見出し画像

今日のほとんどの労働者が「労働」以外の趣味を持てないことの悲劇性について

五月二三日

元来料理というものの効果は、大部分が食品材料の質の価値であって、料理人の功績によるものは、一か、二か、三くらいのものである。本質の持味、
これは善かれ悪しかれ人間力ではできるものではない。例えば、まずい牛肉で、うまい洋食を作らんとしてもでき得ないのと同様に、まずい大根をうまい大根にしてみようといっても、それはできない。しかし、この簡単な事実が、存外世間では知られていない。怪しい世間もあるからである。これは料理人の根本心得として、知るべきだから、是非とも聞いて貰いたい。

北大路魯山人『春夏秋冬 料理王国』(筑摩書房)

六時起床、珈琲、昨日の残りのご飯、味噌汁、ワイヤレスヘッドフォン装着、Horace Parlan、C Jam Blues、PC起動。いまパパイヤとサーモンを一緒に食いたい気分でいる。スシローに「えびアボカド寿司」というのがあるが、その姉妹品として「サーモンパパイヤ寿司」も売り出してもらいたい。きっと美味に相違ない。商品企画部のひと、お願いしますよ。アイディア料はいらないから。
きのうは休館日だったから、香林坊の書店にでも行くつもりでいたのに、午後から小雨で、だから、よした。ジャン・ボードリヤール『象徴交換と死』をずっと舐めるように読んでいた。なかでも最大限に赤線マーキングされているのがこの箇所(以下、原文における傍点部分は太字にかえた)。

それというのも、プロレタリアートこそが、もっとも長い間「生産的」労働の幻想を維持することができるからである。他の連中に比べて本物の「生産者」であり、搾取されてはいてもやはり社会的富の源泉であるという意識、組織によって強化され聖化されたこの「プロレタリア意識」は、実に現存体制の破壊にたいするもっとも確実なイデオロギー的砦となっている。

「Ⅱ 生産の終焉」(今村仁司・塚原史・訳)

なんか物凄いことを言っている気がする。ただよく読めば当然のことしか言っていない。<資本体制>における「分割統治術」は実に大胆かつ巧妙である。就業者と非就業者を分断させて、互いに「ああはなりたくない」と嫌悪させ合うのだから。「働いている俺は偉い」とか「働いたら負けとか」とかそんなみみっちい対立はもうやめにしませんか。どっちも「資本体制史」の炎にくべられる燃料であることには何の変わりもないのだから。家畜が自分の家畜適性をいくら自慢したところで空しいし滑稽なだけだ。

「生産的」な肉体労働者たちは、他の誰にもまして、生産の幻想のなかで生きているが、それはちょうど、彼らが自由の幻想のなかで余暇を生きているのと同じである。
物が富と満足の源泉として、使用価値としてうけとられる限りは、たとえそれが最悪の疎外され搾取された労働の産物であってもがまんできる。個人的ないし社会的欲望に応ずる(たとえ想像的にせよ)「生産」をみつけることがまだできる限りでは、最悪の個人的あるいは歴史的状況でも耐えることができる(欲望の概念はそれほどまでに基本的であり、またひとをあざむく理由であるが)。なぜなら生産の幻想というものは、つねに生産とそれの理想的使用価値とを一致させる幻想であるからである。今日自分の労働力の使用価値を信じている人びと――プロレタリアたち――は潜在的にはもっともあざむかれた人びとであり、完全に無用者であるという絶望から人びとを襲う反乱や、無用であることを常軌を逸した再生産の純粋の尺度につくりかえる円環的操作を、もっともうけつけにくい人びとである。

同上

わたしはずいぶん前から「労働力の使用価値」を信じることができないでいるので、ここで彼がいわんとしていることは何となくわかる。現在の人々にとって労働はほとんど宗教になっているが、それもその自分のしている労働が「世のため人のため」になっていると信じられる限りにおいてである。だが、そうした自己欺瞞(幻想)に浸れる余地のなさそうな単純労働(ドストエフスキー『死の家の記録』の穴掘り拷問のような)に携わっている間さえ、「なにもやらないよりはましである」と思い込めるのが「現代プロレタリア」なのかもしれない(「存在論的負債感覚」だけでその奉仕的・奴隷的心性が説明できるとは思えない)。社会的再生産上どう考えても不要な仕事、デヴィッド・グレーバーのいう「ブルシット・ジョブ」に従事するしかない自分の無用性に気づいて狂死しないでいられる人がこれほど多く存在していることに、私はあらためて驚いてしまう。「完全に無用者である」という自覚がもはや可能でないところに、この時代の悲劇性があるのかも。

労働者とその基本的身分は、さしあたっては狂人・死人・自然・動物・子供・黒人・女性と同様に、搾取の身分ではなくて追放の身分ではないか、略奪と搾取の身分ではなくて差別と有徴化の身分ではないか、と疑ってみる必要がある。

同上

二十歳ごろ、就職活動と呼ばれているものにどうしようもない耐えがたさを感じたのは何故だったのか、ボードリヤールの考察によってやや分かった気がした。当時たしかに私はこう思っていた。「生きてそこにあることがもうすでに尋常ならざる理不尽徒労なのに、どうしてそのうえさらに理不尽徒労を重ねなければならないのか」。

労働力は死とひきかえに、つくりあげられる。人間が労働力になるためには、死なねばならぬ。彼はこの死を賃金という形で貨幣化する。しかし賃金と労働力との不等価性の面でみられるような、資本が人間におしつける経済的暴力は、人間を生産力と定義することで人間に加えられる象徴的暴力に比べればとるに足りない。経済的等価性のもつまやかしも、賃金と死との記号としての等価に比べればとるに足りないものだ。

「Ⅳ 労働と死」

労働するひとは依然として殺されなかったひと、殺害という名誉が与えられなかったひとである。そして労働とは何よりもまず生きることにしか値しないと判定されたみじめさの徴なのである。資本は労働者を死ぬほど搾取するだって?とんでもない。逆説的なことだが、資本が労働者に加える最悪のことは、労働者を死ねないようにすることだ。労働者の死を延期することで、資本は労働者を奴隷にし、労働のなかでの生の際限のないみじめさに労働者をしばりつけるのである。

同上

とするなら、あの電通社員の過労死は「名誉」なのかね。「生けず殺さず」が労働者管理の鉄則なら、みじめなだけの労働者どもは早く死んだ方がいいことになる。われわれなどどうせもうほとんど死んでいるようなものなのだから。いかなる「革命」も俺はもう信じていない。

『選択』五月号を読む。「岸田軍拡大増税」「浄土真宗本願寺の内紛」「JA共済自爆営業」など読みどころ多数。河谷史夫の連載「本に遭う」はまいかい楽しみ。それにしても防衛費確保にむけた岸田のあの暴君的大胆さは何なんだ。彼の出身派閥の小ささゆえの迎合ぶりだけで説明できるのか。「信念ある指導者」も「信念なき指導者」も同じくらい恐ろしい。『選択』には、その主たる想定読者である「経営者層」に忖度しない編集精神を、こんごも貫いてほしい。情報には必ず耳に逆らう何かが含まれているものなのだから。

やがて入梅。「鳩も無聊雀も無聊梅雨長し」(阿部みどり女)という無聊の季節。いまのうち歩いておこう。きょうライブラリーのあと、書店に行く予定。ポパーとかが気になっている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?