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救いなき世界の只中でシコシコ、世界の終わり、人間の終わり、宇宙の終わり、君は肺呼吸、俺はペニス呼吸、ああ上野駅、

六月二日

男の性欲が文化的なものだということについては、橋本治さんが明快な発言をしています。「男も女も異性と寝ているのではなくて制度と寝ている」――たしかに、セックスを喚起する文化的な装置の助けがなくては、性欲の充足さえままならないのが、本能がこわれた人間という生き物の宿命です。だから男でフェティッシュでないものはいない、とすれば、定義上、フェティッシュでなければ〝男〟じゃない、という言い方もできます。

上野千鶴子『スカートの下の劇場』「鏡の国のナルシシズム」(河出書房新社)

午前十一時五六分。紅茶、わさび茶屋。日曜日だからといっていつもとやることは変わらない。「毎日が日曜日」だから。書いて読んで歩くだけ。きのう母親がきて買い物に行った。金沢市中心部は「百万石まつり」という馬鹿イベントの最中なので愚民でごった返していると思い野々市方面へ。くら寿司、あかのれん、ラ・ムー、コスモス、ジョアン。帰宅後、中距離散歩を二回。一回目の散歩の途中、綺麗な男子学生を見かけて胸が高鳴る。ただ眼にやや剣があった。それもナルシスティックな剣。綺麗なんだからもっと優しそうな眼をすればいいのに。綺麗な男はねんねん増えているのに優しそうな眼をした綺麗な男はねんねん少なくなっている。綺麗と書いていま正岡子規の句が頭に浮かんだ。

六月を綺麗な風の吹くことよ

犀川河川敷の中距離散歩からの帰り、アオキで500円分のお買い物券を使って元気前借りドリンクを買った。

親の顔より見たアンクルトリス、

橘玲『世界はなぜ地獄になるのか』(小学館)を読む。
このごろ歩ている時間が長いけど、そのあいだもとうぜん本は読んでいる。いや聴いている。三洋電機のICレコーダーで。五時間も歩けばだいたい一冊は聴き終わる。歩いているときは小難しいのは嫌だ。構成が複雑な長編小説なんかは特に嫌だ。こういうリーダブルな新書がいちばんいい。著述家・橘玲は「最新の脳科学的知見」なんかをわりと素朴無批判に取り扱うので、眉に唾付けずには読めないのだが、それでも彼の書くものにはいつも妙な「説得力」があって、感心する。「頭の良い人」だとは思う。「公平」「平等」をめぐっていつも世界はゴタゴタしている。「持つ者」と「持たざる者」の格差について聞かされない日はない。いつも隣の芝生がつねに青く見え過ぎる人々。自分の「不幸」の究極原因を探しあぐねて「陰謀論」に片足あるいは両足を突っ込んでしまう人々。大衆が「社会的に不適切な発言」をした人などをその地位から排除させたりする動きのことをキャンセル・カルチャーといったりするが、最近ではこうしたことがますます頻繁に起こるようになった。企業のCM炎上も増えた。「正義の側」に立つことは人をよほど気持ちよくさせるらしい。「何が不適切な表現であるか」ということに今の人は嫌でも敏感にならざるを得ない。本書、過去の「いじめ」を巡る発言がSNS上で拡散されて「炎上」し、謝罪にまで追い込まれた小山田圭吾のことにかなりの頁が割かれている。その実際の雑誌記事や時代的背のことを知ると、彼への見方もすこし変わる(詳細は片岡大右『小山田圭吾の「いじめ」はいかにつくられたか』)。とうじ私も「とんでもねえやつだ」と単純に思ったものだけど。「怒り」の感情は人びとを不気味なくらいに結束させる。「許せない!」なんてことを言いたがる人々が私はこわい。そのくせ私もそんなことを頻繁に言いたがっている。「社会正義」なんてものの威を借りるやつにろくなのはいない。これだけははっきりしている。俺は「我々は」なんて言いたくないのだ。言えないのだ。俺の怒りはどこまでも俺の怒りでしかなくて、それは他人と共有した瞬間にその個的苛烈さを失い、鈍色の「凡庸色」を帯びてしまう。「凡庸」とは知的怠慢の帰結である。だからデモンストレーションの類とも縁がない。団結せよ、なんていくら言われても、俺は団結なんかしたくない。強者も弱者も同じくらい不潔で、どっちも俺は大嫌いだからだ。俺みたいな不浄な悪人に「主張したいこと」なんてありはしない。「俺は不快だ、ぜんいん死ね」ということ以外には。世界はなぜ地獄になるのか。そうなることを望んでいるからだ。いえす・いえす・いえす。まいなす異音。このあとどうしようか。図書館なんか行きたくねえよ。ドシャ降りにはなりそうもない。また犀川緑地公園行くかね。家族連れでごった返しているだろうけど。ベンチのうえでマスかきてえな。現代のディオゲネスに俺はなる。スポンジボブ爆殺事件。けったいな隣人。

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