」
全体としてぼんやりとした印象を与える本作だが、一番大切なものは実ははっきり示されている。なにせラストは再び柊のところへやってきたツムギが「本当の自分の気持ちを伝えにやってきた」と語る場面で、すなわち恋心の告白に続くと思われる場面で幕を下ろしているからだ。首を傾げていた鑑賞者も、おそらく多くは「これはやっぱりボーイ・ミーツ・ガールなんだな」とは思ったことだろう。そしてツムギが告白について「次は私の番」だとも語っているのを踏まえれば、本作は柊が本当の気持ちに素直になるための物語だったのも見えてくる。何に? 頼まれ事を断ることに? 否。高圧的な父に言えない本音に? 否。そうではない。本作がボーイ・ミーツ・ガールであるなら、次は私の番とツムギが語るなら、それは柊のツムギへの恋心以外にあり得ない。
謎の化け物(雪神)に襲われて逃げ出したのが発端であることから明らかなように、柊とツムギの旅路は無謀にして無計画である。(父親の嘘だったのだが)目的地=ツムギの母の消えた場所は日枝神社と分かっているのだから、家出のような形を取る必要もなかったはずだ。けれど柊とツムギは頑なに二人旅を続け、気を失ったツムギを助けてくれた旅館「宝珠の湯」の女将さんに理由を問われても柊はけして答えようとはしなかった。鬼が絡んだ事情があるにしても、それを隠して話すことは十分可能だったろうにも関わらず、である。だが、もし柊が上手く事情を説明できた場合、物事がスムーズに進む一方で二人旅は終わってしまう。愛の逃避行とからわかれるような、二人だけの時間は終わってしまう。おそらく柊は、自覚すら無いまま己の恋心にあまのじゃくに振る舞っていたのではないだろうか。これは念願だったはずの母と再会したにも関わらず「寂しいと思いこんでた」「父がいて一人ではなく、柊にも会えた」と語っているところからも明らかなように、ツムギの方も同様であろう。柊とツムギにとって一番大切なのは二人で一緒にいられることそのものであり、すなわち本作が重要そうに提示する雪神や鬼といった要素はあまのじゃくな目眩ましでしかなかったのだ。
ツムギは終盤、(もちろん軽いものではないのだが)表面上の目的であった母との再会を果たすが描写はそこに比重を置いていない。「再会」が重要なのはむしろ、途中でツムギが「もう関わらないで」と言ったり食料庫に閉じ込めるなどして離れ離れになった柊との再会の方だ。無論ツムギは柊と離れたいと思っていたわけではなく、これは本心とあまのじゃくに振る舞ってしまった結果に過ぎない。だから、見かけ上拒絶されたにも関わらず柊がツムギを追いかければそれだけで彼は素直になったことになる。あまのじゃくをやめて行動で恋心を伝えたことになる。だからこそツムギはラストで柊と「再会」した際、素直になるのは次は自分の番だと語るし、どれだけ一見ぼんやりしていようと本作がボーイ・ミーツ・ガールであることだけは伝わるのだ。そんな風にこの作品を捉え直してみると、ツムギがもっともキュートな顔を見せているであろうラストカットを敢えて暗転で隠してしまうスタッフのあまのじゃくな遊び心すらどこか微笑ましく思えてくる。
気持ちというのは不思議なものだ。論理的に正確に話せば伝わるとは限らないし、タイミングを外せば口にできるものもできなくなってしまう。けれど熱いと分かっている揚げたてコロッケをハフハフ言いながら口にしたほうが美味しいように、時にはあまのじゃくなやり方の方が相手に届く場合もある。素直になるべきはその表現方法というより、自分自身の心に対してなのだろう。
「好きでも嫌いなあまのじゃく」は映画自体があまのじゃくな作品である。けれど、己が何者であるかに対し本作はけして嘘をついてはいないのだ。
感想
以上、「好きでも嫌いなあまのじゃく」レビューでした。スクリーンを出た時は本当に頭を抱えたのですが、ラストシーンを入口にしてみると(これもあまのじゃくな話だな……)思わぬ世界が広がっていたことに気付かされました。コロッケの描写が最後に自分の中で繋がって興奮しております。こうして見ると小野賢章さんの演じる柊というキャラがとても面白いし、富田美憂さん演じるツムギはいっそうかわいらしい。あまのじゃくを経た分だけ、愛おしくなってくるものがある。
こういう実験的な作風で作れたのはNetflix同時公開のおかげでしょうかね。頭を刺激される鑑賞体験でした!
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