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子育てに小説は不向き?

ワーママになる前、小説を読むことが好きだった。
学生時代は本屋さんでバイトしていたので、話題の新刊は社員価格で購入してたいてい読んでいたし、古典や海外のミステリーは古本屋さんで入手して、移動中や寝る前に読んでいた。

スマホが普及する前だから、やることの無い通学・通勤時間には必ず本を開いていたと思う。
小説だけでなく、マンガも。
あまりにも面白くて、下車駅を2駅も乗り過ごしたり、次が気になり過ぎて、翌日仕事があるのに遅くまで読み耽ってしまい、散々だったこともあった。

小説を読み、登場人物の心情とシンクロし、喜怒哀楽のジェットコースターを味わう。
自分とは接点のない世界の風景を想像して、その解像度を上げ、疑似体験する。
そして読後は、ホッとしたような、ちょっとつまらないような気持ちで、自分の日常に戻る。

一人目の娘を産み、職場復帰した頃から、本を手にとる頻度が減った。
子どもが眠っていても、頭の隅のセンサが常に子どもの動向を把握していて、小説に没入できない。
マンガぐらいなら、イラストが没入への誘導を果たしてくれるので、割とサクサク読めるのだけど。
小説は自分の脳みそを動員して想像力を駆使するので、私の小さめの脳みそでは、子どもセンサと同時に稼働させると、メモリが足りなくなってしまう。
集中できず、面白みが感じられなくなってしまい、自然に小説を手に取らなくなった。

代わりに育児のハウツー本とか、ビジネス書のような実用書ばかりを読むようになった。
こまかく章立てされているので、集中できる時間が短くても問題にならないからだ。

もう一つ、気づいたことがある。実用書は心が乱れることが無い。
小説は時々、心にガツーンと来るタイプのものに遭遇する。
そうすると、大げさではなく2、3日、人として使い物にならなくなる。湊かなえさんの本とか。
考え込んでしまったりして、日常生活に支障をきたしてしまう。ご飯を作りたくなくなったり。

そういう心の乱れは、分刻みでスケジュールをこなすワーママの生活には不向きなので、小説を読まなくなった。
同時に、音楽やアート系のものからも、子ども向けの教育視点のもの以外からは、心が離れていった。

いつのまにか、きれいだな、とか、せつないな、みたいな、繊細な感情の変化をなるべく感知しない方向で、常に元気で強くあれ、痛みに鈍感であれ、と自分に課すようになったように思う。
ゆるぎなく強くて明るい、実用本位のサイボーグみたいなワーママにならなくては!と勝手に思っていた。
職場で活躍している先輩ワーママ達は、皆そのように見えたし。
直感とか、感性とか、そんなものはかなぐり捨てて、常に平常運転ができることこそが正しい!みたいな感じ。

心の揺らぎを無視し続けた結果、自分が何が好きで・嫌いだったか、忘れてしまった。
本当に分からなくなってしまっていた。

その成果が裏目に出てしまったのか、たぶん微弱なSOSをずっと発信し続けていた娘の変化に全く気づけず、不登校状態になった時も元気の押し売りを繰り返していた。
当時、娘からは母は鈍感で、全然わかってくれない、話が通じないと思われていた模様。

私自身、その状態が自分にとって望ましいのか?というと、違うなぁ、と。
気楽かもしれないけれど、むなしさみたいなものを感じてきた。
そこで行動を変えようと、本屋さんや図書館に行ってみたのだが、昔のようにわくわくと小説を探したり、集中して読んだりが、できないのだ。

今もまだ、かつての感性は復活できていない。
ゆっくりとリハビリのように、本来の自分を思い出している。

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