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Nothing is always absolutely so、雨ときどき松井、

十月十一日

フルビネクは虚無であり、死の子供、アウシュヴィッツの子供だった。外見は三歳くらいだったが、誰も彼のことは知らず、彼はといえば、口がきけず、名前もなかった。フルビネクという奇妙な名前は私たちの間の呼び名で、おそらく女たちの一人が、時々発している意味不明のつぶやきをそのように聞き取ったのだろう。彼は腰から下が麻痺しており、足が委縮していて、小枝のように細かった。しかしやせこけた、顎のとがった顔の中に埋め込れた目は、恐ろしいほど鋭い光を放ち、その中には、希求や主張が生き生きと息づいていた。その目は口がきけないという牢獄を打ち破り、意志を解き放ちたいという欲求をほとばしらせていた。誰も教えてくれなかったので話すことができない言葉、その言葉への渇望が、爆発しそうな切実さで目の中にあふれていた。その視線は動物的であるのと同時に人間的で、むしろ成熟していて、思慮を感じさせた。私たちのだれ一人としてその視線を受け止められるものはいなかった。それほど力と苦痛に満ちていたのだ。

プリーモ・レーヴィ『休戦』(竹山博英・訳 岩波書店)

午後十二時二〇分起床。紅茶、ココナッツサブレ。吹き出し口の尖ったスプレー缶で太った男の眼を刺しながら殺虫剤をかけまくっている夢をみる。随分もだえ苦しんでいて憐れだった。悪夢に分類すべき夢だろう。あんな目にはあいたくないね。隣の乞食爺さんがまたタバコ代を借りに来たので千円わたす。老いたヤニ中毒者にむかって「煙に金を払うなんてのは頭の弱い人間にこそふさわしいことだから止めた方がいいですよ」なんてもう言わないことにした。古書に金を払っている俺も同じくらいアホだから。俗にいう「スタージョンの法則」によれば「すべてのものの九割はクズ」である。街を歩けば誰もが発見できる真実。

シオドア・スタージョン『不思議のひと触れ』(大森望・編 河出書房新社)を読む。
俺がティーンエイジャーだったころに人気のあったグルメリポーター風にまとめるなら、「短編の宝石箱や~」といったところ。「彼の作品は文学的に凝り過ぎていて読むのがしんどい」と素直に吐露した友人のことを思い出す。分からなくもない。たとえば以下のくだりはどうだろう。

「わたしに手出ししないで」女は金切り声をあげた。「ほんと、頼むから・・・・・・わたしになんか・・・・・・」(と、女の爪がいった)「・・・・・・手出しを・・・・・・」(と、女の爪がいった)「・・・・・・しないで!」(と、女の小さな固い握り拳がいった)。

「孤独の円盤」(白石朗・訳 翻訳原文の傍点→太字)

これは「ぼく」が海で溺れかけている女を救おうとする場面。翻訳でもその迫真性を感じ取ることが出来る。しかし(虫の居所によっては)匠気が見え過ぎるかもしれない。「文学音痴」の人はこれを文字通りに受け止め、爪や握り拳が喋っていると思ってしまうかも知れない(まさか。でもユーミンの名曲「海を見ていた午後」を聞いて、「あんなデカい貨物船がソーダ水に浮かぶかよ」なんて反応した人物がいたという都市伝説もある)。
彼の作品は「たんなる娯楽」以上のより精緻な快楽に読者を誘おうとしているようだ。スタージョンは「SF」というジャンルからは外れそうな作品もたくさん書いているが、それでもやはり彼は「SF作家」である(同じことはカート・ヴォネガットにも言える)。そもそもSFとは何か、という話は一旦はじめると収まりがつかなくなるので今日のところは勘弁してほしい。とりあえず未来的テーマや空想的ガジェットが絡んでいる作品はだいたい「SF」だと思っていい。
核戦争後のアメリカを描いた「雷と薔薇」は世評こそ高いが、僕はあまり面白く感じなかった。僕はどうもこの種の近未来小説が苦手みたい。「人類滅亡」を悲劇的に描こうとすればするほど興醒めし、「だからなんなんだ」という気になる。そこにはたいてい「人間の存在そのものが不条理なのだ」という観点が抜け落ちている。人間(生物)が地上から消え去ることを望んでいる僕にとって「核戦争」は救いでさえある。

そろそろ飯食うか。図書館、三時半には入れるか。やや気分がよくない。気鬱。

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