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フェミニスト田嶋陽子について、パンプキンとシンデレラ、学問的闘魂、捨て置かれた自然、朱に染まった冥界、

十一月二二日

エジプトでは家畜の数は多いが、もし猫に次に述べるような奇妙な習性がなかったならば、その数は遥かに大きくなるはずである。猫の牝は仔を産むと、もはや牡猫によりつかなくなる。牡は牝と交尾しようと思うが果せないので、こんな策をめぐらす。牝猫から子猫を奪いとったり盗んだりして殺してしまうのである。もっとも殺すだけで食うわけではない。子を奪われた牝は、また子を欲しがって牡の許へくるわけで、それほど猫は子煩悩な動物なのである。火事の起った際には、世にも奇怪なことが猫の身に起る。エジプト人は消火などはそっちのけで、間隔を置いて立ち並び見張りをする。それでも猫は人垣の間をくぐったり、上を跳び越えたりして、火の中に飛び込んでしまう。こんなことが起ると、エジプト人は深く悲しみ、その死を悼むのである。猫が自然死を遂げた場合、その家の家族はみな眉だけを剃る。犬の場合は全身と頭を剃るのである。

ヘロドトス『歴史(上)』巻二(松平千秋・訳 岩波書店)

午後十二時三五分起床。紅茶、貯古齢糖。冬季性抑鬱が頭をもたげつつある。日照時間が減るとセロトニンの分泌量が減るとかなんとかというあれは本当かしら。ちゃんとランセット誌とかに発表されている論文に基づいた情報なのか。あとで調べてみるわ。抑鬱の妹とでも呼ぶべき「強迫さん」はもうかなり前から暴れている。パソコン作業中、壁クンクンを最低二回はしてしまう。書くものが山積しているというのに。手の乾燥で本のページがめくりにくいのも困る。もうすでに俺は受難の季節に足を踏み入れている。できるだけ体を冷やさない服装をすること。夜は温かいものをたくさん飲むこと。定期的に温泉に浸かること。起床時間をずらし過ぎないこと。愉快な人とだけ会うこと。「使命感」を絶やさないこと。罪を憎んで人を憎まないこと。あまり先のことは考えないこと。せんじつガスの検針票が送られてきた。たしか三七〇〇円くらい。先月に比して爆上がり。検針員の名前が油屋なのには微笑。電気代も上がるだろう。この冬を生きて乗り越えられるか。きのう文圃閣へ行ってきました。買ったのは、開高健『オーパ、オーパ!!』、シュナック『蝶の生活』、『ハックスレー短篇集』、山川菊栄『わが住む村』、『鷗外随筆集』、『江戸語の辞典』、松本清張『密教の水源をみる』、瀧井一博『伊藤博文』、リラダン『残酷物語』、サイード『オリエンタリズム』、ジョン・ウェイン『親父を殴り殺せ』の十一冊。しめて一四三〇円。帰途、とっても寒かった。

田嶋陽子『(新版)ヒロインは、なぜ殺されるのか』(KADOKAWA)を読む。
映画をフェミニズム視点で批評したもの。見たことのある作品はひとつもなかった。著者は上野千鶴子と並んで、日本フェミニストのアイコン的存在。いぜん『愛という名の支配』を読んで感心したのを覚えている。多くの人にとって田嶋陽子といえば、テレビの討論番組でオヤジたちにフルボッコにされている「わきまえない女」というイメージと不可分だろう。だから端からバカにして、その著書を手に取る気など起きないかもしれない。「フェミニストすなわち怒れる女」という戯画的イメージを強化・流布させたという点で田嶋を批判する向きもある(俺はそれはかなり不当だと思うけど)。「フェミニズムのメディア戦略」についての議論はまたいずれやりたい。
田嶋の本は才気煥発でとても面白い。いまはいろんな活動をしているみたいだが、もともと彼女は英文学者だった。つまり「批評的読解のプロ」なのであり、その能力は本書のように映画が対象であっても遺憾なく発揮されている。ただ書かれた時代(九〇年代前半)のせいなのか、女性の「経済的自立」への期待が強すぎて辟易する。つまり社会的に成功した女性にありがちの「説教癖」がしょうしょう強く出過ぎている。自分にも出来たんだからあなたにも出来るはず、といった無邪気な思いこみ。自分の発言は「強者の論理」に過ぎないのかも、という反省が無さすぎる。女であれ男であれつねに問題とすべきは、「カネが無いと生きられない社会」であって、「カネをいかに稼ぐか」ではない。そうした発想では既存の「リベラル能力資本主義」をただ強化させるだけだ。「この世はきほん地獄」なのだから、これいじょう他人に競争努力を求めないで欲しい。
どんな映画も興行である以上、「人々」の共通的性愛観に真っ向から対立すことは難しい。だから、「強制的異性愛(Compulsory heterosexuality)」という社会規範を相対化させることには概して積極的ではない。現代でも、男が出てくればたいていは「異性愛男性」ということになっているし、女が出てくればたいていは「異性愛女性」ということになっている。「普通の男」と「普通の女」はいずれ結婚して子供を作るものだ、といわんばかりのストーリーもいまだに多い。映画においてLGBTなどはどう表象されているのか、という研究はもうすでに結構ある。映画好きとはいえない僕もそうした研究には興味がある。私は、「人間のセクシュアリティは無限に複雑」であり、「誰もが何らかの点では性的少数者」であると考えているので、(ゲイやレスビアンといった名目による)「identify(確認)」が促進される潮流には、あまり馴染めない。「comig-out」という概念にも違和感がある。ここでは「告白する側(少数者)」と「告白される側(多数者)」という非対称的関係が前提になっていて、私からすれば、まず問題とすべきはその「告白される側」の無内省的多数者意識なのである。これまで私は、「じつは僕、異性愛者なんだ」と言われたことが一度もない。この問題をこれいじょう放置するわけにはいかない。

もう飯食うわ。いわしの缶詰。四時には入れるか。

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