子どもは印刷機とともにやってきた
文字が生まれる前、人びとの情報伝達は口伝によるものだった。
生きていく上で大切なことは、村や集落にいる物知りの古老がいて、話し言葉で伝えていただろう。
その後、文字が生まれると相対的に古老の存在意義が弱まっていく。
文字に残しておけば、古老に聞かなくてもわかることが増えるからだ。
そして、15世紀、グーテンベルクが活版印刷機を発明し(諸説あるらしいが)、時代は本格的に「口伝」から「書物」へと変化していく。
知識や情報は本によって、広く、そして速く伝達することが可能となった。
こうなると、文字を知っていなければ世界のことが何もわからなくなる。
そうして、子どもは文字を学ばなければならなくなった。
これが、子どもが学校に行くようになった理由であるとニール・ポストマン(アメリカの作家、教育者、メディア論者、文化評論家、元ニューヨーク大学教授)は指摘する。
そしてテレビが誕生すると、今度は逆に文字で綴られた書物の存在意義が少しずつ弱まっていく。
テレビからの情報は大人も子どもも関係なく「見れば」わかる。
特別な教育や訓練はいらない。
次第に大人と子どもの差異は縮まっていく。
それでポストマンは「子どもはもういない」と言ったのだ。
今ではインターネットが世界中に普及し、個別に情報が得られる端末(スマホなど)が子どもでも当たり前に使えるようになった。
当然、子どもがいない状態に拍車がかかってくる。
これは、かつてのように大人だけの秘密がどんどん減っているということでもある。
大人にならなければ知り得ないことが減ってくれば、子どもは大人を同等の存在として見るようになる。
そして、大人から強制されることに対する抵抗感が次第に強まってくる。
このように、世の中で何かが発明され、新しいシステムが構築されるたびに子どもを含めた人びとのものの見方や、人間関係のあり方が変化していく。
にもかかわらず、今でも「モノ」はあくまでも「モノ」に過ぎず、世の中の本質的な部分には影響しないと考える大人が少なからずいる。
そういう大人は、「そんなものは所詮、流行にすぎない」と軽視する。
時には、新しいものを取り入れる若者を非難したりもする。
印刷機が発明されたときと同様、こうした「モノ」が世の中の文化や価値観に影響を与えないはずがないのに。
今、情報端末の進化は、世の中を大きく変えた。
そして子どもの意識も変わった。
それでも、大切なことは何も変らないと、これまでと変わらない態度で子どもに接する。
これはとても危険だ。
私たちが教育の本質を見つけようとするなら、変化を変化として冷静に受け入れた上で、今、ここで大切なことはなにかを考えなければいけない。
社会の状況がどんなふうに子どもに影響しているのかに敏感でなければならない。
矛盾するように聞こえるかもしれないが、私は「教育にとって最も大切なこと」は、どんな時代にも存在すると思っている。
口伝の時代にも広い意味での教育はあったはずだし、そこで最も大切だと考えられていたことも存在しただろう。
けれども、大切なことの中身は絶えず変化を続けてきたのだ。
日本では、近代の学校が生まれて、たかが150年。
人類の歴史からすれば、ほんの一瞬だ。
そんな短い時間で、すべての時代に通用する普遍的なものが確立されたと考える方が不自然だ。
私たちは、どんな時代にあっても、今、子どもたちにとって何が最も大切かを考え続けなければならない。
その感覚を持たない教師や学校は、次第に子どもたちに見放されていく。
不登校30万人という事実は、そのことを如実に顕している。
参考:内田良(2023)『教育現場を「臨床」する』慶應義塾大学出版会
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