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夢 2 夢幻の里  (幻想文学・連作短編)


 ある青年が真冬の寝台の中で見た夢の話である。

 この町に名前はない。人々は、ただ、余所者たちに夢幻の里と呼ばれていることを知っているのみだった。青年は町の端にある小さな一軒家で、友人らと共に四人で静かに暮らしていて、特別な人間ではなかった。

 ある日のこと、青年は友人らと朝食を食べた後、外へ出て、町の中をゆっくりと歩いて回った。のどかな、草木の揺れる様子が美しい景色の中を行った。

 町の中心にある広場のそのまた中心には、大きな螺旋階段があって、天に向かって相当高い場所まで伸びている。しかし、鉄のような質感のそれは、空を手にしたいと願ったものが途中で挫折したとしか思えないほどに中途半端に、突然に途切れている。

 登り切った最先端には、落下を防止するための頑丈な柵が備え付けてあって、その昔、地球という星など、ただの檻だ、と、誰かが言ったらしいことだけが、子どもたちの間で密かに言い伝えられている。かつては、青年もその子どもたちのうちの一人だった。

 螺旋階段の前には藍銅鉱が埋め込まれた台が用意されていた。葬式の準備の途中だった。

 とある少女だったその砂は、台の上にある正方形の透明なガラスの箱に入っていた。明るい色をした幼い装飾は彼女らしいものではあったが、青年が知っている彼女は、心のうちに孤独と闇をとを抱えた廃墟のような雰囲気も持ち合わせていた。

 それは彼だけが知っている彼女の姿だった。けれどもそんなものは、後の世には彼女の生きた証は何も残らないのだから、些細な違いだった。

 青年は箱に近づいて見つめてみたが、もう喋らなくなった、その砂を彼女であるとは思えなかった。彼が愛したのは彼女の一風変わった言動と純粋な瞳と、いつも寂しげな表情で、一人で本を読んでいる姿だった。傷ついた彼女と、彼女についた傷を愛していた。ここにある砂ではない。

 それでも、この姿こそが彼女の最期であることに変わりはなく、彼はこの灰さえも愛すべきであるかどうか、迷った。死者とは何であるか、迷った。

 この美しく飾り付けられたガラス箱は夜までここにあって、その間は自由に別れを告げに来ることができる。夜になると町の人々が集まって死者を海へ運ぶ。そして流す。昼間に硝子箱があった場所まで戻って、朝まで馬鹿騒ぎをする。そのための楽器や酒が今まさに用意されているところだった。

 人間が、なんの前触れもなく一瞬にして砂になって落ちる。それを人々は砂病というひどく単純な名で呼ぶ。生まれつき、この町のすべての人間が患っている病で、治す術はない。

 砂は海に流すのがこの町の伝統的な弔い方であるが、いつ誰が始めたことであるか、誰も知らない。誰に聞いても、遠い遠い昔のことだ、としか言わない。

 青年は広場から離れ、普段立ち入ることのない道を進み、樹々に囲まれた小道へと足を踏み入れる。途中、小川のそばを通った時、シロツメクサと白百合で飾られた透明なピアノがひとりぼっちで在った。脚が七本もあり、鍵盤は氷のような質感で、中には小さな花が隙間なく詰まっていた。

 青や紫のものがほとんどで、たまに薄緑色の葉が見えた。摘み取られてしまった後であるというのに、枯れる気配の全くない鮮やかさがあった。青年が鍵盤を軽く叩くと、ピアノは一人でに音楽を奏で始めた。彼は椅子に座って静かに耳を傾けた。

 時々光の粒が舞い降りてくるから、それが樹々の葉に溜まって、少しずつ木漏れ日になっていくのだとわかった。演奏が終わると、青年は立ち上がって、さらに奥へと進む。

 現れたのは、足首が浸るほどの水で覆われた地に建つ、今にも崩壊しそうな、錆びた鉄骨が剥き出しになった廃墟。それを貫くように大きな樹があって、それとは別に蔦がいくつも生えて廃墟の柱に絡まっていた。

 大樹には、赤い果実がいくつか実っていた。果実は輝き、それよりも深い黒の混ざったような赤が、枝や幹の奥を巡っている。根の張り方を見ると、太く立派なそれらがうねりながら大地を這い、しばらくすると、土の中へと潜り消えていく。

 硬く艶のある銀と青の混ざったような鱗に覆われ、背中に羽の生えた美しい少年少女たちが幹の凹凸に沿って寝そべっている。指や足の先は自然と同化し、身体と大地の境目を曖昧にしている。彼らは、何も語らない。

 数機の、機械人形が花に水やりをしたり、洗濯物を干したり、無駄のない動き方で働いているのが、より人間らしい有様のように感じられる。青年も、本来であれば大樹の一部として永く生きるはずだった。

 大樹の少し奥には木造の、二階建ての建造物がある。横に長いその簡素な建物は、一階が大きな竈門が支配する台所や機械人形の住む使用人部屋、二階は全室子供部屋になっている。実際、今も二階の壁に等間隔に並ぶカーテンの捲られた窓から、幾つもの瞳がこちらを向いているのがわかる。

 子供たちは青年に興味を示しているのに対して、機械人形が青年のことを気に留める様子はなかった。彼らが忠誠を誓っているのは美しさと不気味さを複雑に編んで纏うこの大樹に対してのみであり、その他のことには無関心だった。

 大樹に実った果実が弾けて、砂になって落ちる。青く光る砂。機械人形は、砂の中から果汁にまみれた赤児を拾い上げて、奥の小屋に連れて行った。青年は、赤子の背に生えた小さな翼を見て、それと比較するように自分の背中を触ってみた。何も生えてはいなかった。かつては生えていたのだが、十六歳の頃に抜け落ちてしまったのだった。

 青年は選ばれた子ではなかった。大樹に身を捧げることはできず、ただの人間として、生涯を過ごすだけの生き物だった。今はただ、酔生夢死という言葉が自分には似合うと思いながら生きている。

 青年は今、自分と同じように選ばれなかった者と、大樹を親に持たない、つまりは人間の腹から生まれた、生まれつき翼の生えていない者たちと暮らしている。それは幸福でも不幸でもなく、ただ静かで穏やかな日々。今日もまた、過剰な鮮やかさに満ちたこの町で、暇を潰すだけ。

 木造の家から、一人の少年が出てきて、こちらへと向かって歩いてくる。その肩には少しの荷物の入った鞄がかかっていた。

 青年は先ほど来た道を、かつての自分によく似たその羽の落ちた少年を連れて静かに引き返した。木の影からこちらを覗いている義翼の少年の存在に気がついた。かつて青年が少年だった頃に愛した少女に、少し似ているような気がした。

 青年は、羽の落ちた少年と共に、選ばれることのなかった者たちの居場所へと帰った。

 夕焼けの眩しさが去り、欠けた月が顔を出した。町の至る所から、人々が集まってくる。生きた点たちは円になって、ガラス箱を取り囲んだ。皆、黄金色の糸で星と金糸雀と桜が刺繍された、ガラス箱の中の砂と同じ色をした純白の布に身を包み、顔を藍色の模様を入れた狐面面で覆いはじめる。

 代表者が静かに硝子箱を持ち上げた。真っ白な砂が、月光を浴びてさらにその白さと輝きを増しているように感じられる。

 青年は町人の一人から布と仮面を受け取って、参列した。何本かの松明が先頭から最後尾までを等間隔に照らし、参列者たちは同じ速度、歩幅で歩き続けた。静寂を切り裂くように靴と地面が擦れて、ざらついた音が大きく響く。

 人々の集合体が今、ガラス箱を心臓にした純白の獣になっていることの証だった。いくつもの脚で進むこの獣には、歪な美しさがあるように思えた。

 広大な夜空の下を進み、開かれた海へ着いた。人々は列を崩し散り散りになって、硝子箱が海に飲まれていくのを見た。風が強く吹いて、松明の炎が激しく揺れていた。それを鎮めるかのように、誰かが陶器の笛を奏でた。伸びやかで繊細な高音は、心臓を失って散った我々の痛みからくる叫びであり、爽やかな別れの歌でもあった。

 少女は言葉を持たない瓶手紙のように消えた。宛名のない愛を宿したまま流れていった。彼女自身が愛そのものになったから、青年は砂を彼女だと思えなかったのだと気づいた。

 それからすぐに、人々は引き返した。湿った匂いのする空気が鼻を冷やし、螺旋階段の前に戻ってきた頃には、淡く柔らかい雨が舞い始めていた。ガラス箱が置いてあった台とその装飾品に松明の火が移されて、勢いよく燃え上がる。

 人々が酒を注ぎ始めている中で、青年は独特な苦い香りがする灯火の赤を静かに眺めた。彼の心はそのゆらめきの中へと吸われていった。皆同じ服装のため、周囲に知り合いがいるかどうかは判断できなくなっていたが、誰かが用意されたピアノを弾き始めた。

 その誰かが演奏する曲は、幻想的でありながら、寂しさが複雑に絡み付いたような三拍子だった。青年は人知れず消滅した彼女のことを想った。誰かが奏でる音は、海の底まで届くだろうか。

 ただ、その音が彼女にも向けられる未来があったのならばどれほど良かったかと想像し、それが良いと思うのは自分であって、彼女にとって長く生きるという未来が良かったかはわからないのだからと、想像を早いうちに切り上げた。

 螺旋階段から少し離れたところにある大樹の方向から鐘が鳴り響いて、人々はそれを合図に一斉に裸足になって踊り狂った。酒を大量に浴びて、笛や太鼓を大音量で奏でた。鈴が不規則な拍子で鳴る中、石畳の広場に柔らかい足裏で触れても音はせず、雨粒の跳ねる音が響くだけだった。
 
 青年たちは先ほどまでの獣の足音をどこかへ捨ててきてしまったかのようだった。人々は書物や果物、中には自分の髪まで、様々なものを火にくべて、とにかく踊った。

 青年は持っていた本の最後のページを破って、燃やした。踊るほど、純白の裾は汚れていく。雨水と燃え盛る炎が競い合う中で、皆境界を失い、舞った。ゆらめいた。全てがひとつになる感覚。男星が微笑みかけた隣の仮面の下は、友人であったかもしれなければ、全くの他人であったかもしれない。

 しかし、名前も、関係も、ここでは意味を持たなかった。青年の微笑みは誰からも見えず、つまりはその微笑みは微笑みとして機能しなかった。誰のためでもなく、誰と共にでもなく、ただ命が蠢いているだけの闇。

 この場において孤独だとか、愛だとか、現実だとか、憂鬱だとか、そう言った全てのことは甘く溶けて失われている。まるでそれはこの町全体が棺であり、人々は皆死者であるかのようだった。死者のための宴は日付けが変わってからもしばらく続けられた。もう誰も彼女のことなど想ってはいなかった。

 やがて火は燃え尽きて、雨も枯れた。音は止み、何事もなかったかのように宴は終わった。人々は後片付けをすることもなく、別れの挨拶もせず、それぞれに去って行った。互いの帰る場所が何処であるか、知らないままに去った。

 青年は一人最後まで居残って、台の上に残った燃えカスを下敷きに座った。仮面を外し、星を眺めた。台に埋め込まれた藍銅鉱が冷たかった。

 月も星も、遠くにあって仄かに光っているくらいが丁度いいのは、間近で見る愛が醜いものであると生まれながらにして人は心得ているからだろうと思った。

 青年は靴を履き直し、孤独な足音の残響のみを置いて、広場から離れた。螺旋階段の方を振り返ることはなかった。

 埃っぽい部屋の隅に置かれた寝台の上で青年は目覚めた。彼は思う。

 どうせ自分が真に生きる世界ではなかったのなら、あの大樹に火をつけて燃やしてみればよかった。


つづき


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