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「ハロウィン」というバカ発見イベント、世界は今日も凡人どものシャーデンフロイデで溢れ返っている、アリクイの肛門あるいはアボカド原子論、珊瑚と春雷、下痢乱打、

十一月二日

T型フォードを生産ラインで組み立てるように、映画もハリウッドの生産ラインで組み立てられる=モジュールされるようになる。じっさい、フォードの「車の工場」に対して、ハリウッドは「夢の工場」(ドリーム・ファクトリー)と呼ばれるようになります。フォーディズムが生産に関わる資本主義のイノヴェーションだとしたら、ハリウッドは消費に関わる資本主義のイノヴェーションです。映画というメディア・テクノロジーによって、資本主義ははじめて欲望を産業的に生産することができるようになった。これが「文化産業」です。

石田英敬/東浩紀『新記号論(脳とメディアが出合うとき)』(’ゲンロン)

午前十一時五五分起床。緑茶、柿ぴー。佐野元春サムデイが頭から離れない。きょうはほんらい一日中書く日だけど、きのうぜんぶ済ませたので、三時からまた文圃閣に行く。きのうも図書館からの帰宅後ずっと野球を見ていた。まじで野球は時間泥棒。日本シリーズはまだ終わっていなかったみたい。すべてはきょうの大竹耕太郎次第だ。もちろんぜんぜん期待してないけど。ああいう軟投派投手はセ・リーグの打者には通用してもパ・リーグの打者にはきっと通用しない。だいたい大竹はホークスから来たわけだろう。大炎上とまではいかなくても中炎上くらいはするだろう。球審との相性についてもかなり心配だ。(すくなくとも俺の主観によると)このシリーズにおいて一番ガチガチになっているのは球審であり、その判定の気まぐれぶりは目に余る。「ストライクゾーンがカウントによって伸び縮みする」という現象は「プロ野球あるある」で、「審判も人間だから仕方ない」のだけど、それにも限度があるというものだ。阪神は「コントロールで食っている投手」が多いだけに今回そのことが余計に目立っている気がする。こうやって審判が黒子に徹することが難しくなってくると、AI審判の導入を求める声がますます強くなるだろう。

一昨夜『世界文学大系<68>アラビア・ペルシア集』収録のルーミー「精神的マスナヴィー」をぱらぱら読んでいたら、面白い話を見つけた。短いのでそのまま引用する。

ある人が平手で、ザイドの頸を打ったので、
彼もまた闘おうとて、彼に打ってかかった。
攻撃者は言った、「私には汝に尋ねたいことがある、
まず答えてから私を打て!」と。
「私は汝の頸を打ったところがぴしゃりと音がした、
私はこの点について仲よくそなたに尋ねたい!
いったいこのぴしゃりという音は私の手の音だったか、それとも
汝の頸の音であったのか? おお貴族の誇りよ!」と。
ザイドは答えた、「痛かったので
それを考える暇がなかった!
痛くない汝がこのことを考えたらよかろう、
痛いと感ずる者はそんなことを考えはせぬもの!」と。

「手の音か、頸の音か?」(蒲生礼一・訳)

どこかでこんな話を聞いたことがある、と思ったら禅の公案だった。たしか、「両手を打つと音がする、鳴っているのは右か左か」といったものだった。鈴木大拙の著作でたびたび紹介されていた。これはたぶん白隠慧鶴の有名な「隻手音声」のバリアントだろう。ペルシアの「神秘主義詩人」ルーミー(本名ジャラール・ウッ・ディン・ムハムマッド)は、白隠より四百年以上も前の人である。こういう「発見」に俺は興奮する。ひょっとしたら白隠はここから想を得て「隻手」公案を作ったのかも知れない。そういえば白隠の著作を俺はまだまともに読んだことがない。あまり興味を感じないからだ。禅書は『無門関』だけで十分だといまも確信している(『臨済録』と『碧巌録』はオマケみたいなもの)。むかし『槐安国語』を図書館から借りたことがあったけど、とちゅうでバカバカしくなって読むのをやめた。だいたい「禅を勉強する」なんて滑稽にもほどがある。そんなのは瞬きや欠伸を練習するようなものじゃないか。だから「禅の修行」とか聞くと俺はいつも落語の「あくび指南」のことを思い出す。「俺に身にもなってみろ、こっちのほうがよっぽど、退屈で、退屈で、ふあああああ、ならねえ」「あのお連れさんのほうが器用だよ」。

もう昼飯食って出掛ける準備しますよ。オッケーグーグル、午後からの降水確率おしえて。

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