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うつとストレスと私の格闘

 今回はちょっと重たい内容です。

 私には精神疾患を患っている友人がいます。彼らから「なぜ治ったのか?」と聞かれたことがありました。

 私は主治医ではなく、なぜ自分に聞くのと思いました。でも違うんですよね。私は専門家に相談できる彼らの環境を幸運だと思っています。

 誰にも相談を許されず自力でどうにかしなければいけなかった私の状況より、彼らもまた、自力でどうにかしてしまった隣人の幸運を見ていました。

友人たちとの共通点

 私が彼らと出会ったのは、とある福祉施設でした。施設では、主に引きこもりや精神疾患者などの社会復帰を支援しています。

 料理やダンス、音楽など、それぞれの活動を大学の授業のように割り振り、利用者はやりたいものを選ぶというシステムです。その中に、自己理解というカリキュラムがありました。

 私は20代の前半を、うつのような状態で引きこもっていました。うつ、と言い切るのではなく、ような状態としたのは、専門家ではない私の自己判断だからです。

 社会復帰をした後も、私は同様の状態を繰り返すことがありました。その経験から内観の重要性をさとったのです。

 私は内観が苦手です。自分の感情や本音がわからないなんてザラにあります。うつのような状態になったときも、自分が異常だとは理解してもどのように異常なのかはわかりませんでした。

 また、ストレスが原因だということは割と早くから気づいてはいましたが、何がストレスになっているのかを突き止めるのに苦戦していました。

 いわゆる、一般的なストレスの原因である「人間関係」や「仕事」などが当てはまらなかったのです。

 自分のことが理解できるようになってくるまで、内観に努めてから3年ほど要しました。私がその施設を利用したのは、そういう経緯から自己理解を学ぶ場を探していたからです。

 友人たちはまた経緯が異なります。ひとりは相談員さんから勧められたのがきっかけだそうです。人と関わるのが好きで、むしろ、ひとりが苦手だから人に依存してしまう傾向がありました。

 もうひとりは社会復帰を目指して利用し始めたそうです。いきなり働くのは怖い、だからワンクッション置いて少しずつ社会に慣れることを目指していました。

 自己理解だけが目的の私や、勧められるままに遊んでいるもうひとりよりずっと施設の目的に沿っています。

 同じ施設を利用していた私たちは、日を重ねて少しずつ仲良くなっていったのでした。

 半年後、自己理解のカリキュラムがなくなったため、私は施設を出ています。現在は施設からLINEでの繋がりに変わりました。

私が立ち直った経緯

 私は、なんらかの精神疾患だったことが2度ありました。何かは知りませんが、精神疾患だというのはほぼ確定として判断してもいいと思います。

 1度目は10代中頃です。思春期により体が大きく変化しました。当時の私は、昼夜逆転、拒食、幻聴、情緒不安定など、それはそれはボロボロの状態でした。

 学校には辛うじて行っていましたが、それは家に母がいた影響が強いでしょう。彼女は、私が精神疾患の可能性があると相談しても受け流し、私を追い立てて学校に行かせたのでした。

 正直、子どもとしての私は最低な大人だなと思いました。でも当時、精神疾患というのは認知し始められた頃で、まだまだ誤解の多い時期でした。

 母は私を心配しなかったわけではありません。ただ理解できなかったのです。

 そんな私の状況をカンダーリーだと思うほうが受け入れやすかったのです。知人を辿って、プロの方に見せてもらった結果、すぐに勘違いだと判明しましたが。

 プロの方のほうが私を理解していたように思います。「この子は人よりちょっと感受性が強いのよ」と、まとを得た話をしてくれました。

 それでも母には理解できなかったようでした。理詰めで感情論を嫌う私は、彼女の中で冷血な鬼畜と認識されていたのです。その後も見当違いの心配を繰り返していました。

 この時は、高校に入学して家を離れると改善されました。おそらく、原因の半分は母だったのだと思います。私は最後まで母と健全な関係を築くことができませんでした。

 次は、社会人になってからでした。仕事に就いても半年も続けられないのです。

 仕事に行くとやたらと疲れ果て、休日を休息のために目一杯使っても疲れが残り、どんどん状況が悪化していきました。

 やがて、仕事をすることに慣れると、少し伸びましたが、やっぱり半年も続きません。何度か、仕事を辞めた私は、働けない人間なんだと自分に失望します。

 それが、トドメとなりました。これまで何となく生きていた私はこれ以上どうやって生きていけばいいのかわからず、死ぬにはどうしたらいいのか考えるようになりました。

 転機は不意にやってきます。どうして私は生きているんだろうと考えたとき、神様に生かされているからだと結論を出したのでした。

 私はヒヌカンを信仰しています。敬虔な信者ではありませんでしたが、気が向くと、「いつも見守ってくださりありがとうございます」と手をあわせていました。

 また沖縄にはトートメー信仰というものがあります。家の中に仏壇を置き、お墓代わりに手をあわせる習慣がありました。

 実は、学生のときも、仕事をしていたときも、私は何度も死にかける体験をしています。それは特別なことではなく、冷静に考えたら当然のことです。

 ストレス、疲労、眠気、注意散漫、情緒不安定、と私はまともな状態ではありませんでした。信号の意味すら理解できなくなり、車が迫ってくるのもわかりません。

 何もないところで転ぶなんて日常茶飯事で、階段から転げ落ちたり、車の前に出てはクラクションを鳴らされて叱られてしまったり、それが私の毎日でした。

 怪我の絶えない日々でしたが、幸運にも救急車を呼ばれるようなことはありませんでした。それが神様のおかげなのかはわかりません。

 でも、私が死ねないのは、この世界に生かされているからなのかもしれないと思ったのです。

 それからです。生きる覚悟ができました。たとえ生きられなかったとしても、最後まで足掻こうと決めたのです。死にたくても生きてるという現状にヤケクソだったのかもしれません。

 一度目は、偶然の幸運によって改善しましたが、今回もそうとはいきません。家族は他所に相談したりなんてしないし、干渉はあくまでも自分の経験による素人の浅知恵です。

 「か弱いフリするな」と私を叱り、どこからか仕事の紹介を持ってきて無理矢理働かせたりしかできません。きっと、私が仕事につけるよう方々にお願いして回ったのでしょう。それが彼らなりの心配であり思いやりなのです。

 心配は有り難いですが、私の状態が理解できないなら、余計なことはしてくれるなというのが正直な気持ちです。頼るなんてできませんでした。

 そのとき、私は寝床の住人と成り果て、ほとんど起きられなくなっていました。それでまず、起きようとしたのですが睡眠が邪魔します。

 私が初めにやったことは、自分の睡眠と向き合うことでした。朝型と夜型どっちなのか、何時に起きるのが活動しやすいのか探っていきます。

 起きる時間を定めた次は、起きて活動することを繰り返しました。やることは全部当たり前のことです。ご飯を食べて、入浴し、身だしなみを整えます。

 その当たり前のことが今までできない状態でした。最初は食事どころか、水を飲むので精一杯だった日もあります。起きて10分するともう疲れてしまって寝床に戻った日もありました。

 「休職中はのんびりしないで忙しくしているほうがいい」と何かで目にしました。忙しくなんてとてもできませんでしたが、私は動ける限り活動しました。

 やがて、少しずつ活動時間が伸びてくると、私は外に出るようになりました。散歩です。目的地は図書館にしました。読書が趣味だったからです。

 図書館に行って、本を立ち見して帰る、ということを繰り返しました。もちろん、疲れたときは無理せず途中で引き返します。

 ときには、起きても動けず、「何で動けないの」と寝床で亀のようにまるまりながらボロボロ泣いている日もあります。辛かった私は趣味の読書に現実逃避していました。

 当時の私が挫けそうになるたびに読んでいたのは香月美夜の「本好きの下剋上 〜司書になるためには手段を選んでいられません〜」です。

 主人公の奮闘を見ては、生きるというのはこういうことだ、負けないというのはこういうことだ、と自分を励ましていました。

 やがて、図書館で本を借りて読んだり、家族と出かけたりできるまでになり、社会復帰を果たしたのでした。

 しかし、仕事はまだ半年も続きません。友人たちから見た私は治っているようですが、実際はちょっと違います。改善した、または立ち直りが早くなったが正しいでしょう。

 もともと、職人気質だった私は、この1年以上にも及んだ試行錯誤と地道な努力が性にあっていたようです。その後も同じ状況になるたびに、立て直す速さが上がっていきました。

内観に行き着く

 私はなぜストレスを溜め込むのでしょうか。学生のときは、家族が原因なのだと思っていました。

 しかし、あれから家族との関係には注意を払っています。2度目の社会に出たとき、家族は関係ありませんでした。

 仕事や人間関係が原因なのか、ということも考えました。しかし、ブラックもホワイトも、サービス業も事務系も、職場内の人間関係が円満でもトラブルがあっても、やっぱり関係なく仕事が続きません。

 病院に頼ることも考えたことはあったのです。でも、病院は専門が分かれ過ぎていて、何処に相談したらいいのかわかりません。

 とりあえずと選んだ心療内科の先生は、「うつじゃないと思うんだけどなぁ」といいます。いや、うつかどうかなんてどうでもいいから、私の状態を改善してくれないか、というのが本音です。

 とりあえず、とよくわからない薬を処方されたのも不快でした。何の効果か確認できないし、副作用ばかりが目立つのです。

 このときの経験は、私の病院嫌いと薬への苦手意識を悪化させました。自分で自分の状態がわからないのに、専門家を頼るなんて無理な話だった、それが私の結論です。

 もう少し冷静になってからは、情報収集に問題があったのだと気づきました。私はデータを集めるのが下手です。顕著になったのが病院でした。

 メンタルが弱いのか、と精神力をつける方法を調べたこともあります。ポジティブ思考や楽観視など、いろんな情報を見ていきます。

 行き着くのは必ず内観でした。つまり、まず自分を理解していなければ心を整えることはできないのです。

 内観の重要性を知ったとき、「この子は人よりちょっと感受性が強いのよ」と言われたことを思い出します。

 家族も理解していませんでしたが、結局、私自身も自分をわかっていなかったと気づきました。

過去とパンドラの箱

 内観をするために、瞑想やら日記やら試した結果、私は自分の記憶を掘り起こすことで自分と向き合いました。

 瞑想も日記も、自分の本音がわかれば効果があるのですが、逆に本音がつかめなければ堂々巡りをしてしまいます。

 今まで自分に無頓着で、ストレスがたまっても気付かなかった私に、それらはとてもハードルが高かったのでした。

 過去と向き合うきっかけはフロイト心理学です。心理学界の三代巨匠ユング、アドラーを超える一番の有名人です。彼の考えは2人に比べると、書籍やネットの情報が豊富で目につきやすいのでした。

 現在から過去を見る、を私は実践しました。記憶の中には無自覚のトラウマが存在します。トラウマを発見することをパンドラの箱を開けるというらしいです。

 私はパンドラの箱に出会うたびに泣きながら過去と向き合いました。専門家によるとこれは素人がひとりでするのは危険な行為だそうです。最悪、自死に至ることもあるとかなんとか。

 私の場合は、20代の前半で生死に四苦八苦していた経験が守ってくれました。記憶に傷つくたびに、たとえ生きられなかったとしても、最後まで足掻こうと決めたことを思い出しました。

 しかし、私は別にパンドラの箱を開けるために記憶を掘り返していたのではありません。瞑想も日記もジョハリの窓も価値観の洗い出しもマインドフルネスも何もできなかった私は、過去から自分を知る手がかりが得られないかと思ったのです。

 ポイントは感受性が強いのはどういうことかです。国語の感想文や美術の感想画に対する評価が比較的高かったということから始まり、味だけでなく音やニオイにも好き嫌いがあるとか、やたらと泣き虫であるとか…… 。

 私は時間をかけて、自分の中から点を探していったのでした。それが線で繋がるようになり、成果が見え始めるようになったのは、割と最近の話です。

 また、副次的な効果として、私は傷ついた自分の労り方や、性格による特性などを知ることができました。

 自分の本音が見えるようになってきたので、今では日記をつけたり、価値観の洗い出しなども少しずつできるようになっています。ただ、瞑想だけは、じっとしているのが苦手で諦めました。

努力が自信に繋がったとき

 武田友紀の「「繊細さん」の本」を読んだとき、私のしてきたことは間違っていなかったと自信になりました。

 私が、感受性に強かったり、ストレスをためこみやすいのは五感が繊細だったからです。それについてまとめられた本が武田友紀の繊細さんシリーズでした。

 私がHSPであるのかどうかはわかりません。本によると、脳機能によるものらしいので、自己判断は難しいのではないでしょうか。

 重要なのは、繊細な五感をコントロールするという意味で、この「繊細さん」シリーズはとても役に立つということです。

 味を最小限にとっぱらった粗食、耳を癒す水の音、服によって肌を空気から守り、眼鏡で見えるものを調整します。

 「疲れる」がなくなる、ということはありませんが、疲れたと気づいたとき、または疲れないように体を労る方法が似ていました。

 私が身につけてきたことは間違っていなかったんだと、嬉しく思ったのです。現在は、生活習慣によって心を整えることができないかと、樺沢紫苑の「ブレイメンタル強化大全」を読んでいます。

 私は不調になったときの立ち直り方を知りました。内観による自己理解も覚えました。心や五感の労り方も身につけました。次は、予防を身につけたいと思ったのです。

 メンタルが強い人たちは、予防にとても気を使います。一方で、精神疾患と病気の予防方法は同じだそうです。健康に気を使うと、ストレスにも強くなると知りました。それを今、試している最中なのです。

 また、今は精神科の先生にも診てもらっています。もうひとりで手探り試行錯誤しなくても、相談に乗ってくれる専門家がいます。大変心強いです。

 以上これが私の実態です。友人たちへの回答になるでしょうか?


・カンダーリーとユタ
カンダーリーは沖縄の方言で、神様からの啓示とかそんな感じです。ユタはイタコなどのシャーマンと同一にされることが多いです。沖縄では「医者半分、ユタ半分」といわれ、お医者さんと同じ扱いで相談しています。また、ユタになるときカンダーリーがあるといわれています。調べてみたら、不幸に次ぐ不幸の連続で、これは呪いのほうが正しいのではないかと私はドン引きしました。
・ヒヌカンとトートメー
沖縄の郷土信仰です。家の神様であるヒヌカンは何となく祀っている人も多いです。うちもそうでした。トートメーは先祖崇拝といわれていますが、家の中に置いたお墓みたいな感じです。でも、お墓はちゃんと別にあります。信仰は故人への気持ちに寄りけりですね。私は身内が好きなので、真剣に手を合わせて冥福を祈るようになりました。

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