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夏と幻影 (短編) 1 恋愛小説部門 

あらすじ

「洋介さんは阿呆よ」
「ありがとう」
「どうしてお礼なんて言うの?」
「阿呆とは、人間擬きのうちの最も品質の良いものにのみ与えられる名だからさ」

 真夏のある日、孤独な女子高生絹羽は、美しく謎めいた大学生洋介と出会う。夏の間だけこの田舎町にいるのだと聞いて、彼の住む古い家に通うようになる。微睡とも憂鬱とも区別のつかない空間で紡がれる独特で少々悲観的な会話と、打ち解けきれないまま寄りかかり合う二人の繊細な距離感を描いた、一夏の出会いと別れの物語。


 

 夏、その人物はやって来た。不協和音的な歩み方で。少女が彼を見たのは、ある日の下校中のこと。その時、少女は友人のような人たちと別れ、微笑みを崩した後に立ち寄ったコンビニでソフトクリームを買い、一人、小さな歩幅で歩いている最中だった。少女の瞳に映るのは、色彩が弾け飛び宙を舞うような鮮やかな、それでいて見慣れた、田舎町の風景だった。

 日陰に揺れている憂鬱、微睡の中に咲く向日葵、自転車の前カゴにサッカーボールと水筒を乗せて駆けていく少年、道の先に広がる深緑の山。光がどこからか染み出して輝いているように見える、澄み切ったその景色から、局所的に色を抜き取ったように、褪せた空気を纏って冷涼な眼差しをしたその人は、外が白く内側の黒い日傘を差してやってきたのだった。

 彼は、段々とこちらへと近づいてくる。毛穴の目立たない、適度な水分を含んだ滑らかな質感の肌と、光を吸い込んで消してしまうような、黒々とした瞳、艶のある真っ直ぐな黒髪、それから骨の凹凸の繊細な浮かび方に、美と不気味さが融合したような、独特の世界観があった。

 人間の最も良い形を模索したならば、こうなるに違いないであろうことが、理屈でなく、感覚的に解った。その最も良い形というのは、完璧というのではなかった。唯一無二の歪みのようだった。

 すれ違いざま、ほんの一瞬少女へと向けられたその鬱っぽい眼差しが、さらには首筋にある薄い黒子の一つまでもが、洒落ていた。彼の瞳に、自分の姿が映った。その事実を少女は少しばかり遅れて理解した。それは素晴らしく尊く、ひどく恥ずかしいことのように思えた。

 蝉の重複した鋭い叫び声が、一層増していく感じがした。少女は忘れかけていた呼吸を大袈裟に取り戻して息を吐いた。兎に角、一度冷静になるべきだと自分に言い聞かせた。

 河川敷を駆ける生暖かい風に乗った草花の香り、水面に広がる熱を帯びた光。どれもが非現実的に思える。美しく思える。その美を抉るように舐めた、ソフトクリームの甘やかな味だけが、やっと現実味を帯びて、我に帰った瞬間に、くらくらと眩暈がした。

 立ち止まって、鞄から水を取り出そうとする。ソフトクリームを持ったままだとやりづらくて仕方がないから、先に、急いでコーンまで食べてしまうことにする。

 恐る恐る振り返ってみると、彼の姿はまだあった。美しいかどうか判別できないほどに遠くなった後ろ姿は、すぐに角を曲がって、見えなくなった。鞄から出した水を思い切り飲んだ。生温い液体が喉を通って、体の中心を素早く流れ落ちた。唇に残った水滴を手の甲で拭った。

 見知らぬ妖しい美青年に魅入られ、疲れ切った身体さえ浮遊するような気持ちのまま、家に帰った。夢を見たのだと思った。


 少女はいつも通り、一人でアスファルトの道がゆるやかに続く坂を通って下校していた。その途中、先日すれ違った青年が道の端に日傘をさしたまま座っていた。まだ、夢かどうか判別がつかなかった。

 どこか調子が悪くてうずくまっているのかと思ったが、近づいてみると、彼の視線の先には茶色い野良猫がいた。猫はただ大人しくじっと止まっていて、青年がさっと立ち上がるのと同時に、足速に去っていった。

 青年はこちらを見て、こんにちは、と言って会釈した。彼が言葉を話すことが不思議だった。話すにしても、地球上の言葉ではないだろうと、何となく思っていた。

 柔らかく掴みどころのない、仮に彼がアニメの登場人物であるならば、終盤で裏切る頭脳明晰な青年、あるいは、報われないまま死んでいく、悪役にならざるを得なかった可哀想な青年によく似合う声だ。

 少女も、少し口角を上げて、控えめに頭を下げた。冷静でいたい自意識と裏腹な鼓動の乱れ方が、苦しかった。頭を上げてからも、いつ立ち去るべきかよくわからずに、棒立ちになって、猫が去った方向をしばらく見ていた。少女は猫が好きであったが、特別に興味があるわけではなかった。ただ、戻ってきてくれたなら、気まずさが薄れるだろうと思って待った。

 青年も同じように向こうを見た。結局、猫が
帰ってくることはなかった。青年は少し残念そうな顔をして、では、失礼します、と言って去ろうとした。少女の行く道と同じ方向だった。私もそっちに行くんです、ついていくことになってもいいですか、と言った。思いの外弱々しい言い方をしてしまって、早速自分を責めた。気色悪い声を出すなと責めた。青年は、構わないですよ、とだけこたえた。

 少女は、青年の後ろを、数歩分下がって歩いた。隣に立つのは、やはり気まずかった。青年の肌は青白く、日光を神経質的に避けて生きてきたのであろうことが伺えた。風が吹いて、わずかに揺れる薄手の衣服の裾が肌に触れたり離れたりするのを見ていると、彼が実体ある存在だと視覚的に解った。

 少女よりもだいぶ背が高く、肩幅もしっかりとしていて、中性的というわけではなかったのだが、どこか寂しげな雰囲気や品のある背筋の伸び方により、やはりかっこいいというよりは美しいに分類される人であった。

 夏に舞い降りた雪の精のような、この季節に対する似合わなさがあって、これ以上強い風が吹いたならば、少しの声も発することなく、静かに、儚く消えてしまうんじゃないだろうかと、心配になった。

 どれだけ歩いたのか、何分経ったのか、確かなことは誰にもわからなかったが、信号が青に変わるのを待つ時、少女は、制服のスカートの裾を握って体に力を込め、深呼吸をしてから、思い切って青年に声をかけた。

「ついて行ってもいいですか」

 今度は、控えめに、よそよそしく、しかし、弱くはない声で言った。青年はふわりと振り返って、心底不思議であると言いたげな顔をした。

「もうついて来ているじゃないですか」

「いや、そうじゃなくて」

「僕は家に帰るだけで、どこか楽しい所へ行くわけじゃないですよ」

「構いません」

「着いてきてどうするつもりですか?」 

「別になにも」

「普通の大人は見知らぬ少女を家に入れたりしないものですよ」

「普通の少女は見知らぬ人の家に行こうとはしないものです。ね。いいでしょう?」

 少女は、慣れない愛嬌をなんとか顔に滲ませた。この美しい人に、こんな平凡な自分が可愛こぶって接近しても、何も変わらないと解っていて、それ故に、慣れないながらも、安心して微笑むことができた。

 まだどこか、彼を空想世界の産物であるように感じていたのだった。彼を人でなく、究極の美と位置付けた自分の冷淡さが、じわじわと体力を削っていく今日の暑さを和らげるのによく効いた。

 青年は困った顔をして、苦笑した。少女は、普段の自分ならばこんなことは絶対にしないとわかっていた。今日の自分は暑さにやられてどこかおかしくなっていると思った。困らせることに対する罪悪感よりも、自分の寂しさを消し去りたい思いの方が強い日など、ほとんど経験したことがなかった。

 それでも、おかしな自分に従おうと思った。自暴自棄というやつだった。彼がどんな人物かなどどうでもよかった。なんの躊躇いもなければ、なんの期待もなかった。信号が青に変わり、また、数歩下がって、彼の後に続く。彼は今日にこちらを向きながらゆったりと後ろ歩きして、話を続けた。

「君が普通でいたくないのは解ったよ。しかし、僕が君を取って食う妖怪だったらどうする気なのさ」

「あまり苦しまないように殺してほしいものです」

「最低限の微笑でそれを言われると、無表情で言われるよりももっと、怖いような、可愛いような感じがするね」

「褒めていますか、貶していますか」

「どちらでもないよ。君は感情の見えない機械のお人形みたいだね。身体中探せばどこかに電池が埋まっているかもしれない」

 少女は嬉しかった。感情的であると言われるよりもずっと、嬉しかった。ただただ緊張と、それを見せないように冷静でいようと自主的に感情を抑制するのと、異性との関わり方を知らないのと、様々な事情があってそうなってしまっているだけなのだが、あんまり素直にはしゃぐのは品がないし、彼が自分の思い描く究極の美であっても、それを特別に好いていることを明かす必要はないと考えて、機械的であることは、最適解だと考えた。

「ありがとうございます」

「いや今のはどちらかといえば意地悪なことを言ったのだけど」

「そうですか」

「本当についてきたいの?」

「はい」

「僕を刺したりしない?」

「はい」

「それならまあ、構わないけど」

「ありがとうございます」

「隣においでよ。前後に並んだまま話すのは変でしょう」

 青年は少々戸惑いつつも、少女が彼に接近することを許してくれた。少女は小走りで、前を向いた彼の隣に並んだ。青年の、鮮明さのない無彩色感にときめきを感じた。夏という季節や、煩わしい同級生たちのバカみたいな騒ぎ方に抗える陰を見つけることができたと感じた。

 生身の、剥き出しの、感情的な、八つ当たり的な、憂さ晴らし的な、生きたがり的な、そんな言動を、少女は好まなかった。高校生らしいとされる力強さだとか、夢とか勢いだとか、そんなものは持ち合わせてはいなかったし、持とうとさえ思わなかった。

 持っている若者らしさといえば、幼少期の万能感を打ち砕かれた後に残った自意識過剰さを、繊細と言い換える歪んだ己への酔い方と、それを自覚して冷笑するもう一人の自分との乖離に苛立つ、不安定な精神だけだった。並んだ影をぼんやりと眺めて、アスファルトの凹凸上で視線を転がしていると、青年はこちらを覗き込むようにして見てきた。

「なんだか、君はすごく疲れているように見える」

「毎日苦手なお勉強ばっかりで嫌になっちゃってるんです。しかもね、ここ田舎でしょう?退屈なんです」

 勉強だけが理由ではなかった。しかし、理由にすることを躊躇わないで済むのは、それくらいしかなかった。ほんの少しの生々しさとさえ向き合えるような気力はなかった。他のことについて具体的に言うと、罪悪感が積もるだろうから、言えない。何かを責めたいわけじゃないし、だからといって、何かを庇いながら語ることも惨めだから、言わない。自分の傷を数えることが、新しい傷を生んでしまうから、言えない。

 この町には、逃げ場などなくて、そもそも逃げる人もいない。絶望を分かち合えるような仲間たちとの溜まり場というのは、テレビや本の中でしか見たことがないし、仮にあったとしても、馴染めないだろうし、とにかく、人の世の全てに疲れた、と表すしかなかった。

 まだ少し、逃げたいという意思のカケラが心のどこかに落ちていて、探せば見つかりそうな感じがするだけ、マシではあるが、その感じも、そらそろ忘れてしまうかもしれなかった。青年はあたりを見渡して言う。

「僕はこういう田舎ってのどかでいいと思うけど」

「確かにのどかだけど、それだけだもの。お兄さんは、どうしてここへ引っ越してきたんです?」

「僕の心に、綺麗な退屈を描きに、です」

「ほら、やっぱり退屈なんだ」

「退屈も、僕みたいに心を休めたい人にとっては悪いことじゃないですよ。それと、束の間の休息のために此処へ来ただけなので完全に引っ越して来たわけじゃないんですよ」

「じゃあ、夏が終わったら帰るんですね」

「夏が終わる前に帰ります。長くはいられないので」

「そうですか」

「突然だけど、敬語なんて使わなくていいよ。僕はただの大学生だからさ」

「わかりました」

 少女は、歳上の人にタメ口を使うことに抵抗があったが、青年の前では、この町で生きる自分とは違う、新しい自分として在ろうと考え、了承した。

 青年が自分の歩く速さに合わせ、さらには日傘をこちら側に傾けてくれているのに気がついた。少しずつ、彼との間にある透明な壁が溶けていくような感じがして、ほんの少し嬉しくて、とてつもなく気まずかった。

 少女は多くの人間と同じようにぞんざいに扱われることを嫌い、同時に、多くの人間とは違って、他人の自分に対する気遣いが少しでも感じられることも苦手だった。青年の顔をチラリと控えめに見あげてみる。彼はそれに気づいて、話しかけてきた。

「名前は?」

「きぬは。絹の羽って書くの」

「そう。君はどうして僕を選んだの?」

「名前、聞いたのに呼んでくれないの?」

「じゃあ、きぬちゃんと呼ぼう。それでいいかい?」

「はい」

「次は僕の質問に答えて」

「答えは、なんとなく、よ」

「なんとなくで僕を選んだのなら、きぬちゃんには獲物を見定める能力があったってことだね」 

「どうして?」

「僕は、君を幸せにも不幸にもしないでそばにいてあげられるからさ」

「そうかもね」

 急激に、内側に踏み込まれたと思った。飄々と、軽々と。何故この人は私のことを知っているのだろうと思った。この人は、自分の身体に映る美を餌にして、私を釣ったのか、少女はそう思った。動揺した。疑うほどに、気分が高揚した。得体のしれなさに、魅入られた。自販機が二つ並んでいる場所を通った。

「好きな飲み物を買いなよ。知らない男の家にある飲食物なんて怖くて食べられないだろうからさ」

「別に、そんなことないけど」

「そんなことあるようになったほうがいいと思うよ」

 彼は日傘を持ったまま器用に鞄から財布を取り出して、千円札を自販機に吸い込ませた。少しだけ曇っているボタンがわずかに光る。少女は迷う。ポカリスエットが飲みたかった。でも、麦茶にした方が無難でいいかもしれない。りんごジュースにした方が、可愛いかもしれない。一番青春っぽくて、一番飲みたいのは、ポカリだけど。

 青年は、何を買うべきだと思っているだろうか。いや、何も気にはしていないはずだ。ただ一本、なんでも買ってみればいいだけだ。迷いすぎる方が、不自然だ。ああ、わからない。自分は何を選ぶ人間であるべきなのか……。

「お兄さんは、何か買わないの?」

「そうだね。何を買おうか。こういう時迷うよね。好きなもの買えばいいのにさ、他人から見て僕っぽい飲み物って何か、考えてしまうよね」

 そう言いながら青年は葡萄味の炭酸水のボタンを細くて長い指で押した。落ちて来たペットボトルを取り出して、こちらを見る。見透かされているのか、そうでないのか、わからないまま、少女はポカリスエットのボタンを押した。取り出して、鞄にしまった。

 青年はこちらに一旦葡萄ジュースを預けて、釣り銭を財布に入れて鞄にしまった。ジュースを返すと、彼は冷えたペットボトルを首に当てながら歩き始めた。少女もそれに合わせて、歩き出す。終始人気はなく、二人きりの、呑気な雲が揺蕩う青空の下に伸びる帰り道が、真っ直ぐに続いていく。

「きぬちゃんは、田舎は退屈だと言ったね」

「はい」

「都会に行ってみたい?」

「はい」

「そう。でも都会に行ったって、君の疲れはとれないし、退屈もしのげないと思うよ」

「行ってみなければ、わからないわ」

「行く、ということができない時点で何もかも考えるのは無駄だけどね」

「想像は、無駄?」

「無駄だよ。それが適切な無駄であるかどうかは、知らないけどね」

 少女には、青年が言っていることがよくわからなかった。深いとか浅いとか、そういうことは問題ではなく、なにか、ふらふらと不規則に、それでいて軽やかに避けられている感じがするせいで、彼との距離感を図りかねてしまっていた。

「そういえば、僕の名前、聞かないんだね」

「あってもなくても、構わないもの」

「そう。僕の名前は洋介だよ。一応覚えておいてよ」

「はい」

「この時間に帰宅ってことは、部活動はやってないの?」

「はい」

「誰かと遊んだり、家族と過ごしたりはしないの?」

「しないわ。家にはいつも誰もいないし、それこそ友達はみんな部活だもの。いつも一緒に帰ってる子たちが数人いるけど、その子たちだって習い事とか塾とか、彼氏とかバイトとか、忙しいの。私だけ、そっちの世界とは無縁なの」

「そっか」

 洋介さんはそれ以上深掘りしてこなかった。

つづき

六 完結


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