見出し画像

同情は人をさらに弱らせる

職場でも、noteでも(お別れした元フォロワーさん数名)同情をかけられて立ち上がる努力をしている人はこれまで見たことがありません。

なぜなのか?それは同情が欲しいから。
痛み苦しみを一瞬でも忘れさせてほしいからではないかと、個人的にはそう思えます。

そのような人は自分から歩み寄ったり、居場所を作ったりという解決に向けた行動を起こしません。一見行動しているなと思っても、一度の失敗で被害者モードに戻ります。

その(半分は自分がかけた)苦しみに満ちた声をあげたとき、最低ひとりは声をかけます。
寄り添われた安心感から、そのときは落ち着きを取り戻します。

しかし、時間が経てばまた戻ります。
一度の失敗という変えられない過去を現在に持ち込み、まだ来てもいない未来に怯える。

その苦しみを吐き出すことでまた誰かが来るのを待つ。
たとえ期待通りに現れて安心をいただいてもやはり行動を起こさない・・この繰り返しを延々と続けるのです。

結局は、誰も得しません。
プラスになることを願って与えても却ってマイナスになる。
わたしはこの強烈な負のエネルギーを寄せ付けぬよう、そのような人とは距離を置くことにしています。

やはり自分の機嫌は自分で取ること。
他人がしなくていいことをわざわざさせない。
このことにようやく気づいたわたし自身、
失敗に耐えられるようせめてできることとして、心身を保つ自己管理を欠かさず続けています。

できることを増やしたのはインプットもそうですが、それ以上に行動を起こしたアウトプット。そして習慣付け。

「継続は力なり」は事実として存在する。
わたし自身、この凄さを改めて認識した一日でした。
    ------------------------------------------------------------------
こんな感じで、おとといも同じような記事を書きましたが、じゃあ、抱える苦しみを自己責任という名のもとで全部ひとりで処理すべきなのか?・・そこまでは思いません。

ただ、すぐに自己判断で限界を決めず、可能なところから課題と向き合い、解決へと近づけること。そして時には客観的に見てくれるカウンセラーさんや、身近に理解者がいるなら頼る。

もちろん、最後は自分で解決させる前提で。

時には周りを頼りつつ、自分の課題は自分で解決する。
わたし自身、そうして生きづらさから解放されました。

自分の人生を他人任せにしない。
他人は一部を支えるけど、守るのは自分。
ひとつのことに一点集中より、視野を広げて柔軟に動くこと。
これがとても大切に思えます。

今後、また困難が起きたときは、自分自身にそう勇気付けるつもりです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?