夏と幻影(短編)6 完結
少女は、何もない部屋に、カメラが一つ増えたのを見つけた。洋介さんはそれを手にとって、興味があるのならば触れてみればいいと、渡してくれた。
「気に入ったのなら、あげるよ」
「いいの?ありがとう。じゃあ、洋介さんを撮ってあげる」
「いらないよそんなの」
「私が欲しいの」
「どうしてさ」
「洋介さんがいたことを、夢幻にしてしまいたくないの」
「僕は僕が生きた証をどこにも残したくないのだけどね」
「一枚でいいわ」
「僕がここにいた事実が残っても、それは、事実にしかならない。話したこと、君に見せた表情、僕の体温も声も、写真には残らないし、標本にはできない」
「それでいいのよ。それこそがいいのよ」
少女はカメラを構えた。写真に関する知識はそれほど多くなく、カメラを扱うのが得意なわけではなかったが、できる限り、綺麗に撮ろうという意思だけは強かった。
「洋介さんは、大学ではどんな人として過ごしてるの?」
「僕だって、住み慣れた街に帰れば、元気そうにするさ」
「たとえば?」
「例えば……、どんな人だろうか。眠い目を擦りながら一限目になんとか間に合うように準備したり、学食で飯を食いながら面倒な課題に対する愚痴をこぼしたり、酒飲んで顔を赤くしたり、留年しそうなやつを揶揄いつつも励ましたり、そういう生活だよ」
「ふーん、意外と普通なのね」
「僕はただの学生で、謎めいていることを仕事にしているわけじゃないからね」
「もっと上品で、友人はなく、成績優秀で、後輩たちの間で美しい先輩がいると話題になっている、というような感じだと思っていたわ」
「全くそんなことはないよ。上品さや美しさは時に威圧感や緊張感を生むものでしょう?品格は必要な時に纏うもの、人格的正装であり普段は品は程々に親しみやすさ重視の方がよいのではと思うよ」
「仲のいい人はいるの?」
「そんなに僕の生活が気になる?着ぐるみの中身を見たって、落胆するだけなのに」
「少し気になるって感じ。別に話したくないなら構わないわ」
嘘ではなかった。洋介さんの生活も気になってはいた。しかしこうして洋介さんに話させている間は自分の話をする必要がないという事実に、少し寄りかかって、休みたいというのが本音だった。少女は、シャッターを切った。
「そういえば前に、大学の同期である櫻木という男に『お前は死にたがることを生きがいにしているおかしなやつだ』と言われ、図星ではあるが直球的すぎてユーモアがない、と感じた僕は、そう感じたくせに返す言葉がなく、ニヤリと不敵な、側から見れば力無く歪んだ笑みを浮かべた後、無視を決め込んだのだった。ユーモアがないのは僕の方も同じだった。全く、つまらないやりとりだよね」
「その櫻木ってどんな人?」
「櫻木は良いやつだよ。自分自身を理解することや自分を幸福や安寧へ導くことを、他者に完全に委託し、代理させようとする人間が多い世の中で、彼だけは、己と素直に向き合っているんだ。僕は、彼が彼自身をわかっていること、あるいはわかろうという意志を持っていることに対して、素晴らしいと感じている」
「なんだか、楽しそうな生活じゃないの」
「楽しいと苦しいは両立するんだよ。それにね、楽しい、という状況も、続けば疲れてしまうものだ。生きているだけで常に緊張しているし、不安だし、少しの感情の起伏さえ痛みになって僕を蝕むんだ。わかるでしょう?他人といる時の自分に対しての居心地の悪さ」
「そうね、他人といることでなく、他人といる時の自分に対する違和感というのは、消えないものだわ。そもそも、世界の中の自分、というのがあまりピンとこないわ。自分の中の世界、だと、わかるんだけどね。だから、やっぱり私たちには孤独が一番似合うのよ」
しばらく、レンズ越しに、洋介さんを見ていた。何度か、シャッターを切った。部屋に差し込む十分な眩しさを内包しつつも決して焼けるような暑さでも、直視できないほどの派手さでもない、浄土から採ってきたような光が、洋介さんを優しく飲み込んで拐って、遥か彼方の無機質的、透明的泥濘の一部にしてしまうような感じがした。洋介さんは照らされながら、その儚く散る寸前のような指先を天に翳してみて、呟く。
「僕は、いつ死ぬんだろうね」
まるで映画の一場面のようだ。美しい、現実を濾過した世界から語りかけてくる人に、今から自分は返事をする。暗闇の側から。
「いつか必ずよ」
「僕には無関係のように思える。いつか老いることも死ぬことも、想像ができない」
「死にかけたことはある?」
「相手の特性をある程度理解しているのに見捨てるのか?という道徳的葛藤や罪悪感による離れられなさと、非力な優しさでは救いようのない人間がいるという事実の狭間で溺れて、僕は何度か死にかけたことがある」
「そう、じゃあ、今まさに死にかけてるのね」
「そうだね。いっそ死んでしまおうか」
「私もついて行くわ」
「死ぬ時くらい一人でいさせてよ」
「くだらないわね。どうせ死なないのに」
「死ねないんだよ」
「憂鬱を美化してるのはお兄さん自身のほうね」
「美化なんて単純なものじゃない。恐れ、敬い、飼い慣らしてもいるんだ」
洋介さんは困ったように微笑んだ。少女は、最後のシャッターを切った。
休日、私服のワンピースを着た少女は見慣れた町の風景の中に、洋介さんを見た。初めて出会ったあの日と同じような暑さに、じわじわと体力が奪われていくのを感じながら、そんな自分とは対照的に、海月のように爽やかに謎めいて、澄ました顔をした洋介さんに、いつもより大きな声で話しかける。
「ねえ、もう帰るの?まだもう少しいるんじゃなかったの?」
「気が変わった」
洋介さんは軽い口調で言う。少女は、こんな日が来ると想像していたし、泣いたり、怒ったりはしないと決めていた。
「どうしてそんなに切ない顔をするのかな。ちゃんと去る時は去ると言うって、約束は守ったよ」
「安心と悲しみが同時に訪れて困惑しているだけよ。引き止めはしないわ」
「別に止めてもいいよ」
「でも止めたって帰るんでしょう?」
「それはそうだね」
「本当に今日帰るの?」
「君を傷つけたかもしれないという不安。一人でいる方が楽だという結論。それだけのことだよ」
「その不安は私以外にも抱くはずだし、結論だって、私と出会う前から既に出ていたはずよ」
洋介さんは、何を考えているのかをあえて隠すように、殆ど無表情に近い微笑をたたえ、黙った。少女の頭の中には、神経質な僕を離してくれなかったのは君の方じゃないか、そんな台詞が勝手に浮かんできた。
他人の気持ちを想像しないことを冷酷だというのなら、他人の意識を捏造し摂取することにより己の感情を震わせるのを繊細な感性だと思うこともまた、冷酷だろうと思った。それでも、体の奥底から蠢き押し寄せる不安が、汗になって皮膚から滲み出るのがわかった。
「私を置き去りにするの?」
「元々君はずっとここにいたでしょう。なにもかも元に戻るだけだよ。僕は君を拾っていない。君がいたところに、僕もいただけ」
「それはそうだけど、非日常が日常になっちゃいけないなんて決まりはないわ」
「なら、僕と一緒に来るかい?」
「いけない。学校があるし、親にもなんて言えばいいかわからない。そう答えるってわかってて聞いたんでしょう」
「君は僕でなく、君自身の無力さを愛し許してあげることで生きながらえる方がいい。僕だって、帰ったらただのガキっぽい自己愛に塗れた大学生だ。君の思うような大人じゃない。僕に出会ったことは、さっさと忘れた方がいい」
「そんなことわかってるわ。望んだ通りに何もかも忘れられるなら、生きるって、もっと簡単なことだし、簡単であるなら、そもそもこんなふうな出会い方なんてしていないわ。だけど、現実はそうじゃないって、知っているはずよ。知っていてそんなこと言うなんて、性根の悪い人のすることよ」
「でも君は、そんな性根の悪い僕に惚れたんだろう?」
「惚れてないわ。でも、惚れたふりしたくなったのは、事実ね」
「一夏の幻覚みたいなものだよ」
「あなたは、私のこと忘れてしまうの?」
「さあ、どうだろう。君はどうして欲しい?」
「忘れてほしくないけど、そんな我儘は言えない」
「どうして?」
「今日の私に、明日のあなたは救えないから」
「救われたかったのは、君の方でしょう」
「いいえ、救われないことを、誰かに肯定して欲しかったのよ。それにね、私はあなたのこと救ってあげたいとも、思わなかったわ。あなたの望むような純愛めいた気持ちなんてなかった」
「それくらいわかってるさ。僕は君を毒の代わりに使ったようなものだ。君のその焦燥と憤りに満ちた顔が、僕を冷静にさせてくれた。一時の自傷だよ。君との日々全てが、自罰欲を満たすためのものだった。君を可愛がることで、赦されるんじゃないかって、そう思っていた。僕が僕に課した名もなき罪についてのことだ」
「私との日々はどうだった?」
「どうだろう。変に甘ったるくて吐きそうだった、かな。だけどね、僕が歌うたいなら、君のことを歌うし、字書きなら、君のことを書くだろうと思うよ」
「そんでどうせ、未完になるのでしょう」
「そうだね。どこにも発表しないよ。君にさえ、見せないだろうね。君の方こそ、片想いごっこをしてみて、どう思った?」
「愛することが生きる理由になり得ることは否定しないけど、そこに必ず、という言葉は付かないって、わかったわ。それにね、心底気持ちが悪かった。こんなくだらない遊びをしている私を俯瞰で見ている私がいたの。ずっとよ。自己陶酔の邪魔をしてくるのよ。本当に、馬鹿みたいな日々よ」
洋介さんはこちらへと歩み寄ってきて、静かに、優しく、切なそうに微笑んだ。
「ごめんね」
「何に対してよ」
「全てに」
「それなら、謝らなくちゃいけないのは私の方よ」
少女は、洋介さんに抱きしめられた。魂の輪郭を探すように、抱きしめ返す。暑い夏が、さらに暑くなった。重くはなかった。無臭で、少し骨張っていて、無機物のようだった。
伝わってくる体温以外、圧倒的に他人だった。彼の体の中に埋もれながら、何も言うことができなかった。ただ、彼の次の言葉を待った。少しして、首筋の辺りに、彼の声が届いた。
「僕は君が好きでした。こんなにも嬉しくて恐ろしい日々は他になかった。このまま幸いを拒むのをやめてしまえたならよかったのに、やっぱり僕は、僕のことを知られるのに、耐えられなかった。さよなら、きぬちゃん。僕の愛しい人」
洋介さんの指先が、ほんの少し震えている気がする。少女は呆れ、そんな自分の冷酷さを憐れんだ。
「嘘つき。愛してなんかいないくせに。好きでもないくせに」
「それ以外は真実だよ」
洋介さんは冷たく言って、少女を抱き締めるのをやめた。洋介さんに見下ろされながら、そして洋介さんが、自分を抱きしめるために地面に置いた日傘を見下ろしながら、小さくため息をつく。
「終わり方がこれじゃ駄作ね」
「僕らが望んだことだ」
「大筋はね。でも、結末までは、考えてなかったわ」
「考えても考えなくても、終わり方は一つだよ」
反論する気にはならなかった。
「もういかなくちゃ」
「またねって、言ってくれてもいいじゃないの」
「君はまだ僕を縛る気?」
「違うわ。縛られても呪われても解けるようにならなきゃ、また私みたいなのに寄生されるわよって言ってるの」
「あいにく、君の道化癖と同じように、獲物癖も治らないものだよ」
「かわいそうね」
「冷たいんだね」
「人間なんてそんなものよ」
「違いない」
洋介さんは節目がちになっていつもより目を細めて可愛く笑って、そのままふらりと背を向けた。日傘を拾って、軽やかに歩き始める。うなじのあたりから、陰鬱な靄が立ち上って散って、可愛さの残像を消し去ったような感じがして、辺りの空気は明るいままであるのに、それ以上生意気な言葉を発するには勇気がいるようになってしまった。
純白のシャツがぬるい風と共に遠ざかっていく。あの滑らかな肌触りのシャツだ。陽に照らされて光る黒髪の怪しげな静けさが、拾った日傘を差し直すことで見えなくなっていくのが、脳裏に刻まれていく。
坂道を下った先は左へと曲がる道路。もう、振り返りはしないのだとわかっている。最後まで見送るのは、悲しいからではない。美しいからだ。
愛擬きの期限は切れた。それでいい。楽しかったわけでも辛かったわけでもない日々が消え去って、また元の、楽しくはなく、それなりに辛い日々に戻るだけ。清々しい気分だ。さっさと帰ろう。
夏、その人物は去っていった。不協和音的な歩み方で。少女は、その背中を見つめながら、これから自分が夢から覚めることを悟った。深呼吸をして、背を向ける。その人が去っていった方向に。特別な過去に。
相変わらず、光の粒が水面に溶け出していて、それを映す瞳は夏を宿していて、羽化したばかりの蝉の声か、脳内が暑さで焦げる時の音か、判別のつかないジリジリとした響きが、止まない。揺らいでる生ぬるい空気。町へ出たが故に確信する孤独。踵が浮くサンダルのまま太陽に蔑まれ、立ち尽くす八月の影。一つ、揺らぐ。
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