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仕組まれた自由、新聞スクラップ、カタカナ平凡人、暴走老人取締役会、

三月二一日

ロシアの大統領選では、反政権票の受け皿として泡沫のリベラル候補の立候補を容認するのが通例で、今回はボリス・ナデジディン元下院議員がその役割を果たすとみられていた。しかし、支持が想定以上に広がりを見せたため、急きょ方針を転換し、選挙から排除したとみられている。

「読売新聞」(日刊)、2024年3月19日

午前11時51分。紅茶、源氏パイ数枚。寒さが余力を振り絞っている、という感じ。きょうはあまり図書館に行きたい気分じゃない。読売新聞が毎朝届くようになった。契約したわけじゃない。そもそも俺は「アンチ巨人」だから読売新聞に好意を抱くことはできない。それに徒歩3分以内のところに図書館があるのにどうしてわざわざ金を支払ってまで紙の新聞を取る必要がある。購読契約をしているのにろくに読んでない隣の爺さんが「よかったら」と郵便受けに入れてくれるようになったのだ。私は活字狂いだし、それで爺さんが「代償気分」を得られるのであれば、Win-Winというべきだろう。というわけできのうから新聞スクラップをはじめた。

新聞はベタ記事がいちばん面白い

いちばん最初に切り抜いたのは「台東連続死 鑑定留置」というベタ記事。ここでいう台東とは東京都台東区のこと。台北の親類みたいなもんだと思ったよ。東京の地理に俺は詳しくない。何しろちょっと前まで東京は23区だけで構成されていると思っていたくらいだから。もちろん台東区がどのへんにあるのかさえ知らない。調べようとも思わない。俺にとって東京はただの地方だから。田舎者のサラダボウルだから。田舎者というのは人が多そうなところに集まりたがる。何度もいうけど首都は俺が住んでいるところね。なんといってもこの記事のポイントは「自動車用の不凍液を飲ませて次女や姉を殺害したとして」の部分。不凍液で人を殺せるの? 新聞には犯罪学的に有用な知識が散見される。他に「池袋暴走遺族を脅迫した疑い」と題されたベタ記事も切り抜いた。2019年池袋で起きた暴走事故で妻子を亡くした松永氏に殺害を予告する電話をかけた者がいたという。62歳。なんで被害者に? 「世間」から「同情」を一身に受けている被害者に謎嫉妬を起こしてしまったインセル(非モテ男)の愚行か? こういう不条理極まる記事をこれから集めていこうと思う。こんどダイソーでハサミ買おう。キッチン用のハサミはレトルトパウチとかを切ってるのでなんとなく油臭い気がする。

真鍋厚『不寛容という不安』(彩流社)を読む。

まず一番最初に切実に自覚しなければならないのは、わたしたちがほとんど例外なく弱者であるという衝撃的な現実の方なのだ。

本書の主張はこの一文に尽きる。「誰もがなんからの面では弱者」という言い方はたしかに諸刃の剣ではある。社会構造の「底辺」に固定されている「弱者のなかの弱者」とでもいうべき人々と、そうでない人々の間には、埋めようのない溝がある。これを無視して「みんな生きにくいんだよ」なんてポエム的嘆き節を弄するのは欺瞞でしかない。自由主義的・能力主義的価値観がある程度行き渡った現代においては、経済弱者は基本的に「努力しなかったダメな人」である。他人からそう認識される前に、自分でそう認識している。世の中はこういう「ダメな人」のほうが圧倒的に多い。たいはんの人間は「負け組」なのだ。なのにそれを「実感」することがかくも難しいのはなぜか。やはり「隣の芝効果」というやつか? あと、「どんなメディアでも成功者ばかりが目立つから」というのもいまだに一つの答えでありうるのかもしれない。功成り名を遂げた人というのは「声の大きな人」になりやすい。「子供たちの夢」が「職業」に限定され、しかもそれがひどく類型的になってしまうのもそのためだ(プロスポーツ選手、宇宙飛行士、ユーチューバー)。自覚のあるなしにかかわらず、「成功者」は凡人どもに一定の「人生モデル」を提供し、「自分もああなりたい」「ああなれたなら」といった高望みをさせずにはおかない。一人の鳥山明のうしろには鳥山明になれなかった者たちの残骸の山がある。一人の大谷翔平のうしろには大谷翔平になり損なった者たちの死屍累々がある。なのにそうした残酷な側面を我々はやはりあまり見たくないようだ。きょうも地上には自分が凡人であることを認められない者たちの世界憎悪が渦巻いている。その莫大な憎悪エネルギーをすべて電気エネルギーに変換できたなら、と思わない日はない。そんなSF短編を去年読んだような気がする。

さて3時半には図書館行こうかな。さいきんはアラビア数字も使えるようになってきた。お姉さん、ギガバイトってどんなアルバイトなのかね、わしに教えてくれんかね。さだむ虫。

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