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「子供は純粋」なんていう奴は一度も子供じゃなかった奴だけ、同調圧力の基本形態は「俺はいいけど他人がうるさいからさ」、三島由紀夫のあそこ、暴力革命にはいちおう不賛成、俗世間では下らない奴に限って「明るい」、

十月一日

私はなぜ あらゆる人 あらゆる場ではないのか!

フェルナンド・ペソア『不穏の書、断章』(澤田直・訳 平凡社)

午後十二時三〇分起床。FBの凡庸記事を一〇分程度みて、燻製ナッツ、緑茶。「おれは怪物くんだ」の歌が頭から離れません。くしゃみ二回。モーニングアタックか。アタックチャーンス! ひさしぶりにペドロ・マルティネスの投球動画見たくなってきた。「何処か遠い町へ行きたい」(さだまさし「驟雨」)。

ジャン=ミシェル・ル・ラヌー『存在と力』(服部敬弘/樋口雄哉・訳 萌書房)を読む。
「言いたいこと」が分かり過ぎて途中から退屈だった。その思弁性において、プロティノス、ショーペンハウアー、ラシュリエなどからの影響が色濃いが、そんな哲学史的な解説はさしあたり糞どうでもいい。著者は「人間」「有限者」であることによほど根強い不快を感じているのだろう。それは「繋囚」「隷属」「囚獄」といった言葉が頻用されていることからも分かる。「なにかがそのようにある(あり続ける)」という表象的地平(規定的存在論の「世界」)を牢獄だという著者に、俺は限りなく同感・同情する。恐らく彼の不自由感は埴谷雄高のそれに近い。彼に『死霊』を書かせていたのは「ここじゃないどこかへ」の無限の渇望だけだったと言っていよい。だがその囚獄的形象からいかに脱するかという思索にはどこか滑稽なものを感じざるを得なかった。たぶん俺は彼とは違って「解脱」や「救済」の類はなにも信じていないからだ。どう足掻いても「存在の海」からは脱しえないと諦観している。ところで俺にとって「存在」とは何か。「存在とは何か」という問いはいっけん馬鹿げて見える(「それは擬似問題だ」という人もいる)。もうすでにいろんなものが見えたり聞こえたりしてそこに「ある」。感じられて「ある」。その「自明性」についてあえて語ろうとするのは(悪しき)哲学的ポーズに過ぎないと思うかも知れない。知名度のわりにハイデガーが不人気なのは彼がナチスに加担したからではない。それはきっと彼がいつも同じ問いの周辺をただぐるぐる飽きもせず回っているようにしか見えないからだろう。「いつまでくどくど言ってんだ」というわけ。ああ、もし二十代前半のころに鈴木大拙(禅)と出会わなかったら俺は発狂していたかもしれない。いまだに「ある」という「自明性の根拠」を追い続けていたかも知れない。

綿谷りさ『嫌いなら呼ぶなよ』(河出書房新社)を読む。
四つの短編。いずれもヴィヴィッド。著者は一九歳(最年少)で芥川賞をもらった人。一九八四年生まれ。俺と四つ違い。彼女の作品を読むと「文体は才能」と感じずにはいられない。
あるていど人気のあるユーチューバ―のファンになり、終いにはストーカーになってしまう粘着女を描いた「神田タ」がいちばん好き。オイラにも似たような過去がある。オイラが「応援」していたのはそこそこイケメンの若い底辺ユーチューバーだった。この小説の女みたいに動画をだすたび複数アカウントでコメントしまくってた。いちいち返信してくれるのが嬉しかったから。けっきょくぜんぜんチャンネル登録者数は増えなくてユーチューバーを諦めたみたいだけどね。そこそこのイケメンってのは毎日見てると飽きる、ということを俺はこの経験から学んだ。
表題作の「嫌いなら呼ぶなよ」は、不倫した男が妻の友人宅でみんなに責められるというもの。あのトイレ不倫芸人の公開リンチみたいな謝罪会見を思い出した。人は他人の非を責めるときどうしてこう「活き活き」とするんだろう。水に落ちた犬を叩くのってやっぱ享楽なんだよね。娑婆で生きているヘタレ人間どもはみな何かしらイライラしていて、隙あらば「みんなお前のせいだ」「こんな奴がいるから社会は良くならないんだ」「日本から出ていけ」なんて誰かに罵声を浴びせかけたがっている。『週刊文春』などは差し詰め「人間サンドバッグ供給装置」としての役割を果たしているんだな。人間なんてララーラーララララーラー。

さあ昨日のご飯温めて、シーチキンのせて、食うか。三時半には図書館に入ろう。

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