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この不快感、ブルーマウンテン、直截的、「死刑囚」八〇億人、どうにもならない隣人、とかく人の世はすみにくい、

十月二一日

人間の英知は、書き手にしてみれば焚書という凌辱よりもさらにいっそう屈辱的に思える仕打ちを考え出した。
記録もいくつか残っているのだが、本来の刑罰に加えて、「自らの書いたものを食べよ」というとんでもない刑を課したのだ。つまり、その本が精神を毒する内容をもつならば、紙やインクもろとも書き手自身がその毒をあおるがよい、というわけ。

ラート=ヴェーグ・イシュトヴァ―ン『書物の喜劇』(早稲田みか・訳 筑摩書房)

午後十二時二〇分起床。緑茶、干し芋。日本選手権シリーズの一方のチームが決まった。昨夜ひさしぶりに飲んだ。キリンの「氷結」一本(九パーセント、五〇〇ミリリットル)だけだったのに悪酔い寸前になって、歯磨き中に立っているのが辛いくらいだった。やはり弱くなっている。つぎ飲むときは三五〇ミリリットルでいい。さいわいなことに俺はもともとアル中になる体質ではなかった。アル中になれるのは肝臓や腎臓が壊れにくい「内臓エリート」だけ、というようなことを前にどこかで読んだけれど、その通りである。喫煙者の方々についても同じようなことが言える。そこそこ丈夫な肺と、他人が自分の吐く煙で苦しんでいても心を痛めないような天性の無神経さ、煙のために年一〇万円以上も出費できる単純な不合理性を兼ね備えていない限り、立派な喫煙者にはなれないだろう。俺にはとても無理。羨望以外の感情が湧きません。
今日と明日行けば休み。月曜日、天気が良ければ、古書店に行きたいね。季節の変わり目だからか、じゃっかん「強迫さん」が出かかってるんだよ。ヤニ臭が微妙に気になって、また壁クンクンをやっている。

O・ヘンリー『一ドルの価値/賢者の贈り物(他21編)』(芹澤恵・訳 光文社)を読む。
今週、毎夜二三編くらいのペースで読んだ。ふだん応接間に飾られているブランデーをちびちび舐めるように。思うにこれこそが短編集の正しい読み方ではないだろうか。過去何度読んだものでもやはり新訳で読むと違う。短編贔屓の俺にとってO・ヘンリーは、モーパッサンやチェーホフと並んで、名前をきいただけでも胸がときめく作家。どんな凡作でもムカムカしないで読める。ただ名作として誉れ高い「賢者の贈り物」はなぜか好きになれない。誰が演じようと落語の「芝浜」が好きになれないのと同じようなものか。だいたい俺は「サプライズ」というやつが嫌いだ。記念日に相手をびっくりさせてやろうという魂胆に救いようのない傲慢さを見てしまう。「さあ驚け」という品の無いドヤ顔を。岡田彰布もよく言ってるだろう。「ふつうでいいんよ、ふつうで」。そもそも人の世に「めでたいこと」など無いんだけどね。このことをそれなりに理解しているような人としか交誼を結ぶ気になれない俺には何か重大な精神的欠陥があるのかも知れぬ。本書収録の「赤い族長の身代金(The Ransom of Red Chief)」は、古い訳だと大体「赤い酋長の身代金」となっている。酋長は「未開部族の長」といった意味合いが強く、近年の「差別語追放」の流れのなかでは、ほとんど使われなくなっている。だからほとんどの人はスマホで調べないと読めないだろう。「言葉狩り」をめぐる議論はいつもどこか空しい。「キチガイ」とか「カタワ」といった言葉がマスメディア等で避けられるようになると、そうした言葉をあえて堂々と使ってみせる「反時代」気取りがかならず出てくる。

もう昼飯食うか。モヤシ炒めだね。

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