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立って迎え、立って見送る

月に1回、かかりつけ医に通っています。
主治医のY先生は物腰がやわらかで、いつも自然体です。
相槌の打ち方が絶妙で、私の話を途中で遮ることは決してありません。
しっかりと受け止めてくれているのが伝わってきます。
そして、私が話し終えるのを待って、ほんの少しの「間」(ま)を取った後(この間が実に心地いい)、ゆっくりと、そして静かに私の診断をしてくださいます。

診察時間はほんの5分か10分ですが、とても気持ちが落ち着きます。
また、Y先生は、診察室に患者を迎えるとき、必ず立って迎えてくださり、診察が終わったときも必ず立って見送ってくださいます。どの患者さんに対しても同じです。

私は、これまでにいろんな病院に行きましたが、立って迎え、立って送り出す医師に初めて出会いました。
多くの場合、病院の先生は最初から最後まで座ったままです。
中には、診察室に入った私を見ない方もいます。
ほんのちょっとしたことですが、これだけで患者側からすると自分は本当に大切にされているんだなあと実感できます。

昔、ある先輩の先生に教えてもらいました。
「職員室でプリント一つ配るのも、机の上に向きや位置を考えて置きなさ い。直接手渡すときはできるだけ両手で渡しなさい。誰にでもできることです」
若いときは、「そんなこといちいちできませんよ」と心の中で思っていましたが、ようやく最近になってその大切さがわかってきました。
こうしたちょっとした一つ一つの所作が「私はあなたを大切に思っていますよ」というメッセージとなって相手に伝わるのです。

こんな話もあります。あるカウンセラーのコラムにあった話です。
担当していたクライエントから突然キャンセルの電話がかかってきました。カウンセリングは順調に進んでいると思っていたので驚いて理由を聞いたところ、次のように言われたそうです。
「先生は私の話を聞いてくれない」と。
そんなはずはないと思ったのですが、次の言葉で納得がいったそうです。「私が何か言いたいと思っても、言える間(ま)じゃない」。
そのカウンセラーは、その経験を踏まえて次のように述べています。

「私たちの“聴いているつもり”がそのままクライエントに同じように感じ取られるとは限りません。“つもり”はあくまでも“つもり”にすぎないからです」。また、人と人との対話の中では「語られている言葉そのものよりも、その背後にある気持ちのありよう、その語られ方、そこでの間の取り方」が「渾然一体」となって重要な意味を持つのです」

桑原和彦「雰囲気の言葉」(『こころの日曜日』菅野泰蔵編 法研 
平成9年、46-47頁)


もともと「寄り添う」とは、「からだをすり合わせるように、そばへ寄る。すぐ近くに寄る」(日本国語大辞典)という意味だそうです。
最近では体だけでなく心を相手に近づけ、相手の気持ちを十分に汲み取る姿勢として使われることも多くなりました。
「ブラック」と言われるほど忙しい学校現場ではありますが、子どもたちに掛ける言葉や、ちょっとした「間」、何気ない所作を見直すことにさほど時間はかかりません。
それらは「自分のことを大切に思ってくれている」という安心感として必ず子どもたちに伝わります。そのとき初めて、私たちは子どもたちに寄り添うことができるのだと思います。
そして、こんなことを言う人もいます。

「愛とは、相手(対象)が相手らしく幸せになることを喜ぶ気持ちである。 欲望とは、相手(対象)がこちらの思い通りになることを強要する気持ちである」

泉谷閑示(2006)『「普通がいい」という病』講談社現代文庫、146頁

「寄り添う」の本質はここにあると思います。


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