夏と幻影(短編)5
少女は、靴を脱ぎながら、その様子を見つめてくる洋介さんに話しかける。
「いつも家の中にいるのね」
「太陽の光に閉じ込められてしまったんだ」
「雨も太陽も好きじゃないのね」
「僕はこの世の全てが好きじゃない」
「私のことも?」
「もちろん。君も、僕自身のことも」
「そう」
少女は脱いだ靴を玄関の端に揃えて置く。洋介さんの靴と並ぶと、自分の足が一際小さいのだと感じる。いつも通り、畳の部屋に向かう。洋介さんは少女の後ろをついて来ながら、不思議そうな顔をして先ほどの話の続きを展開する。
「怒らないの?」
「そんなことくらいじゃ怒らないわ。なんなら、その気持ち、わかるもの」
「実は、他にも外に出ない理由があるよ」
「何?」
「君が今日もちゃんと来てくれると思ったから」
「ほんと、矛盾だらけの人ね」
「その方が人間っぽいでしょう」
洋介さんは微笑んだ。少女は肯定も否定もしなかった。また、畳の上に行儀よく並んで座る。
「君が前に言った通り、僕は弱い。だから、こんなふうに中途半端に、君を隣に居させてしまう」
「いいわよ。私から縛られにきたようなものだもの。私、意外と邪魔にならないでしょう?」
「たしかに君は加減のわかる子だ。容赦なく僕にのしかかり、だけど完全に壊しはしない」
「寄生ってそういうものでしょ」
「いいや、その加減がわかる人は意外に少ないものだよ。甘えたいとか、頼りたいとか、そういういう純粋で切実な願いが達成されると、やがて純粋さを失い、舐めや侮りのような態度に変わり、相手への感謝を忘れるんだ。しかもそれだけでなくね、相手を独立した思考回路を持つ人間として見られなくなってしまい、自由を奪ってしまう」
「その理屈で言えば、私は加減できてないことになってしまわない?私はあなたを漂白したのでしょう?」
「いいや、きぬちゃんは僕を見下したりしていないじゃない。むしろ、とても気を遣って、怯えて、不安そうな目で僕を見る。僕が感情をむき出しにして暴れても、君は君の全てを僕に差し出して、僕のあらゆる暴言を受け止めるゴミ箱になるに違いないと僕に思わせるくらいの弱々しさだよ。もし君が僕に求めるだけ求めて、何も返してはくれないどころか、要求が過剰になっていく子泣き爺みたいな子なら、僕はいま以上に精神を病んでいたに違いない。それにね、僕は僕のことを嫌っている人には容赦しないけれどね、何かとてつもない不安に苛まれ、今にも壊れそうな眼差しで僕に頼ってくる人は、見捨てられない性格なんだ。だから、きぬちゃんを大切にする」
「寄生される側って、そういうものよ。まあでも、子泣き爺なら、無視するに限るわね。うっかり助けてしまって、その重さに耐えられなくなって潰れても、周りからは見捨てられるか、美談にされるか、不十分な救済と見做され責められるかの三択で報酬や感謝はない。困ったことね」
「周りの人は助けてくれないしね」
「そうよ。救う側、受け止める側を支援する人間って、とっても少ないのよ。だからね、心配なの。私は洋介さんを頼るけど、洋介さんは一体誰を頼るのかって」
「誰にも、頼らないよ」
「私は、頼り甲斐ない?」
「僕の苦しみや痛みを君に移すことは、不完全な殺人のようなものだ。君の心をこれ以上壊しても、僕は虚しいだけだ。自分の恨みや呪いを次の世代に引き継ごうとする意志はない。僕の傷は慰められるべきではあっても、受け継がれるべきものではない」
「ねえ、それ、洋介さんの本音なんじゃない?洋介さんはただ、静かな慰めが欲しいのよ。励ましや喝采なんかじゃ治らないし、癒されることも一生ない傷がたくさんついた心だろうけど、それでも、少しの柔らかな許容感が、欲しいのでしょう?洋介さんがいないところでの私はね、救われる側にも、自由に生きる側にもなれない。ずっと、本当に救われるべきは自分の方ではないかと思いながら、笑って誰かに優しくしてる。洋介さんもそうでしょう?本当は、緩やかに続く優しさという呪縛の閉塞感にうんざりしてるのよ」
「自由というのは、使いこなせてはじめて意味を持つものだ。正直、君や僕が自由になったところで、自由の重さに耐え切れる感じはしない」
「そうね。役割がないと生きていけないって、そういうことかもね。でも、このまま、息苦しさが増していくだけの人生は送りたくないし、洋介さんにも送ってほしくないの」
「君は、僕を心配してくれるの」
「私、愛してるふり、上手でしょう?」
「ああ、とてもね。それに比べて僕は、愛されているふりが下手かもしれない」
「洋介さんは私の甘え方が可哀想だって言ったけど、私からすれば甘え方さえ知らない洋介さんの方が可哀想よ」
「なら、甘え方を教えてよ」
「そういうのは教えられるものじゃないのよ」
「そう。でも僕は、甘やかしてあげるのは得意だよ」
少女は洋介さんに無言でもたれかかった。洋介さんに頭を撫でられながら、小さくため息をついた。
「虚しいわね」
「不機嫌な高校生とイキった大学生では、こんなふうな、薄寒い癒しが限界だよ」
「わかってる。いいじゃないの、薄寒くたって。ごっこ遊びなんだから」
「それに付き合わされる僕の身にもなってほしいものだけどね」
少女は思う。自分も洋介も、子供らしい大人ではなく、大人らしい子供でもない。大人と子供のキメラだ。生かされてはいるが、生きてはないない、弱々しい化け物だ。
「ずっとこのままならいいのにね」
「この瞬間が永遠になればいいってこと?それとも、僕と一緒にこの先もいたいってこと?僕は君に僕の多くを知られる前に、帰らなくちゃいけないよ」
「前者だとしか言わせないつもりね」
「言いたかったら後者だと言ってもいいけど」
「そうやって選択肢があるように見せかけて、まるで私が自分の意思で選んだみたいに仕立て上げるのは、悪い人の知恵よ。知恵さえない阿呆のほうが可愛げがあるわ」
「そうだね。ごめんね、少し意地悪なことを言ったよ」
「構わないわ。意地悪なのだって、お互い様だもの」
少女は、畳の上に大の字に寝転がって、少年のように無邪気に口角を上げる洋介さんの、普段とは違う明るさに違和感を抱いた。洋介さんは深呼吸をして、少し大袈裟な口調で話しだす。
「なんて素晴らしい日々だろう。風通しの良く、古き良き温かみのあるこの家の中心で、木漏れ日にも似た日差しの入り方に微睡を促進してもらい、誰にも知られない休息を堪能している。僕は本当に幸せ者だ」
「あなたの口から幸せって言葉が出てくるとは思わなかったわ」
「環境的幸福と精神的幸福は相互的に影響を与えることはあれど、全くの同一ではないということだよ」
「じゃあ、幸せと不幸を同時に感じることもあるのね」
「まさに。楽しいという気持ちと、死にたいという気持ちは両立する。僕は今、幸いの輝きを感じながら、同時に、その輝きの眩しさに耐え得るだけの精神的健康などとうの昔に損なってしまっているから、心が激しく痛み、陰の奥の奥へと逃げ去ってしまいたいともおもっている」
「逃げないの?」
「逃げる事は悪い事じゃないのかもしれない。でも、僕の逃げるというのは、己の罪や責任から逃げる事であるように思うんだ。それにね、幸いになっても、きっと虚しいだけだ。唯一、不幸であることが、生きる理由のなさを隠してくれるんだ」
「それは、いつでも逃げられる環境にいる人だから言えてしまうことかもね」
「そうかな。環境としてはそうかもしれないし、僕みたいな人間は逃げ癖があって、しかも逃げる才能も抜群であるように思われるかもしれないけれど、しかし実際には、僕みたいなのは逃げるのが下手で仕方がないから、こんなような生き方しかできないんだ。だから、できることならば、僕が自ら幸いに手を伸ばしたくなる日が来たら、不幸の方が僕から逃げてくれるとよいだろうと思う」
「あなたが何もしてほしくない、放っておいてほしい人間だということはわかったわ」
「そうそう。僕なりの人生の味わい方というのがあるんだ」
洋介さんは変わらず穏やかな微笑みを浮かべたまま、息を深く吸って、吐いた。この人も人間なんだなと思った。
「ねえ、きぬちゃんはさ、僕が幸せになったら、嫌だ?」
「どうしてそんなこと聞くの?」
「だって、僕だけが幸せになったりなんてしたら、裏切り者みたいじゃない?」
「そうかしら」
「不幸を共有することで居場所を確保したいとか、相手に対して幸せになって欲しいと願っている時間が素晴らしいものだから本当に幸せになってしまったらよかったねと祝福するけど興味を失う、みたいな価値観の人って結構いると思うから、不幸や儚さで人を魅了し続けるのって意外と難易度が高いんじゃないかと思ってさ」
「私は一緒に幸せになりたいだなんて、そんな恥ずかしいこと望まないし、誰かの幸せに傷ついたりしないわ。それに、洋介さんが純愛を信じることができる側の人間な時点で、私とは違うってわかるし、裏切る以前に、仲間でもないわよ」
「君は本当は相当心の強い子なんじゃないの」
「そうね。この生きづらさは、高い自尊心に起因しているのかもね、本当はね」
少女が返事をすると、そこで会話は途切れた。長い沈黙が続く。静謐な、穏やかな、そして僅かに緊張感のある静寂。
「あの時こそ死ぬには良い日和だったと思い返しては、既にその日を越えてしまっていることに絶望し、揺蕩うような心持ちで、何の目的もなくまた息を吐く。冷静に死に際について考えている時に限って、死ぬには都合の悪い日であるから不思議だ」
「死にたいの?」
「死にたいんじゃなくて、『死』になりたいんだよ」
「死ぬの?」
「いいや」
「本当に?」
「すべての人間がそうであるかは知らないけれどね、少なくとも僕自身は、不幸でいることさえ許されなくなった時に死ぬのだと思うよ」
「ふーん。本当に不幸なの?」
「その問いには答えることができない。なぜならば、僕は不幸であることで、その中にある幸い的絶望を見ているから」
「自傷行為みたいね」
「そうかもしれない」
「反論しないの?」
「別に悪ことをしているわけじゃないんだから、ムキになることもあるまい」
「でも、憂鬱って伝染するのよ」
「同じ種類の人間同士ならばね」
「じゃ、やっぱり私、あなたと同じみたい」
「そんなことは、初めから分かり切っていたことだよ」
「気づきたくなかったわ」
「もうすでに気づききっていたくせに。まあ、気づいていなかったとしても、君は僕と出会う前から憂鬱だったはずだよ。僕が君を汚したんじゃない。互いに暗闇を持ち寄っているんだ」
「そうね。その通りよ」
幸福と不幸は相反する対の概念だと、誰に教えられたわけでもなく、信じていられる人たちばかり世の中で、幸福と不幸が癒着し、さらには不幸が幸福を侵食してしまって、抗う術を持たない自分達のような人間は、こうして世界の隅で、誰からも見えない箱のような部屋の中でしか、まともに息ができないのだと、少女は考えた。ふと目に入った、先日洋介さんが眺めていた国語辞典を手にとってみる。
「言葉を装飾してばかりだと、本当に伝えたいことが埋もれてしまうわ」
「意図的だよ。真実はぼやかすに限る」
「真実なんて存在しないことを隠すためのぼやかしじゃないの?」
「そうかもね。実際、この世界の大部分は真実の共有ではなく、幻想の共有によって保たれていると感じることがよくあるよ。そして、それに抗う意味を僕は見出せないでいる」
「それは、洋介さん自身が、他人に幻想的人格しか開示しないから、そんなふうに思うのよ。素直に生きていればそんな考えには至らないわ」
「僕は、人と分かりあうために言葉を学んだのではなく、他人から僕の本質を隠すために言葉をなんだのかもしれない。人に必要とされたいわけでも、人を傷つけたいわけでもない。ただ、僕には僕だけの空間が必要で、それは、言葉を覚え、思考することで拡大されるものであると、そんなふうに思うんだ」
「なるほどね」
「それにね、自分だけの孤独、自分だけの苦悩、特別な思考の海の底にいる、そういう自己愛の正体が、他者の言葉で語られることに対する躊躇いのようなものがあるから、僕はいつでも、他者より先に僕のことを知り、言語化できるようにしておきたいんだ。とにかく怖い。僕の奥底にある大切な、純粋な光が、外気に触れて濁ってしまうことが怖い。僕は特別な人間ではないことくらい、随分と前から解っている。ただ、もう既に使い古された言葉と概念であっても、ただ模倣するのでなく、自力でそこへ辿り着きたいだけなんだ」
淡々と話す洋介さんの、滑舌まで美しいその声が空気に溶けていくのを心地よく感じながら、縁側の方から差し込む光が彼の頬を照らすのを見つめた。憔悴でできた部屋に一輪の花が咲いているのだと思った。
「僕の憂鬱の中に美しさを見出すのはやめてくれないかな。見せ物じゃないんだから」
「あら、別に安易な感動や憐れみは抱いていないわよ」
「なら、いいけど」
「どっちにしたって、人の感性を抑圧することは良くないことよ」
「じゃあそのまま君の視線に傷つけられたままでいろって言うのかい」
「嫌なら醜くなることね」
「他人といるって、大変なことだ」
「それに関しては同感よ」
「なのになんで僕らは一緒にいるんだろうね」
「ただの暇つぶしよ、全て」
「ただの暇つぶしなら、もう少し上機嫌に、気楽になれはしないものだろうか」
「それは無理ね」
「断言してしまうんだね」
「当たり前よ。自信を持って無理だと言えるわ」
「まあ、僕も君に賛成だな。僕らは、幸いに緊張し、不幸に安心する、そういう生き物だ」
洋介さんは深く頷いて、小さくため息をついた。
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