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きょうも人々は「民主主義のキキ」を憂える、ミルウォーキーの鉄塔、千と千尋、錆びたナイフ、

二月十九日

上野 今の小倉千加子説によると、すべての男は隠れホモだということになります。
小倉
 すべての男は女嫌いだけれども、それが肉体化されるまでに顕在化してきてる人をホモと呼ぶんです。男と寝たいことに気づいている男と、男と寝たい自分に気づいてない鈍感な男とがいて、鈍感な男をノーマルと呼んでるだけですよ。
富岡 なるほど。
上野 三島由紀夫の「女ぎらひの弁」を読むと、ウーマン・ヘイティングの男の論理を、もうセオリーどおい寸分狂いもなく――。
富岡 書いてありますね。

上野千鶴子/小倉千加子/富岡多惠子『男流文学論』「三島由紀夫」(筑摩書房)

午前十一時八分。アルフォート五枚、白い油を入れた紅茶。なけなしの気力を振り絞って布団の中から出る度いつも眩暈に襲われる。<一切不可思議グロテスク>と叫ばずにはいられなくなる。「独我論」はまだその認識の鋭度においてきわめて不徹底なものだ。この「既にある」という端的無類経験を語るための言語はどこにも見つからない。「私とは」とか「時間とは」なんてことは差し当たりどうでもいいのだ。なぜ私の前に現れる「人々」はこの「既にある」という暴力的現事実に打ちのめされないのだろうか。彼彼女らはあまりにも驚かない。
このごろ酒を飲んでいる間はフェルナンド・ペソアばかり読んでいる。

凡俗の人間は、たとえ人生が辛くても、少なくとも人生を考えないから幸せだ。人生を外から生きること、ただ日々を生きること、犬や猫がしているように、これが普通の人がしていることだ。そして、人生とはこのように生きるべきなのだ。猫や犬と同じように満足して生きたかったならば。

『[新編]不穏の書、断章』(澤田直・訳 平凡社)

こんな章句を反芻して何になるというんだ。大したことは何も言ってないじゃないか。彼のいう「普通の人」とは、彼以外のすべての人間のことだ。哲学的感度が比較的高い(らしい)人間によく見られる、いささかの感傷を含んだ唯我論的自惚れ。でも私はこういう自惚れを嫌うことが出来ない。苦悩が無いかあっても浅過ぎる人間はこういう自惚れさえ抱くことが出来ない。「そもそも語り合うに値する他者など存在するのだろうか」という自問を一日に五回はしている私。傲慢無類。井の中のフロッグ。
きのうは晴れていたので散歩を兼ねて駅西本町のブックオフへ行ってきた。といっても往復四時間以上は歩いた。地方都市で金なし自動車なしの生活をおくるには一双の健脚はまず欠かせない。徒歩二時間以内は「近所」だと思え。買ったのは、A・ビアズレー『美神の館』、村上春樹『アンダーグラウンド』、末木文美士『反・仏教学』、『菜根譚』、綿谷りさ『憤死』、花森安治『灯をともす言葉』、カート・ヴォネガット・ジュニア『タイタンの妖女』、コラン・ド・プランシー『地獄の辞典』、島田雅彦『彼岸先生』、橋本治『草薙の剣』、バーナード・マラマッド『ナチュラル』、別役実『もののけづくし』、ミシェル・ウエルベック『服従』、『アンネの日記(増補改訂版)』の十四冊。締めて一七六〇円。このごろ「日記とは」なんて考えることが多くて、というか「公開日記」を書いている自分を軽蔑することが多くて、だから、「世界一有名な日記」と呼びうる『アンネの日記』をじっくり読み返してみることにした。新しく発見された日記を加えた増補改訂版はまだ読んでないはず。

町山智浩『アメリカがカルトに乗っ取られた!(中絶禁止、銃は野放し、暴走する政教分離)』(文藝春秋)を読む。
町山ファンとしては「言霊USA」はいつまでも続いてほしい。連載が終わると「コラムの見本」を失うことになる。毎週ネタを探すだけでも大変なのにそれを締め切りまでに面白くしかもリーダブルな文章にまとめるなんて、僕のような凡才にははとても真似できない。ニルヴァーナのアルバム『ネヴァーマインド』(1991)のジャケット写真で有名な元「赤ん坊モデル」の男性が訴訟を起こしたというコラムにはつい笑ってしまった。つい笑ってしまうことで見落としてしまうことがいくつもあるのは承知しているつもりだけど。「性的搾取」についてはこんご詳しく考えてみたい。
広大なアメリカには変人奇人がたくさんいるので、珍事件がたくさん起こる。だいたいトランプみたいな「泡沫候補」が大統領に選ばれたこと自体が珍事件。かつての勢いは失われつつあるものの一応は「超大国(superpower)」だよ。「歴史は何でもあり」ということをアメリカはいつも体を張って教えてくれる。2001年9月11日の「同時多発テロ」のあとそれとは関係のないイラクに無理やり侵攻したこともあった。「イラクには大量破壊兵器がある」とかウソをついて。9月11日といえば1973年のチリ・クーデターだ。アメリカの支援を受けたピノチェト将軍が合法的に成立した社会主義政権を転覆させた事件。その独裁政権下では大量の市民が殺され投獄され拷問された。日本という国の広島という都市にウラン235を用いた原子爆弾リトルボーイを投下し、長崎という都市にプルトニウム239を用いた原子爆弾ファットマンを投下したのもアメリカだ。大量の非戦闘員がそれで死んだ。人間以外の「知的生物」に、これらの出来事が「本当」にあったということを信じさせるのは、大変に難しいことだろう。「我々は悲惨なことに慣れ過ぎている」。ほとんどの人間は絶望が深すぎて「ペシミズム」からも見放されている。「歴史という悪夢から目覚めたい」と叫ぶための声を失っている。誰と話していても、その眼に深淵を覗くことが出来ないから、苦しい。メスカリンをおくれ。カネ頼むの一言でもいい。

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