見出し画像

夏と幻影(短編)4

 

「きぬちゃんは今日も不機嫌だね」

「だめかしら」

「いいや、放っておいて構わない不機嫌だから、ダメじゃない。他人の痛みが自分の中に入り込んできたり、他者へ向けられた怒りが、まるで自分へも向けられているかのように感じたりすることは、僕にもあるよ。だけど、君の不機嫌は愛らしいと言えばいいのかな、怖くないんだ。眉間に皺を寄せた毛の柔らかい子猫を想像してごらんよ」

「あら、そう考えると私って意外と可愛いじゃないの」

「そうだよ。君は可愛いんだ」

「私、自分がうざったい性格してるってわかってる。私は私にムカついてる。可愛くても、うざったければ台無しだわ」

「僕も昔はそうだった。意味ある時も、意味ない時も、不機嫌だった。自分に憤っていた」

「いつからそうじゃなくなった?」

「さあね。持て余した感情や感覚が、他人や非現実のようになっていくだけのことだよ。その中でも、過去は、とてつもなく他人だよ」

「簡潔に言って」

「三日前の僕には今日の僕を救えないってこと」

「明日の洋介さんも、今日の洋介さんを救いには来ないわよ」

「未来の僕も、今日の僕からしたら他人さ」

「でも第三者からすれば、それらの洋介さんたちは同一人物だわ」

「だから第三者とは距離を置くのさ」

「私は?」

「うーん、君はほら、僕の鏡みたいな存在だから、特別だよ」

「そんな簡単に特別だなんて言っちゃダメよ」

「僕は大真面目だよ。特別って言われた時に素直に喜ばない方もダメだと思う」

「ごめんなさい。もう少し、ここでは肩の力を抜いても大丈夫だって、本当はわかってるの」

「そう、それはよかった」

「裏と表というより、内と外って感じね。ここは内側の世界よ。私が唯一、少しだけ落ち着ける場所」

「君が僕ごと、君の内側に取り込んだのかもね」

「そうかもね。ここは私の精神世界みたいなものだわ」

「外では、大変な思いをしているんだね」

「いつも損な役回りよ。でも、引き受けるわ。私、表向きくらいは優しくありたいのよ」

「道化癖って一度ついたらなかなか治らないから、気をつけなよ」

「ご忠告ありがとう。でももう手遅れよ」

 正直心が荒んでいる時は、容姿が整っている人でも長時間は見ていられない。なんで腕や足の先端が五本に分かれているんだとか、顔のど真ん中にある白い塊が整列している湿った空間は一体なんだよとか、色々なことを思ってしまう。もしも自分が、今日初めて人間をみた生き物だったなら、この気色の悪い生物はなんだと思って、眉を顰めるに違いない。

 そう思うのと同時に、洋介さんだけは、人の精神の揺らぎに左右されない強固な美であると思った。じっと見つめていても、飽きることがなかった。

「どうしたの?」

「洋介さんって、いつも消えそうで消えないし、近いようで遠い。まるで星みたいね。もう既に消滅した星の、光が地球に遅れて届くのだけを見ているみたい。偽りの光を見て、もう消えてしまったあなたを何度も探しているだけなのかもしれない」

「それはどんな気持ち?」

「少し惨めね。月や星の明かりが遠くに見えると、なんとなく手を伸ばしてしまいそうになるけど、それが諦めの悪さというか、世界を拒絶したがってきたはずの自分が、今更世界との縁を正しく結び直そうともがいているみたいで、滑稽だわ」

「滑稽かな。可愛いけどね」

「そうかしら。もっとキラキラした目で夢を語る純粋に未来を待望できる子の方が可愛いわよ」

「夢は生きるための必須装備ではない。夢や願いを持たない人間がいたっていい。夢を語ったら笑い者、夢を隠したら怠惰者、夢を諦めたら敗北者、夢を叶えたら裏切り者、そんな世の中だからね、夢は尊いものじゃない、僕はそう思うよ」

「それもそうね。でも夢がないわけじゃないのよ。他人に話せるようなものじゃないってだけ。私って明るくてお茶目だって思われてるから」

「どんな夢?」

「花畑になるの。花畑になって死者の魂を迎えるの。こちらが花なら、人間との関わりに怯える必要ないから、きっと死者に優しくしてあげられるわ」

「その夢は、僕に話すべきでなかったね」

「どうして?」

「もしも君が先に死んだら、君が誰かを迎える前に、僕が君を摘み取ってそばに置いてしまうかもしれないから。僕以外の誰にも触れさせないで、色褪せても大切にして、僕が死ぬ前になったら飲み込んで、君の存在を僕の血液に編み込んで、地獄へ連れて行ってしまうかもしれない」

「私、お兄さんと一緒なら地獄行きでも構わないわ。でも、摘み取ったりなんてしないでしょう。あなたは弱いもの。私の身体をちぎったりはしない」

「優しいと言い換えてほしいものだね」

「優しさと弱さは別物よ。どちらかといえば、真に人に優しくするって、強くなきゃできないことよ」

「だったら、僕たちは二人とも、優しくないね」

「そうね。私だって、弱いわ」

「優しくないもの同士、寂しくなろうか」

「そうやっていろんな女の子を落としてきたんでしょ」

「こんな言葉を気持ち悪がらずに、むしろ惚れるなんて、よほど変人で、よほど僕好みの女性なのだろうね。だけど困ったことに、僕は僕に惚れる女性のことが好きなのに、とても苦手でもある」
「そう、そういう好みかつ苦手な女の子を手のひらの上で転がしてきたんでしょ?」 

「心外だね。僕は純愛しか好まない」

「落としておいて放置するわけ?本当に、お顔が綺麗な人の遊び方って鼻につくわ」

「向こうが勝手に落ちて勝手に片想いしてくるだけのことだ。愛されるのだって、楽じゃないんだよ。僕は半径一メートル以内には人を入れたくないし、君のことだって、子供をあやすのは大変だとしか思わないよ」

「でも、二十二歳と十七だと、そんなに離れてない」

「君からすればそうだろうね。でもね、君が大人のつもりになっているだけだ。それにね、僕は君が恋愛ごっこをしたいだけのように見える。慕情を感じられないんだ。僕にとっては、その方がいいけれどね」

「ふーん、そんなことまで分かるんだ。確かに私、からかってみたかっただけだわ。恋愛なんてわからないし、未成年に迫る男は嫌いだもの。ただ少し、同級生の子供っぽさに飽きただけ。洋介さんといる方が落ち着くわ」

「君のその刺々しい甘え方は、鼻につくを通り越してなんだか可哀想になってくるね」

「どういう意味?」

「そのままの意味だよ。おいで」

 洋介さんは自分の隣に来るようにと、畳を指で軽く叩いた。少女は、少し躊躇いつつも、洋介さんの隣に座った。意識が乱雑に散って、幼児退行していくような気分に抗いきれなくて、洋介さんにもたれかかった。節目がちになって畳を見つめたまま、話を続けた。

「ねえ、ひとつ訂正するわ。私がしたいのは恋愛ごっこじゃなくて、片想いごっこよ」

「そう?なら僕は君が僕に偽りの愛を示すことを許そう」

「許すだけ?」

「他に何がほしい?」

「何もいらないわ。余計で邪魔なだけだもの」 

「じゃあどうして許すだけ?だなんて聞いたのかな」

「なんて答えるのか気になっただけ」

「僕の返しは正解だった?」

「正解か間違いか決めたくなるほど、あなたのこと好きじゃないわ」

「でも君は、好きじゃない人間に抱きついて、今にも泣きそうな顔をしている」

「好きじゃなくたって、一緒に寂しくはなれる。あなただって、好きでもない少女を半径一メートル以内に入れてるじゃない」

「勘違いしないで欲しいね。前にも似たようなことを言ったけどね、僕は君を内に入れたんじゃない。君の内に入ったんだ」

「でもおいでって呼んだのは洋介さんよ」

「君の面目を保つためさ」

「違うわ。洋介さんが素直じゃないのよ」

「では、それもお互い様ということでどうかな」

「ええ、構わないわ」

 

 雨、雨、雨。あいにくの雨。傘を跳ねる雨粒のご機嫌な音を聞きながら、少女は歩いていた。湿気でへたった前髪が鬱陶しかった。不注意で水溜りを踏みつけてしまったせいで、右足だけ、靴の内側へと水が染み出してきて気持ちが悪い。

 気分が天気に左右されるなんて馬鹿げていると思いながら、やり場のない憤りをおさめるために深く呼吸をして、眉間に寄せた皺を意識的に緩めた。濡れた草の匂いが鼻の奥を満たした。 

 不機嫌を拗らせながら歩いているうちに、洋介さんの家に着いた。傘を振って露を払ってから今日も戸鈴を鳴らす。少しして、いつものように顔色の悪い洋介さんがふらふらと出てきた。

「おはよう」

「おはよう。君は偉いね。毎日動き回ってさ」

「一緒に出かける?」

「いや、行けないよ。僕は雨の音に閉じ込められてしまったんだ」

「行きたくないと言えばいいのに」

「いや、行きたかろうと行きたくなかろうと、行けないんだ。僕の意思を、僕の身体はあまり聞き入れようとしないから」

「そう」

 少女はこの家の独特な匂いさえ、もうわからなくなってしまっていた。傘立てに傘を突っ込んで、玄関に踏み入れる。ローファーを脱いで並べて置き、さっさと奥の部屋へと行く。洋介が、後からついてくる。

 畳の上に画用紙や画材が散らばっていた。美しい絵から不気味な絵、抽象的な絵から写実的な絵まで、さまざまだった。そのどれもが未完成のまま、放置されている。

 作品を踏まないように気をつけて避けながら、いつもの折りたたみ机まで歩く。洋介さんは、しゃがみ込んで、作品をゆっくりと拾い始めた。少女は、その様子を見ながら鞄を床に下ろした。

「どうして全部書きかけなの?上手くいかなかった?」

「僕は絵を描くという行為を求めたのであって、完成された絵を求めたわけじゃない。そもそも僕は筆や画用紙を上手に抱きしめることができるだけで、それを上手く使えるわけではないんだ。だけどね、未完成の絵が百枚積み上がっても、僕は構わない。これらはやがて、日々死にゆく僕の精神の一部を閉じ込めて送り出すための、鎮魂の花束になる。一輪の完全な花でなく、不完全な花を寄せ集めた、歪な花束だ」

 洋介さんはこちらを見ることなく、少々早口で言った。少女は、時々自分が嘘吐き、あるいは偽物なのではないかと思う。何でもかんでも打ち明ければいいわけではないが、多面的すぎることで、結果的に多くの人を騙している気がする。どの面も少しずつ自分で、少しずつ自分ではない。自分の一部ではあるが全部ではない。洋介さんも、同じではないだろうか。

 無理やり、なんとか、もう死んでしまった心のかけらをかき集めて、つぎはぎでもいいから、自分らしさがそこにあるように見せかけたいのではないか。不安に絵という宿を与えて、側に置いておくことで、安心を得ようとしているのではないか。そうでなくても、そうであってほしいと思った。また、少女は洋介さんを漂白した。

 絵を拾い集めて重ね、部屋の端に置いた洋介さんは、大袈裟に息を吐いて、畳の上に寝転がった。休息を求めたというより、倒れ込むような、不健康な仕草だった。横になって、空な目をした洋介さんは、人形のように見えた。

 少女は想像する。洋介さんは、今、憂鬱の海に浮かんでいる。流れのない穏やかな彩度の低い海に泳ぎ方を忘れたまま、一人、浮かんでいる。緩やかに、人格が流出し始め、溶け合って、やがて海そのものになる。

「心が特に荒れているときは、人間の顔を見ても、音楽を聞いても、本を読んでも吐き気がする。外界から取り込むことの全てが嫌になる。好きなものはいくつかあれど、それが、世の中の在り方や自分の人生の在り方を総合した時のくだらなさを超えることはないだろうなと思って虚しくなるし、それなりに楽しいはずのことをしても心がすり減ってしまう。何かに没頭していないと壊れてしまいそうになる。でも、すり減った感情の名前が、わからない。疲れが溜まっていることだけしか、わからない」

「楽しい時も、心がすり減ってしまうの、よくわかるわ。私の場合は、私なんかが楽しくしてちゃダメだって、そう思ってしまうの」

「僕にも、もしかしたらそういう思いがあるのかもしれない。だけどさ、誰も僕や君のことなんてそんなに見ていないとも思うんだ。自意識過剰なだけ、勝手に苦しみの自作自演をしてるだけってのが、真実かもしれない」

「その通りね。他人は関係ないわ。他人は私のことなんて見てない。でも私自身は違う。私は、私のことずっと見てるわ」

「過剰な悲観的自意識、それすなわち究極にして狂気的な自己愛だね」

「私は私からの大きな愛に応えられるほど立派な人間じゃないから、私自身から逃げ回ってしまうのだわ。きっとそうよ」

「そうだね。僕らは、愛に寛容でいられないんだ。愛させられることほど、辛いことはない」

「同意するわ」

「愛は人を道として循環を繰り返すものだって、そう信じていたよ。幼き日に無駄遣いしたあれは、今誰の中を流れているのだろうね。少なくとも、僕の元には還ってこなかった。僕が僕自身や、他人に使ってあげられる愛は、もう残っていない」

「私があげるって言ったらどうする?」

「もらっても、僕が触れた瞬間、砂になってこの手からこぼれてしまう。あるいは、僕の手のひらのほうが、もう既にひび割れてしまっているのかもしれない。方向性を間違えた愛に殺されかけることが多すぎて、もうそれならど愛なんてない方がマシだって、心のどこかで思ってるから、そうなってしまうんだろうね」

 少女は、洋介さんの痛みがわかったような気がした。理解と、共感と、連帯と、その他様々な、混同してしまいがちな感情たちの中で、一層強く存在感を放っている愛。得体の知れないそれが、自分に牙を向いた時の絶望。それを知らずに生きてこられたなら、今頃、もっと素直に笑えていただろう。洋介さんも、自分も。

 洋介さんは寝転がったまま、少女に背を向けて、ため息をついた。

「僕が怠惰な人間に見える?」

「いいえ、部屋は綺麗だし、浪費している様子もないし、酒に溺れたりもしてないじゃないの。それに今は休暇中なのでしょう?だったら体も心も休めるのは当たり前のことよ」

「別に、酒や煙草や文学がなくたって、人は堕落できるものだよ」 

「堕落の先には何があるのかしら。堕ち切った先」

「綺麗な起承転結なんてのは小説の中だけのこと。実際は、息苦しいだけの日々が延々と続いていく。つまり、堕ち続ける」 

 少女も寝転がってみる。寝返りを打ってこちらへと顔を向けた洋介さんと目が合う。静かに手が差し伸べられる。少女が手を握り返すと、洋介さんは静かに言う。 

「たまには泣いていいんだよ」

「泣かないわよ、一人の時しか」

「それを僕の前では我慢しなくていいって言ってるんだよ」

「本当は我慢できるのに、男の子の前でだけ見せびらかすように泣く女はいい女とは言えないわ」

「君は頑なに心を開かないね」

「そんなに私を泣かせたいの?」

「いいや、無理やり女の子を泣かせる男は悪い男だ」

「逆に、洋介さんだって、私の前で泣いていいのよ」

「気が向いたらね」

 洋介さんは、虚空を眺めるように、斜め上を向いて、静かに瞬きを繰り返した。握った手は、そのままに。まるで誰もいない部屋で語られる独り言のように、言葉がこぼれては消える。

「僕はね、孤独が好きと言ったけれど、孤独を選ばざるを得なかった人間なのかもしれない。誰とも、打ち解けるなんてのは無理だ。本当は、致死率百パーセントなのに進行が緩やかすぎる、その心の虚とかいう病気はみんな持っていて、気づくか気づかないか、あるいは症状として現れるか現れないかの差でしかないはずなのに、人は、いつも病をひた隠しにして、元気いっぱいにみせるために誰かを責め立て、自分の過ちは認めず、許し合いもしない。その、人、には自分も含まれていて、自覚しているのならば、せめて、完全に孤独でいるべきだと思った。それが、他人のためにも、僕のためにもなると思った。その、他人、には、誰が含まれているかわからない。うじゃうじゃと、顔がありそうでない、あるいは無さそうでありすぎてしまう、そんな抽象的人相の群れが頭の中で揺らいでいるだけだ。僕は虚に気づく側で、症状は酷くはないが慢性的で、幸福と不幸の板挟みになって、そこは安寧だと一部の人は言うけれど、本当は、無彩色の地獄みたいなところだ。何の記録にも、誰の記憶にも残らないのに、なぜか、時々羨ましがられ、時々馬鹿にされる立ち位置だ。疲れた。僕は強者の座にのしあがれるほどの勇気や能力はないし、かといって、弱者から弱者という肩書きを追い剥ぎして纏うほど愚かでもない。いつもいつも、透明人間だ。僕のような人たちは、どんな物語にも参加させてもらえない透明人間だ。いや、人間かどうかさえわからない」

「本当に、相当疲れているのね」

「八つ当たりも憂さ晴らしも、君に夢中になるのも面倒なほどにね」

 どこにも痕跡の残らない会話が、今日も終わろうとしている。少女は、違和感の正体に気がついていた。誰も、洋介さんを見ていないことを、洋介さんは見抜いている。

 少女は、自分が洋介さんと話すことで洋介さんを解明しようとしているのではなく、洋介さんと話す自分を見ることで、自分を解明しようとしている自覚があった。だから、誤魔化すことにした。

「そういえば、私はお洋介さんのことが知りたくて質問をすることがよくあるけれど、洋介さんは私のことをもう既に全て知っていて、暇つぶしに私に質問をするみたいだわ。それか今みたいに、長い独り言を言うの」

 取ってつけたような、興味関心擬きだと思われても構わなかった。上手く、台詞をつなげることができたなら、それで十分だった。

「そんなことはないよ。まだまだ僕は、君について知らないことがあるよ」

「知りたいとは言わないのね」

 返事はなかった。許容という態度自体が配慮の一種である、ということに気づけず相手に求めすぎて調子に乗ると詰むと、少女は心得ていた。静かに微笑み返して、それ以上何も、洋介さんに求めはしなかった。

つづき

前回


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?