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夢 (幻想文学)


 本作品は、実際に私が2023年10月24日の夜に見た夢を元に書いた物語であり、私が書いた別作品『不思議の住処』の主人公、佐川が文學市で手に入れた本の中身の一部でもある。


 こんな夢を見た。
 
 薄暗さに包まれた灰色の壁の所々に、小さな緑たちが、芽生えてはすぐに枯れ果てる。装飾の施されていない、少々地味だが重厚感のある家具が少しと、天井から光る蜘蛛のように垂れ下がる裸電球が一つだけ存在する。窓はない。

 そんな説明で表される狭い寝室が端に在るその大きな和洋折衷な雰囲気の家は、季節という概念が欠け落ちてしまっていて、温度も湿度も不明だった。

 そこには私と、私の主人だけが住んでいた。彼の名もまた、この世界の欠け落ちた部分のうちにあって、知ることはできなかった。ただ、壮年の、美麗な男であるらしいことだけはわかった。時々、過去美少年であったのであろう面影が見え隠れするのだった。

 私は、いつからだったかは忘れてしまったのだが、それほど昔から、毎晩寝室に入る彼を見届け、翌朝、この家に明かりを灯し、彼を起こし、朝食を提供する召使いのような役を担っていた。

 掃除や洗濯などあらゆる家事をこなしたが、私の一番大切な役目というのが彼を起こすことであったため、起こし役、という肩書きのもとに働いていた。

 私の他に使用人はおらず、それゆえに一日中彼の身の回りの世話をしているものだから、この建てられてから随分な時間が経っているであろう建造物がどれほどの広さなのか、どのような外観であるのか、さらには家の近くを往来する外界の人々の様子さえ、確かめたことはなかった。

 もし確かめてみれば、沢山の新しいものごとに触れることができるかもしれないし、それらも実は欠け落ちて存在しないものだったとわかるのかもしれない。

 今日もまた、彼は重い扉の向こうで静かに眠っている。私は懐中時計の針が午前六時を指したことを確認し、生活の範囲内にある明かりを一つずつ灯して回る。

 天井に近い部分にいくつかの少々埃っぽい窓がはまっていて、外から仄かに橙色をした優しい光が差し込んでくるのだが、それだけでは足りないように思い、誰に頼まれたわけでもなく、毎朝、私は光を増やそうとする。

 どういうわけか、灯した光は夜になると自然と消える。灯すことだけが、手動で行わなければいけなかった。

 不自然なほどの静寂の中、私もそれの一部になろうと気を遣いながら歩いてみるが、完全にそうはなれず、足音は小さく鳴る。大きく映る影が揺れる。隣人の気配を感じたことは一度もなく、私と彼ただ二人だけの暮らしが今日も始まるのだと思う。

 私はなぜか、主人である彼の部屋の在る階が二階であることをずっと疑っていなかった。つまりは階段を使って空間を上下する時、ここは三階であるとか、ここは一階であるとか、当たり前に思うわけだけれども、最近になってようやく、本当はずれていて、私が一階だと思っているその場所が地下室だったり、あるいはこの家全体が地中奥深くに沈んだり、空を浮いているのかもしれないと思うようになった。あの天井から降り注ぐ光さえ、自然のものとは限らないのだと、疑うようになった。

 そんなふうに、私には、知らないことが沢山あった。けれど、知っていることも少しはあった。私の主人である彼は極端に老化が遅い人間であること、そして人より多く眠ることで寿命を縮めることができるということだ。

 他者より長く生きることも、早く死ぬことも思いのままということなのだから、夢のある話のように思う人もいるだろう。しかし、もう一つ、私には知っていることがある。自力では目覚めることができないということ。だから、起こし役である私がここにいるということ。

 私が彼の睡眠時間を調節することで、ごく普通の人間と同じように歳をとることができるようにしている。ごく普通の人間というのは、大抵百年生きずに死んでいくものらしいが、外界の人間のことはよくわからない。もしかしたら、私もその普通の人間たちから見ればなんらかの異常があるのかもしれない。

 しかし、どちらにせよ、私からみれば彼は常に若いままの姿を保つ不思議な生き物であることに変わりはなく、毎日を退屈そうに過ごしているところにだけは共感するものの、私と同じ種類の生き物であるかどうか疑わしく思いながら奉仕している。

 実は、私は随分と前に、彼の背に枯葉のような質感の、お世辞にも美しいとはいえない羽が頼りなく重なって、小さい歪な形の翼を成していたのを見たことがある。私はそれに対して、なぜだか懐かしさと、少しの不安を感じたのだった。

 長すぎず、短すぎず、彼の願う通りの睡眠時間を確保する。それにはもう慣れて、今はもう、時計を確認するのはそれが必要だからというより、癖づいてしまったから無意識にそうしてしまうだけのことだ。

 私は彼を二日おき、あるいは三日おきに起こすようにしている。彼が一日中寝ている日には家の中を丁寧に掃除したり、外から搬入された食材たちから献立を考えたりして過ごしていて、大して面白くはないが、退屈もしなかった。

 淡い橙の光を増殖させながら、廊下を進んでいく。こんなふうな、平坦な薄闇をひたすらに進む時、決まって私は考え事をする。その内容は毎度変わるのだが、今日は、起こし役である私が不注意で鍵を無くしてしまったならば、あるいは、意図的にそうしようとしたら彼はどうなるのだろうと考えてみた。

 狭い部屋に閉じ込められたままで、目覚めず、一人きり。じわじわと老いていく。美しい顔に皺が増え、痩せ細り、呼吸が浅くなる。植物が枯れるのに似た、ゆったりとした、衰退。そんなのは、生きていると言えるだろうか。

 実はこの問いは以前にも何度か思い浮かんだことがある。時々、しかし定期的に考えてみては、実行に至らずとも考えるだけで主人の信頼を裏切る行為であるような気がして、罪悪感に苛まれる。

 答えはいらないと自分に言い聞かせ、忘れようと努めているその間も、彼は大抵眠っている。私の考えについて、尋ねられたことは、未だない。

 洞窟をくり抜いて造ったのだと言われても違和感のないような、不規則な凹凸が広がる岩風の壁に囲まれて、人工的に整えられた長方形の木の板を組んだ階段が、緩やかな螺旋を描いて下の闇へと続いているところに着く。

 その先には調理場がある。今日は彼を起こさない日であるのと同時に、新たな食材と薬を受け取る日でもある。

 階段を降り切ると、広い空間に私と彼二人きりには大きすぎるほどの冷蔵庫があって、食器棚には、客人など来たこともないのに立派な漆塗りの食器類が大量に並んでいる。それはただ芸術品としてそこにあって、油や煮汁でベタついた料理を盛りつけられるなど絶対にごめんだとでもいいたげなほどの威圧感を放っている。

 食器の他にも、私はこの家のあらゆる古い物が好きではなかった。例えば、それは壊れた壁掛け時計だったり、明らかに主人のものではない真っ白な外套だったり、一際色鮮やかな手毬だったりする。とにかく、闇や孤独なんかよりも、この家の無機物たちの放つ静かな凄みの方がずっとずっと怖かった。

 私は大きな長方形のテーブルの、辺の短い方の席に座ってみた。テーブル全体がよく見える。幽霊たちとの会食を想像する。賑やかさとはどういうものであるか、上手く思い浮かべることができなかった。賑やかという言葉だけを、知っているのみだった。

 喧騒とは無縁の、僅かな冷気だけが彷徨うこの場所で、私はあとどれくらいの時を過ごすだろう。果てしない、永遠のような気がするのは、どうしてだろうか。

 そう思った時、いくつもの鈴が重なって響く高い音がした。私はその音の正体を知っていた。体に力を込めて椅子から立ち上がり、憂鬱な気分のまま廊下に出て、進んでいく。

 ただ一本の道が、迷路のように感じられる。出口を知らないというのは、そういうことだ。迷い続けるということだ。主人の部屋から遠いということもあって、私は存分にとまではいかなくとも、特に抑制することもなく足音を立てて歩いた。

 薄闇の向こうから、一人の少年が歩いてくる。きちんと首元までボタンを閉めた白いシャツ、履き心地の良さそうな長いズボンの裾を少し巻き上げていて、白い靴下に包まれた細い足首が見える。少し乱れた栗色の髪。

 この食材や薬を届けてくれる少年だけが、主人以外の唯一の話し相手である。以前彼に外界のことを聞いてみたことがあったのだが、彼は何も教えてくれなかった。

 僕はね、どこにでもいけるんです。あらゆる場所にこうして現れて、時には荷物以外の、物語の続き、とでもいうのでしょうか、そういったものを置いて帰るんですよ。あるいは僕そのものが物語を進めるための装置の一部、といった感じかな。でも、僕は僕を誰かが必要とする時にしか存在しないんです。おかしいでしょ。おかしいけれど本当のこと。ああ、一つだけ教えられることがあるとすれば、猫、です。大きな猫。ぼくはそれに乗って移動します。名前は分かりません。強いて言うなら、猫、です。僕一人じゃ運べなさそうな大きな荷物も、猫に乗れば運べるんです。あなたの前まで連れてきたら驚かれてしまいそうだから、いつも奥に待たせているんですよ。


 そう話した彼の表情は、嘘をついているふうではなかったが、真実である証もなかった。以前彼を玄関まで見送ろうとした時、私と彼はいくら歩いてもそこに辿り着けなかった。猫の姿を見ることもなかった。それは私のせいだった。

 私一人で家の中を歩き回っている時も、決して屋上や玄関や庭にたどり着くことはできなかった。少年と一緒に歩けば新しい場所に行ける気がしたのだが、むしろ少年をこの家に閉じ込めることになってしまったというわけだ。私が私である限り、この少年の言動の虚実について、知ることは叶わないのである。

 あの日私は仕方なく少年に別れを告げて、彼の背中を見送った。彼が角を曲がった時、私は小走りでそちらへと行ってみたが、角の先には、薄暗いいつもの廊下が続くだけで、もう誰の気配もしなくなっていた。

 不思議なことに、私は家の中を迷いながら歩き続け、普段の生活圏の外に出てしまっても、迷わず帰ることができた。いつも迷うのは、行きの道だけだった。その日も、少年を見送った私は帰り道に迷うことはなかった。

 その日、戻りながら、私は少年の言うことを信じることにした。少年もまた、私にとっては主人の名のような欠け落ちた世界側の存在でもあり、こちら側の存在でもある、中途半端な役割を担っているだけのことだと思ったのだ。
 
 さて、そんな日からどの程度の月日が経ったか、誰にもわからぬのだが、今日も少年はいつもと変わらない服装で、台車を引いてやってきた。彼もまた、老いることのない、あるいは老いが極端に遅い人間であるらしく、実年齢が全くわからない。彼は台車に積まれた荷物について、慣れた様子で説明をはじめる。

 こちらが食材たち、こちらが薬と洗剤です。あと靴下が破れたとおっしゃってましたよね。新しいものをお持ちしました。以上です。お米はまた今度持ってきますね。

 すらすらと滑舌良く話した後、手を振ってすぐに帰っていった。
 その夜、寝室に篭る時、私に彼は言った。しばらく開けないでくれ。それは、開けないでくれ、ではなく、開けるな、という命令の意味であることが、その静かで淡々とした言い方から伝わってきた。

 落ち着いた凄み、それは私が恐れるあの無機物たちによく似ていた。彼はさらに続けた。大丈夫、後のことも心配はいらない。君に迷惑がかかるようなことは何一つないから。放っておいてくれて、大丈夫。今度は、優しく言った。

 私はとびきり真面目な顔をして頷いた。今までだっていつも真顔で、笑ったり泣いたりしたことなどほとんどなかったのだから、私の真剣さが彼に伝わったかどうかは、わからなかった。

 鍵をかけ、おやすみなさい、と呟いてから、私は自分の部屋に戻った。固くなった貧相な布団の敷かれた寝台に体をなんとか沈めてため息をつくと、この部屋の孤独が一層増していくのがわかった。私の内に充満した満たされなさが、もうこんなにまで濃くなっていたのかと、その時初めて気づいた。目を閉じて、深い眠りについた。

 それから私は、半年に一度しか彼を起こさなくなった。空いた時間も変わらず家事に勤しんだ。一人分になった食事や洗濯物に寂しさを覚えるほど彼のことを愛してはいなかった。普段立ち入らない部屋へ行ってみたり、外界へ行くための方法を考えたりしてみてもよかったのに、そうしようと思いつつしなかったのはなぜなのか、自分でもわからない。

 なんとなく、そんなことをしても無意味だ、あの日少年と共に外を見ることができなかったように、私が生きることを許されている場所には限りがあるのだ、というような、確信めいた諦念が心の隅に居座っていて私を引き留めた一つの理由であることは、否定できないのだが、それだけでは、理由として弱いように思う。

 外に出られなくても、家の中を歩き回ることはできたはずだ。それでも、私は家事をする以外の、一日を終えるための行動を知らなかった。

 私は、自分のこの無気力さというか、他人のためでない行動を取ることを教えられてこなかったような気のする感じが、あまり好きではないのだが、特別に嫌悪するほどのことでもなかった。

 彼は起きるたびに急激に老いている自分を見て喜んだ。時々好きなことをしては、また深く眠ることを繰り返した。そんなある日、彼は食事を摂りながら、彼の隣に立つ私にこんな話をした。

 僕はね、壊れた君が捨てられかけているのを拾って、内緒で連れてきたんだ。そして修理したんだ。君は昔のことを覚えているかい?

 いいえ

 そうだね。以前の君に、見た目も話し方も、歩き方も、全てが似ているが、違う。

 それが私には何のことであるか理解できなかった。しかし、〈前の私〉は、外の世界を知っていたのだと、そう主人は言ったのだ。壊れる前の私のことだ。私は主人に聞いてみることにした。

 外の世界は、どんなところですか

 それはそれは美しいところだったよ。どんなに美しい世界だったか、君に話してあげよう。森の奥で開かれる誰もいない晩餐会、湖底に架かるいくつかの虹、満点の星空の下、雪原に咲く氷の花を愛でる怪物、水没した一階に半透明のヒレを持った魚の泳ぐコンクリート製の廃墟、澄み切った静寂の中で微かに聞こえる、残響に達することのない不可思議な囁き。そんなような豊かな世界だよ。

 私は想像した。もうこれ以上想像しきれないであろうほどに、想像した。どうせ外に出られないのなら、主人の話が真実であるかどうかなど、どうでも良いことだった。

 想像した世界は、とてつもなく美しかったが、私は、自分がどうして虹や星や雪原を鮮明に思い浮かべることができたのか、不思議に思った。前の私は、一体どんな人物だったのだろうか。何を見て、何に喜んだのだろうか。

 それから、私は彼を起こすたびに、外の世界の話をするようにねだったのだが、ある日彼が、僕がいなければ君はどこへでもいけるようになるかな、と悲しそうに言ったのを境に、外のことについて聞くのはやめて、いつも通りの静かな日々を繰り返した。

 それほど彼のことを愛していないと言ったものの、共に長い時間を過ごした唯一の人であるのだから、思いやらないでいい理由はどこにもなかった。それに、老いぼれていくほどに、何か親切にしてあげるべきだろうかとか、もっと話をしておけばよかっただろうかとか、様々な気遣いが頭に浮かぶようになってきたのだ。

 しかし、私はあまり感情表現や言語表現において器用ではないため、食事をできるだけ美味しくするとか、主人の好みそうな服を手に入れるとか、そういうことを繰り返した。自己満足に過ぎなかったが、それでよかった。

 しばらくが経ったある日、あの荷運びの少年が、おや、今日はお一人ですか?あなたの主人はどこへ?と聞くので、私は彼が死んだのだと悟った。

 ひどく冷静で、それはもはや冷静という言葉では弱すぎる、本当は冷然冷酷と言うべきことだ、と思った。しかし、無駄に悲しみを表現して泣き喚く方が不誠実かつ冷酷極まりないことだとも思った。彼の望みを、哀れなものにしてはいけないのだと思っていた。

 私は、彼は夢の中へ行ってしまいました、とだけ答えた。少年は、そうですか、もしかしたら、夢の中へ行ったのではなく、夢から覚めたのかもしれませんね、とだけ応え、帰ってしまった。

 私は少年を見送らずに、階段を駆け上がった。扉を開けて、早足で寝台に近づいてみると、純白の布団の上に、純白の砂が降り積もっていた。もう、そこに人間としての彼はいなかった。

 壁の方へ目を向けるとそこには、なかったはずの大きな鏡があった。映ったのは、私の顔。それは、紛れもなく、古く、威圧感を放つ無機物の人形の顔だった。私はたった一人、この家で、あの私が恐れた時計や手毬や食器や、その他様々な物たちと過ごすことになるのか……。

 外。森の奥で開かれる誰もいない晩餐会、湖底に架かるいくつかの虹、満点の星空の下、雪原に咲く氷の花を愛でる怪物、水没した一階に半透明のヒレを持った魚の泳ぐコンクリート製の廃墟、澄み切った静寂の中で微かに聞こえる、残響に達することのない不可思議な囁き。そんなような豊かな世界……。

 私は部屋を出て勢いよく階段を駆け降りた。長い廊下を走り抜ける。足音が大きく鳴る。息が荒くなる。扉。手を伸ばす。あの扉の先が、外の世界!!
 
 ここで目が覚めた。

 私は、死ぬために寝ることを知っていながら協力した起こし役はどんな罪に問われるのかと問いかけた。夢の中の私について、何度も問うた。あれは緩やかな自殺に手を貸したも同然ではないかと。罪を責める側の視点で言った。

 しかし誰も答えなかった。誰の姿も見えない場所で言っていたのだから、至極当然のことだが、私はその見えない誰かがそこに居ると疑わずに、真っ白な、果てのない世界で言った。私の言葉は、反響することもなく、どこかへと消え去った。

 ここでまた目が覚めた。

 本当に覚めた。体温のこもった布団から這い出して、息を意識的に吸って、瞬きをする。少し早い鼓動を落ち着けようとする。まだはっきりとしない意識のまま、寝台の上に座り、夢の中で見た夢を思い出す。顔も声も、名も知ることのなかったあの人。それでも長い間を二人きりで過ごしたあの人。彼は誰かに似ている……。

 あの夜、早く眠り早く死にたいと願ったのは、彼であり、私でもある気がした。



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