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靴擦れ

 夕方、僕は母親に下着から透けた乳首を見られた。
 その日何かあったわけでは無いが、ジワジワと謎の嬉しい気持ちが昂ってきたのを感じていた僕はいてもたってもいられず外に散歩に出ようと唐突に思い立った。長袖の白い下着の上にジャージを着、ジーンズを履いて揚々と外に出ようとしていた時だった。
 その日は雨が降ったり止んだりを繰り返しており、春というのに空気が非常に蒸し暑い気がしていた。その事に僕は玄関で気付いたが靴を履いてしまった手前部屋まで戻るのが非常に面倒に感じた。
 その時履いた靴は新しく買った靴で、紐が1m程もあり、まずその長い靴紐を足首に巻く、ちょうど良い長さまで巻くと、最後に余らせた紐で蝶々結びをするという非常に履き脱ぎが大変な異様な靴であり、買ってから4.5回ほど履くと、半コレクション化されてしまっていた靴だった。そんな靴を久しぶりにその日は履きたいと思ったのだ。その為僕は玄関からリビングにいる母親を呼び下着をtシャツに変えたいと、そのtシャツを持ってくる様にお願いしたのだった。持ってきてもらったtシャツを着る為、僕は母親の目の前でジャージを脱いだ、その時、母親は僕の胸を見て一言「乳首が、、、」と言った。それは母親からすると唯の親子のおふざけであったのかもしれない。しかし僕は違った。そこに憤りを感じてしまった。何故わざわざ乳首を見る必要があるのか、口に出す必要があるのか、そんな事が頭から湧き出てきてコンマ数秒で頭が一杯に満たされいった。気付けば僕は口が出ていたのだった。それは非常に強い口調であった。母親は僕が何故こんなに僕が怒るのか困惑していただろう。それでも何かを感じた彼女は「下着が薄すぎるんだよう」と、自分でもそれを言った所でどうにかなる訳のないと分かってる検討はずれな言い訳(下着は本来薄い物だろう)をただ咄嗟に一言言って立ちすくんでいた。その時僕は何故今から外に出るのか、それがわからなくなっていた、その代わりである怒りの様な物で頭が一杯になっていたからだ。僕は、とにかく出なければ。とイアフォンを耳に突っ込む様に付け、立ちすくんで心配そうな眼をしているいる母親を背ににドアを勢いよく開けようとした。しかし内鍵がうまく回らず、そのまま進んでいた身体がドアにぶつかった。それにより僕は少しの恥ずかしさといらつきを更に感じながらも鍵を丁寧に開け直し、まだ冬の暗さを残した生ぬるい春の夕方へと逃げる様に飛び出したのだった。
 自分の琴線の様な所に触れさせてしまった。苦笑いすれば良かったのだ。しかし僕にはそれが出来なかった。怒ってしまった。早足でマンションの廊下を歩く。履き慣れない靴が足を締め付ける。怒りの琴線を相手に触れさせてしまった。母親は今後一切僕に対して乳首の事は話さないであろう。そんな風にさせる雰囲気を僕はあの時出していた気がする。「何をこいつはそんなに怒っているんだ?あぁ、こいつは過去にこの言葉、物に何か悪い思い出があるんだな?仕方ない地雷を踏んでしまったんだな。あぁ仕方ない仕方ない。ははは」一種嘲笑の混じったこんな気持ちを普段他人に向けている僕はついにはその錆び付いて腐敗しきった剣を自分に向け、腹をジリジリと一文字に切り裂いていくのだった。何という不快感だろう。それらの、自分でも気付かなかった心の奥底の見える井戸を自分だけではない、偶然通りかかった母親と(蓋の鍵を持っていたのは母親だ!)蓋を開け覗いてしまった。その何とも言えない恥ずかしさは怒りとは別にまた僕の心を酷く苦しめた。
 外に出てすぐ煮え切らない心を鎮めようと目の前にある公園で煙草を吸う努力をした。しかし出て気付いた外の空気、イアフォンから流れる音楽、吸っているはずの煙草、その全ては僕には無だった。僕の心は謎の怒りで一杯だった。しかし、僕は気付いていたそれは中身の無い怒りだという事を。
 僕はその頃女性ホルモンの錠剤を家族には内緒に服用していた。これ以上男性の様にになりたく無い、その一心で始めた個人での治療のつもりであった。乳房も女性化し少しの膨らみを持ち始めていた。乳首が普通の男性よりも大きく黒くグロテスクになっていたのもその為であったし、それを望んでいる自分もその頃の自分であったに違いなかったのだ。ただそれを見られてしまった。隙を見せてしまったのだ。全て自分が悪いのではないか、、、その時公園全体の木々が鳴った。強い風が吹いた。僕は思った。この生ぬるい風は何だ!寒さを運ぶでも無い中途半端な風!辞めてくれ、精神がざわつく。それがつくり出す居心地の悪い中途半端な空間!辞めてくれ。これは誰もがそこに居れば感じるであろう体感だった事は間違いなかったであろう。そして本来であればそれだけで終わっていたであろう。しかし今ここにいる僕!そこには中途半端な生き物が一匹。それがその中途半端な気持ちの悪い空間を完成させる為のエッセンスとなってしまったのであった。「あぁ完成してしまった」全てが完璧に調和してしまったのだ。傑作だ。その感覚が、風が、僕を気持ち悪さに生きる物に変容させていった。何という寂寥感だろう。生暖かい風に背中をなめられた。それは気持ち悪いもの同士の、生き物を超えたもの同士のまぐわいだった。それは心地良くなんとも言えない気持ちを感じていたが直ぐに僕は恐ろしくなって正気を取り戻したのだった。気付くと怒りは消えていた。早く家を出なければ。僕は当てもないままただそう思うのであった。
 ベンチから腰をあげ身体を前に進めた。進め、進め、なにも考えたくなかったのだ。その反動が身体を動かした。その散歩は動きでしかなかった。何も考えず、また公園から逃げる様に僕は近くの駅までの道を移動していた、まだ背後では木々が低く鳴って、僕を求め呼んでいる気がした。
 大通りに沿って坂を下ってしばらく歩くと見えてくる川の上の橋を少し上がると駅に着いた。その時初めて今日は家に帰りたくないと僕は「思った。」
駅の明かり、駅に入ってる店の明かり、いつもと違う。全てが眩しい様に感じた。暗いところが良い、此処は物事がハッキリし過ぎている。このまま電車に乗ってどこかへ行ってしまおうか。しかし電車は明るい。あの青白さを含んだ清涼な明るさ。それが今は嫌だった。明るいところには居たくない。雨が降り出した。野宿が出来ない。そう、雨もどこかに泊まるお金なんて持ち合わせていない僕を家へ帰そうとするのであった。この世は社会は曖昧を容認していないのだ。白か黒だ。男か女だ。中途半端ではいられない。僕は感じる。あの家だってそうだ。居心地は良い。だが明る過ぎる。出なければならない。すぐに出なければならない。見つかる前に。しかし見つかる前とは何だ?悪い事なんてしていないじゃないか、僕はただ、、、ただなんだ?もう一人の僕が自分に問う。
 答えたくない。
 僕は道を引き返し駅を背にして雨に濡れながら帰った。そうだ僕はいつだって行ったきりだ。帰りの事なんて考えてない。馬鹿だ。馬鹿者だ。馬鹿者らしく何も考えるな。進め。進め。
 家に帰ると変わらないいつもの母がいた。足は靴擦れを起こしていた。

2023/4/8土曜日

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