糸
先週、落語家の圓楽さんと、プロレスラーのアントニオ猪木さんが亡くなった様です。芸能界でも、ここの所、訃報が多い様な気がし、時の流れを感じます。お二人ともテレビで大変楽しませて頂きました。謹んでご冥福をお祈りいたします。
僕も40歳になった今。ふと感じ、思った事があります。思いつくまま、僕なりの言葉で綴っていきたいと思います。ちゃんとした文章になるか分かりませんが、お暇な方は、読んで頂けたら幸いです。
“糸”
人との出会いは糸のよう。
縁ともいう。
家族、友人、知り合い、職場の人、いつも通りすがるだけの人、顔見知りの人、動物を飼っている人は、ペットなんかもそうなのかな。
自分にとって、都合のいい人、悪い人も含めて、
これらは全て縁である。地縁、血縁、良縁、悪縁、逆縁等の言い方もある。
また、縁は、“育てていく”ものだとも。
情が入れば、入る程、
繋がる期間が長ければ、長い程、
縁(糸)は、深いものになるんじゃないか。
自分を繋ぐ、まるで蜘蛛の糸の様に張り巡らされたこの世界は、自分が自分である理由。
内向きに、自分の存在意義なんかを考えると、たちまち分からなくなってしまうけれど、
外向きに、縁を中心にして、考えると、自分が縁に支えられながら、あるいは、支える為に生きているんじゃないか。と思わされる事がある。
でも、それはあまりに当たり前で、いつも意識すらしない。各人思うまま、基本的には、自分勝手に(自己中心的)に生きているのである。
しかし、その自己中心的な行動であっても、かなりの割合で外の糸から影響を受けているんじゃないか。
何か自分の良心に背くことをする時、しなければならない時にためらいが出たり、
何かに怒りを感じる時、悲しみをこらえる時、自分自体というよりも、
自分の中の糸や、それまでに自分に関わってくれた人達の中から与えられた自分の良心の土台(その人達)を傷つけられたり、踏み躙られた事から来る感情ではないだろうか。
反対にこれがあるからこそ、煽られる欲に対する自制のブレーキになっているんじゃないか。
しかし、これは自分を縛る鎖にもなる。
その昔、僕の周りでは、よくこう言われたもんである。
“人様に迷惑をかけちゃいけないよ。”と。
ちなみに、仏教発祥の地、インドでは、
“人に迷惑をかけて生きているのだから、あなたも許してやりなさい。”と言われるそう。
利己的なようでいて、利他的でもある。
自己中心的で生きている事を認めつつ、その自己中心の中には、自己というものは無く、他者との関係性の上で自己が成り立っているのである。
同じ事を言われていますが、生きていく上で、ちょっと気が楽になりますよね。
糸に縛られすぎて、あるいは頼りすぎて、身動きがとれないのも息苦しいし、糸がすくなくて、不安定なのも、苦しい。
そして、今、自分を繋いでくれているその糸は、年をとるごとに、少しづつ減っていくのである。
それはまるで赤子が成長に伴って親の手から離れていくように。
糸がなくても生きていけるように、糸を自分で作っていけるように、そして自分が誰かの糸でなり得るよう。
糸は、静かに消えていくのである。
年を経るにつれ、1本、また1本と。
赤子の時とは逆に、持病を持ち、体力は落ち、目は悪く、耳も遠くなり、頭の機能も徐々におちて、孤独に向かっていくのに…である。
あまりじゃないか…、あんまりじゃないか…。
しかし、
消えた糸は、繋がっているのである。
見えないだけで、切れてはいない。
その人の事を思う時、自分の中にその人が居るのである。
いつもの顔、いつもの姿で。
“調子はどうだ?”
“元気でいるか?”と。
そう思う時、自分の中に糸を感じる事が出来るのである。
そして、こうも考えられないだろうか。
もし、”あの世“と呼ばれるものがあるのだとしたら、
”あの世“に知り合いが、1人増えたと。
いずれ再会出来るその日まで、その人に胸を張った自分でいられるよう、
あるいは、いつも通りの(情けない)自分でいられるよう、
この世で、自分なりに精一杯生きてみようと。
そう思う時、孤独ではないのである。
物理的には孤独であっても、縁(糸)に囲まれているのである。
そして、自分もいづれ、消える日が来る。
その時も、先達に続き、静かに消える事が出来るよう、
そして、こんな自分でも、誰か苦しい思いをしている時、ふと思い出して、“ホッとして”もらえる様な存在になれたらありがたい。
そして、先達に再会する事を楽しみに思う事で、“その時”に対する恐怖が少し楽になる。
“おい、そんなのあんたの妄想だろ。”と言われるかもしれない。
そうかもしれない。
事実は、親しい人が年老いて亡くなって、最後に孤独になって自分が亡くなる。これだけなのかも。
しかし、ものの考え方や感じ方一つで、気持ちが楽になる、救われる事も事実。
何の根拠もないが、僕はこう思っているのである。
ふと、町を見渡せば、結婚式場が減少し、日中の朝夕は、高齢者施設の車が走り回り、葬儀場の数が急増している、世知辛いこの国で、このどうしようもない記事が読まれる事で、誰か一人でも、“ホッとしたもの”が届ける事ができたらありがたいと、
老婆ならぬ、老翁になりかけた僕は、老婆心ながら思うのである。
最後に、その昔、祖母からかけてもらった、僕の中に残っている言葉の欠片があるので、紹介したいと思う。それは…
“大丈夫。みんな一緒だよ。”
個性や格差が叫ばれている昨今、もう死語なのかもしれない。
個人のエゴかもしれないが、これが根底にある世の中であってもらいたいと思うのである。
※本日もお疲れ様でした。社会の片隅から、徒歩より。
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