「性別」からの解放、「人間」からの解放、「存在者」からの解放
七月二日
午前五時半起床。年寄りか。しまいにはラジオ体操でもしかねない。あたらしいあさがきた、きぼうのあさだ。絶能、悲哀、倦怠、同一律の不快それだけ。紅茶、ウィッタカーのココナッツチョコレート。こころなしかヤニ臭い。隣のジジイはまだ生きている。オッケーグーグル、いい殺し屋サイト教えて。
川上未映子『夏物語』(文藝春秋)を読む。
芥川賞作品『乳と卵』を長編化したもの。「そもそも子供産むことって残酷極まる無差別暴力じゃね?」というを問いがっつり扱っている点でそこそこ画期的な作品と言えるのだろうけど、ところどころの描写が「ハートウォーミング」に傾きすぎていて、タイトル通り「物語」的な凡庸性に拘束されているという印象。さまざまの内的葛藤がありながらけっきょくは子をつくってしまう主人公(夏子)にはただ唖然とさせられた。「いろいろあったけどよかったね」といったこのなまぬるい大団円風は「小説の失敗」の見本というべき。「そこにあるべき深刻な自問自答」が無神経なキラキラ情緒の氾濫のなかで忘れ去られている。「倫理的内省の可能性」が急流のごとき俗情惰性に飲み込まれてしまっている。それはかつて「祖国のため」という湿潤包摂的な囁きのなかで人々が戦死を強いられた過去を想起させる。「産みたいよ、人間だもの」ってか。「出産」「肉食」「死刑」といった常にあっさりと行使され過ぎている「暴力」の容赦ない可感化こそ小説の「真使命」の一つなんだよ。そう安易に「間違うこと」を選んでもらっては困る。発狂するほど苦しまないと。
小説に感動はいらない。癒しもいらない。慰めもいらない。一読者としての私がもしある小説のうちに「慰め」を得たとしても、それはきっと徹底して虚無的な「慰め」であり、没人間的・没価値的な「慰め」だろう。世界終末直前の穏やかさのなかにあるような。文学の言葉はけっして「日常=異界」に埋没させてはいけない。「感涙」や「ほっこり」に潜む暴力的無神経に作家はもっと敏感であるべき。生き続けていることの恥辱と業深さにどこまでも「自覚的」であるべき。
そういえばシングルマザー作家、遊佐リカの酔余の長広舌のなかに、男はなんであんなにドアをバンバン閉めるのよ、というふうなのがあって、めっさ同感したわ。隣のジジイがまさにそういうガサツなやつだから。ネットで精子提供している恩田の不快描写に強いルッキズム的悪意を感じたけど、小説というアナーキースペースならそれもよし。しかし生殖というのはいつも私を気持ち悪くさせる。「子作りする奴はぜんいんクズ」と思っている私にとって、嫌悪感なしに閑談できる人はとても少ない。いまいる数少ない友人を大切にしよう。
作者にはいずれ善百合子を中心に据えた「姉妹編」を書いてほしいと思います。
上野千鶴子『差異の政治学(新版)』(岩波書店)を読む。
セックス/ジェンダー研究にはひとかたならぬ興味があるので、上野の書いたものはだいたい読んでいる。だからまだ読んだことのないものを見付けたときは、うれしくなる。本書は主として九十年代の論考を集めたもの。なかでも「セクシュアリティの社会学」「男性学のススメ」「複合差別論」が気に入った。
総じて「社会構築主義(social constructionism)」「反本質主義(anti-essentialism)」への無邪気な信頼がやや気になったが、よく考えるとこれはフェミニズム理論全般に言えることで、なにも上野に限ったことではない。私もまた、「男女」という性差は生物学的・解剖学的に自明である、とは思わない。そうした「科学言説」そのものがすでに特定のジェンダー作用の産物なのだろう。
「男性」の身体に比べ、女性の身体はつねに「有徴化」され、「欲望の対象」になっている。ホモソーシャル(イヴ・セジウィック)にけるホモフォビア(同性愛嫌悪)の心理的根幹には、自分が他者の「性的眼差しの対象」になることへの恐怖がある。「男たち」の多くは「欲望の主体」を演じる準備はつねにあるが、「欲望の客体」を演じる準備はない(痩せることや体毛を剃ることなどの身体規範を強いられているのは圧倒的に女性のほう)。「俺たち」と「あいつら(同性愛者や女性)」を境界付けるものは最初から曖昧で頼りなく、だからこそ「俺たち」はその同質性をバカみたいに強調せざるを得ない。「ウィークネス・フォビア」(内田雅克)といった「有害な男らしさ(Toxic masculinity)」が無くならない所以である。
「個人的なことは政治的なこと(The personal is political)」だ。こんご、「性別二元制」(伏見憲明)によるこの不自由感と不愉快感とをもっと言語表出していきたい。
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