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夏と幻影(短編)3

 

 洋介さんは、部屋の端で壁を背もたれにして国語辞典を眺めながら、少女に話しかけてきた。

「確かな意味を持って生まれてくる言葉の少なさに思いを馳せる余裕がある人生って、いいものだね」

「辞書は言葉の真実に限りなく近いものだけど、人間の真実は載ってないわ」

「そうだね。そもそも、本来言葉には、善も悪もないはずなんだ。優劣も、強弱も、なにもかも。それを決めるのは心だ。言葉を知った人の心だ」
「なら私の心を信じてみない?」

「冗談でしょう」

「冗談じゃないわ」

 本当は冗談にしておいてもよかった。別に信じて欲しいわけではなかった。それでも、少しからかってみようかと思った。気まぐれだった。洋介さんの反応を探る。洋介さんは、困ったような、傷ついたような顔をした。

「なら、なおさら君が怖いよ」

「私じゃなくて、人を信じるあなた自身を想像して怯えてるんでしょ」

「よしてよ、もう既に僕は傷だらけなのに、追い打ちをかけるようなことを言わないで」

「私、怯えることが悪いことだなんて言ってないわ。やめなくてもいい。でも、そのままだと、傷は一生癒えないわよ」

「癒えなくてもいいよ。傷だらけのままでいれば、君みたいな子が心配してそばにいてくれるんでしょう?」

「それもいつかいなくなるわよ」

「そんなことはない。僕の方から去るから」

「ほんと、意地悪な人ね」

「僕みたいにはならない方がいいよ」

「肝に銘じておくわ」

「ねえ、今の会話、僕と君の台詞をそっくりそのまま反転させても、違和感ないよね」

「そうね。なんなら、他の会話だって全部そうよ」

「確かに」

 洋介さんはくすくすと笑った。さっきまであんなに苦い顔をしていたくせに、今はとても穏やかな顔をしている。何日共に過ごしても、得体のしれなさが消えることはなかった。

「洋介さんの表情って、あくまでも表の情なのよね」

「どういうこと?」

「感情を悟らせないのは簡単なことよ。それは私だっていつも家や学校でやってる。でもあなたの表情は、いつどこでどんな感情を見せるかわからないという不気味さの演出としてのもので、それ以外の役割を果たしていないってことよ。なんだか、洋介さんって人間味があるようでないのよ。浮世離れとか孤高って言えば聞こえがいいかもしれないけど、器用に人間の真似をしてる美しい何かみたいよ」

「君のせいだよ」

「どうして?」

「君は僕を漂白した」

「漂白?」

「そうだよ。僕から、他者であることを奪ったんだ。僕は君に都合の良い、喋る玩具になり果てたんだ。わかるかい?君の言動に心から傷つくことはない、君という存在の影響を真に受けることもない。無作為に抽出された感情を少しだけ表出しながら日々を生きて、君と話す時には、適切な、その場に合いそうな感情を選別して表出する、そんな玩具だ。君のためだけに、君の望むように振る舞う玩具。君と出会って、目が合ったあの瞬間にそうなったんだ。君のために、そうしてあげたいと思ったことだけが、僕の本心だ」

「もっと簡単に、一言で言って」

「君は僕が君に対してあらゆる欲や願いを持つことを禁止しているということ」

「そんなことないわ」

「そんなことあるよ」

「私を責めたいの」

「そんなことはないよ」

「でも私のせいだって言った」

「君のせいだよ。でも、君を恨んだりしない。期間限定の関係に過剰な思い入れなんてない。君もそのはずだよ」

 間違いなかった。実際、少女が洋介さんに対して様々なことを饒舌に話すのは、多少なりとも、その期間限定という事実に甘えてのことだった。引っ込めるべき思案さえない阿呆になれたらば楽だろうなと思いながら生きてきた引っ込み思案な少女の、引っ込めた大きく複雑なその思案が、ここでは十分に発散されるのだった。

「洋介さんがそうやって私を拒むほど、私は洋介さんに興味が湧いてしまうわ」

「辛いかい?」

「ちょっとだけよ。退屈よりはマシ」

「人を好きになったり、あるいは好きになろうとしたり、それはね、自分の身体の外側まで痛覚を拡散するのと似たような試みなんだ。やめておいた方がいい」

「自分が傷つくことなんて慣れっこよ。傷つけるのがたまらなく怖いの」

 自分を蝕むものが、被害妄想だけだったのなら、まだ、生きやすかっただろう。自分の内側に醜さを見た日から、生きることが、恥のようになってしまった。

「僕はね、君に真っ白に染められても、僕でなくなったりはしないよ。僕は色彩の人でなく、陰や闇の人だから」

 少女は、自分が何を思って、何を言っているのか段々とわからなくなってしまっていて、洋介さんの話も上手く聞いて理解することができず、今までの会話に対する責任を放棄したくなった。忘却のさらに奥にまで捨てに行けるのなら、今すぐにでもそうしたいくらいだった。

 今までも、話しているうちに、言葉だけが一人歩きしてしまうことはよくあった。適当な会話が流れていくのを、眺めているだけの空虚な自分の方が、自分の本体なのだった。そんな自分に嫌気がさした。

「私って、本当に嫌なやつだわ」

「いいや、そんなことはない。ずる賢い人間は追い詰められるとボロが出たり化けの皮が剥がれたり、本性を表すのだろうけど、まじめで優しい人間は追い詰められると本性を隠す。自分を守るために自分を隠さなければいけなくなる。君がやっているのは後者だ。自分を守るために自分を偽り、怯えながら、精一杯の力で威嚇するように眉間に皺を寄せ、しかし大きな声は出ない。声を出したって無意味なところにずっといれば、自然と、出なくなる。ほんの少しの抵抗しか、できなくなる。尊厳と諦念の間で、じっと耐え忍んでいる」

「わかる?」

「わかるよ。君は人を傷つけたいわけじゃない。自分の都合のいいように人を操作しようというわけでもない。ただ、不器用に、人を信じず、本来の己を忘れるほどに隠すことでしか、生きられなかった子だ」

 怖かった。耳触りのいい言葉にこのまま身を委ねてしまえばいいのかもしれないと思うのと、それは今まで制御してきた自分を壊しかねない愚行だろうと思うのとで、結局顔に出た表情は、困惑、だった。

 優しさに戸惑う人間は、そう多くはないのだろうと考えて、悲しくなった。洋介さんは、その様子を見ないようにして、庭に生い茂る緑の方を向いた。また、少女は困った。洋介はこちらを見ないまま言う。

「生きるって、なんだろうね」

「そのまんまの意味よ。もしかして、受け入れ難いから、他の意味を見出さなきゃって、思ってる?」

「むしろ逆だよ。苦しいという言葉がさ、なんとなく使いたいだけの人たちに侵食されて本来の効力を失って、だから苦しい人たちは、少し捻った言い方をするようになった。そうしたらまた、それをただ複製して無意味な鳴き声みたいに繰り返す人間がやってきて、中身のない言葉に変わってしまった。僕らはまた新しい言葉を探さなくちゃいけなくなっていく。生きるって言葉も同じだよ。そのままであるべきことが、そのままでいられないのが、世の中だ。僕はさ、べつに生きていたくなどはないんだ。べつに、べつにさ。なんでもないんだ。でもそれじゃ不十分だ。不十分なのに、これ以上なんて言えばいいのかわからない。生まれつきの幸福というのは確実にあって、その形や大きさは違えど当たり前に、ある程度備わっているものなのだろうと思う。けれども、僕にはそれがない。失ったのではなく、初めからないんだ。それなのに、そのありのままを表す言葉が、この世にはない。ありのままを脱却すれば良いのかもしれないけれど、憂鬱というのは僕の唯一の友達であるから、怖い。僕が僕じゃなくなって元気になったなら消え去ってしまう気がする。僕が殺したことになってしまう気がする。一緒に生き続けたならいつか僕は、彼に殺されてしまう気もする。それも悪くないかも知れないと、思ってしまうこともある。全て、そんな気がする、というだけの話で、『気』に構っている時間の是非について、僕は考えるべきだけど、まだ、そこに取り掛かることができるほど、成熟してはいないし、僕は正しい生き方を未だ知らない」

 少女は、黙って聞いていた。少女も、前向きに生きるのは気持ち悪いとか馬鹿馬鹿しいとか思うことがよくあった。ある意味、全生命に対する侮辱、生命蔑視なのだが、自身が命ある存在という当事者であるために、置かれた環境に対する嘆きや自虐としてその嫌悪感は機能してしまう。

 自分を可哀想がることで、少しばかり自分を愛せてしまうから、命を大切になどできない。この精神はどうしようもなく歪んでいて、あまりにも救いようがない。

「僕は、本当に臆病で、弱々しい人間かもしれない。痛みも喜びも、この身体一つで支えるには重すぎる。喜びを得ようとすると、痛みもついてくる。でも痛みを得るためには、喜びはいらない。だから、軽い方を選んでしまうんだ。簡単な方を選ぶとなると、幸いより、不幸の方がよほど簡単なんだ。僕にとってはね。そういうふうに生まれてきてしまった。この世界に絶望しているから希望的観測に頼るという人もいると思うけれど、僕は希望的観測で溢れかえったこの世界に絶望しているのかもしれない。どちらが良いとか悪いとか、そういう話ではないけれど、きっとどちらも辛いのだろうね」

 少女は、黙って聞いていた。

 

 少女は、いつも持ち歩いている小さな鏡に、自分の顔を映して眺めていた。自分の容姿に対しては、許容感を抱いており、特別に悩んではいなかった。それでも、もっと、可愛くなりたいと思っていた。

「洋介さんは、孤独が好きって言ってたけど、周りが洋介さんを放っておかないんじゃない?黙っていても、他の人とは何かが違うって、わかるもの」

「僕は出る杭ではなく沈む杭だ。闇の中を掘り進み続けた人だけが会うことのできる杭だ。君は世界からはみ出して僕に辿り着いたんじゃない。深く沈み込んでたどり着いたんだ」

「だけど、洋介さんは、綺麗でいいわねって言われること多いでしょう?」

「まあ、時々ね」

「それ、気に入ってる?」

「客観的に見れば恵まれている方ではあるけど、僕に向けられる羨望だとか嫉妬だとか、そういうものは好奇的眼差しではあるから、それを自分が気に入っているかと問われたら、そうでもないかな。誰にも憧れないけど、僕自身が一番素敵な人間だとも思わないし、素敵な生き方ができているとも思わない」

「私ね、似合う可愛さと好きな可愛さの乖離。そんな幻覚を見て悩んでる。可愛いってなんなんだよ、私ってなんなんだよ。知らないのに一人前に悩んでるの。私って可愛いと思う?」

「そんなことで悩んでいる君は充分、可愛いと思うけれどね」

「そんなことだなんて言わないでよ」

「結局さ、本当に可愛い子じゃなくて、可愛い子役の椅子を勝ち取った子が可愛い子扱いしてもらえるんだよ。それほど可愛くなくてもだ。そんな世の中だけどさ、僕は心から、君をとても可愛いと思っているよ。可愛いのに、可愛がられない君のことが、愛しい。まあ、他人からの評価なんて鬱陶しいだけかもしれないけど、少なくとも僕はそう思ってるよ」

「ありがとう。そんなことを言ってくれるのは洋介さんだけよ。外は怖いものばかりよ。輝いている他人を見ると、嫉妬でも劣等感でもなく、謎の後ろめたさで心がズキズキする。自分自身に対する申し訳なさみたいなのがある。どうして自分を大切にしてあげられないんだろうって、悩んじゃうの。そこに、理想の姿になることと本質の解放が対極に位置する人間にしかわからない悲しみが合わさって、うまく言えないのだけど、大変に苦しいことよ」

「それは、君を苦しめる感情かもしれないけれど、君が誰かを苦しめる理由になり得てしまう感情ではないから、僕は、その感情自体に拒否感や後ろめたさを抱く必要はないと思うよ」

 他人の人生に口出しすることで優越感に浸ったり、自身の現実から逃げたり、自分が成し遂げられなかった願いを託したりしても苦しみからの解放への一歩になるわけではない。それに比べて、自分自身の人生についてひたすらに想い続けることは、洋介さんの言うように、恥たり、嫌悪したりするべきことではないのだろうと思った。

 同時に、洋介さんならば、自分を肯定してくれるはずだ、洋介さんが言うのならば、間違っていないはずだ、洋介さんは私のことをある程度好いているからこんなふうに話し相手になってくれるのだ、というような自己中心的な思考の芽生えを感じて、吐き気がした。

「ねえ、私ね、わかったの」

「何が?」

「洋介さんと一緒にいるとね、他者を侵食する側の人間の気持ちが、わかったの。普段の私とは反対にいて、私を蝕む人のことよ」

「つまり、僕は、普段の君の側というわけだね」
「そうよ。私、我儘になってみて気づいたわ。我儘な人間相手には、侵食しないでってお願いするだけじゃダメね。侵食させないという強い意志が必要だわ」

「僕のせいかな」

「何が?」

「君が我儘になったのは君の意思だったらいいのだけど、僕のせいかなって」

「洋介さんのおかげよ。いけないかしら」

「自分がとてつもなくいい人でいるために、「あまり良くない人」の役割を他人に押し付けてしまっているのではないか、本当に優しく器用な人を踏み台にすることで善人の座に自分が座っているのではないか。そう思う時があるんだ。厳密に言えば僕は別にいい人ではないんだけど、いい人のふりをしたがることが逆に誰かの迷惑になっているかもしれないって、不安なんだ」

「その不安が、隙にならないことを祈るわ。優しいねって言葉ほど私たちを縛る呪いはないんだから。だって悪口じゃないし、それでいて、君は優しいからと言われてしまうと、もうそうでないといけなくなってしまう。ありがとねって言われながら踏まれ続けるのよ。人に与えるのが当たり前になるなんて、そんなのはダメ。気付けない、あるいは気付いてもやめられないなんて、ダメ。別に、私が怪物のような人間になる日が来たって、それは洋介さんのせいなんかじゃない。あなたは教育の匠ではないから、ある程度どんな人間も制御できるけど、成長を促すことはできないのでしょう?私知ってるわ。それは当たり前のことよ。洋介さんは悪くない。私が未熟なだけよ」

「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。僕は君じゃないんだから。わかる?君自身の感覚と照らし合わせて不安になったりしなくていいんだよ。僕を不安にさせたかもしれないってことに焦って、自分を責めたりしなくていいんだよ。君が不安になることで、僕が幸せになるわけじゃない。連動しない。君が君を責めても、僕は君を責めない」

 洋介さんは阿呆だ。そうやって対話を美化して、私の心を温めて、癒して、そうするほどに、私は私の醜さを思い知ることになるのに。少女は苛立ちを感じた。賢い人は、都合のいい人を演じるのが上手い。そのせいで、自分が無自覚に求めている『都合』の正体が、鮮明になってしまう。満たされていく悦びに、気持ち悪さが分離不可能なまでに盛り込まれてしまって、切ない。

「洋介さんは阿呆よ」

「ありがとう」

「どうしてお礼なんて言うの?」

「阿呆とは、人間擬きのうちの最も品質の良いものにのみ与えられる名だからさ」

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