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日がな一日、だれかと、本の話がしてみたい

六月十四日

よく写真を見ると学者や作家は万巻の書棚をうしろにおちょぼ口をしたり一点をカッと𥊫めたりしてすわっているのを見るが、いかにもしらじらしい気がするので、あるとき写真を求められ、どうです、ホントのところをとってみたらと、自分の好みを説明したところ、カメラ・マンのひとことでしりぞけられた。
「いけません」
という。
「何故?」
と聞くと、
「日本の部屋で写真にふとんを入れると、きまってエロかグロになるんです。そうでなきゃ病人か。どちらかです。西洋のベッドみたいに家具になりきってないんです」

開高健『ALL MY TOMORROWSⅠ』「心はさびしき狩人」(角川書店)

正午起床。緑茶、アーモンド、チョコ。このごろ寝つきが悪い。また近々昼夜が逆転するかもしれない。引っ越せば多少体調もよくなるだろう。爺さんんへの殺意だけでも大変な重荷になっている。こんな重荷を背負いながら毎日書いたり読んだりしている俺、マジでえらい。そもそもジジイを殺してないだけでも聖人。憎むことでいつまでもあいつにしばられないで、は中島みゆきの詞だったか。ほんとうはこんなジジイ、そっこく忘れたほうがいいんだ。奴について考えるだけでも脳細胞が汚染される気がする。「サタン」という観念はきっとこんな強烈嫌悪の念から湧いてくるんだろう。このヤニカスジジイはいずれ終わりなき<紫煙地獄>に堕ちるだろう。密室で一日中他人の吐いた濃厚な煙を吸わされて呻き続けるのです。ダンテとしての俺はベアトリーチェの案内でその様子を遠くで眺めながらせせら笑うことになるだろう。ああ「地獄」という観念が存在している理由もわかった。嫌な奴を殺さないためには、こんな「観念による復讐法」が必要なんだ。

カンタン・メイヤス―『有限性の後で:偶然性の必然性についての試論』(千葉雅也・他訳 人文書院)を読む。
さいきん読んだ「哲学書」のなかでは群を抜いて面白かったし、参考にもなった。「祖先以前的言明」「相関主義」「非理由」「事実性」「隔時性」といった概念は思索上利便性が高い。「物自体」の認識を不可能だとするカントの批判哲学が却って「宗教的信念」の余地を残す結果となった、という皮肉な事態について論じる手際は見事。原因と結果をめぐる「ヒュームの問い」の取り扱いかたは何度か読み返さないと掴めないと思う。僕としては、彼が、「なぜ無ではなく何ものかが存在しているのか」という問いを単なる偽問題として片づけないあたりに、「好感」を持った。彼はこの問いについては、「なにかに究極の理由などは存在しない」と応答すべきだとする。「無から存在が到来した」という前提そのものが「形而上学」なのである。決して思惟対象にはなりえない「無」など「存在しない」のだ。私もそんな「無」は退けるべきだと考える。方法はぜんぜん違うが、ベルクソンもそんな「絶対純粋の無」を失効させようとしていた。カントールから借用した「超限数」という概念を存在論と絡めたりするあたりは熟考を要する。
訳者の一人である千葉雅也は、中年期にさしかかったゲイを主人公にした小説も書いている。「本業は何ですか」なんて質問は糞くらえだ、という感じがいい。僕もそうだから。

高橋源一郎/斉藤美奈子『この30年の小説、ぜんぶ:読んでしゃべって社会が見えた』(河出書房新社)を読む。
現代日本小説の積極的読者ではないが(ないだけに)、さいごまで大いに楽しめた。名にし負う読み巧者同士の対談だけに鋭い洞察がところどころに見つかる。斉藤美奈子の手厳しさはいくぶん抑えられているようだった。ちなみに彼女の『文章読本さん江』は傑作である。高橋源一郎の女性作家推しにはどこか「贖罪的」なものを感じやや辟易した。あと、これだけ長く論じながら、星野智幸や島田雅彦の名が一度も出てこないのが不思議だった。星野の『俺俺』なんか平成の「労働疎外」を戯画的に描いたものとしては上出来なほうだと思うが。まあ誰にでも贔屓や好みはあるからね。まして実作者となるとさらに嫉妬なんかも絡んでくる。日本人(若者)の「動物化」という観点はなんとなく頷ける。ニートはともかく、引きこもりに関してはむしろ「植物化」といったほうが適切かもしれない。「生存そのものが苦役」だという人々がねんねん増えている実感がある。ひところSNSを中心に「反出生主義」が話題になって、読んでもいないベネターやショーペンハウアーを云々したがる連中が多くいたが、それも偶然の出来事ではない。「親ガチャ」という言葉が流行したのも、それが、ひじょうにしんどい人たちの琴線に触れたからだ。「自己責任」という呪いを解除するのに格好だったからだ。「もううんざりだ、このうんざりの原因はお前らみたいな糞親のせいだ」と暴発寸前の人々が世の中にはなんと多いことか。「この問題」を扱った小説としては、田口ランディ『コンセント』が欠かせない。小山田浩子と綿矢りさが気になったので今度いくつか読んでみるつもりでいる。
本の愛人、いや奴隷として、俺もいつか、頭の切れる人とこんな対談をしてみたい。まあ俺はこの二人ほど多読家ではないし、多読家になろうともしていないのだけど。

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