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当事者にしかわからないことがある

昨日、NHKで死産や流産に苦しむ女性を取り上げた番組を見た。

何年もかけて不妊治療を行ってきて、ようやく授かった子が死産となった悲しみは計り知れない。

けれども、その当事者の苦しみはそれだけではない。
周囲の声が、苦しみややるせなさを増長するというのである。

職場に復帰したとき
「あら、意外と元気そうでよかった」
と、声をかけられてかなりショックだったという人がいた。

声をかけた方は善意で言っているのだろう。
けれども、「あなたの気持ちはわかってますよ」という善意の押し売りほど相手を追い詰めるものはない。

そんなもの、経験したことのないものにはわかるはずもない。
また、同じ経験をしていたとしても、それぞれに苦しみの中身や重さは違うはずである。
要は、そういうところに想像力が及んでいるかどうかが重要なのである。

わかりもしないのに「わかってますよ」と言う人は、そうした想像力に欠けた人なのである。

「うつ」や「適応障害」も同じである。
他からははっきりと目に見えるものではないし、どんな検査をしても数値化されることはない。
だから、「怠けている」とか、「あんなもの、医者にそれなりの症状を訴えれば簡単に診断書は出る」と考えている人のなんと多いことか。

「うつ」は、時間が止まるのである。
止まった時間はしかし、どんどん深いところに穴を掘っていくかのようにその人を暗闇に引きずり込む。
人に会うことはもちろん、目の前のコップを取ることさえもできなくなることもあるし、まっすぐに立っていられなくなることもある。

しかし、最も「うつ」の人を傷つけるのは周囲の偏見である。

人間なんて、そう簡単に理解することなんてできるはずがない。
理解できないことを前提にするからこそ、信頼関係は築けるのである。

「俺はわかっているよ」
こんな残酷な言葉は他にない。

必要なのは、話せるときがくるまで、そっとそばにいてくれる人なのである。

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