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600字小説『Under Season』

「夕暮れ前に沈みましょう」
優しい微笑みをたたえて、でも強く俺の腕を掴む。
ざぼん。
湖に引きずりこまれた。冷たい。全身に痛みが走る。
「見て。扉がみっつあります」
底へ降り立つ。真っ暗闇というほどでもない。
「何をするんだ」
「まず赤の扉よ。これは貴方が戻りたい過去へ行ける」
「ないよ、戻りたい過去なんて。知ってるはずだ」
「そう?なら次はこの青の扉。貴方が行きたい未来へ飛べるのよ、素敵でしょ」
「見たいものなんてない。ふざけるのもいい加減にしろ。俺は何故ここにいる、お前と全く同じ会話をするのも何度目だ」
「へぇ…気づいてたんですね」
「答えろ、ここは過去か未来か。俺はどこにいる」
「現在です」
「現在?それを証明できるのか」
「貴方という人は…学ばないのですね」
そう呟いて、わざとらしく大きな溜息を吐いた。
「二度と戻れません。それでも?」
「構わない」
「では。お元気で」

ぷちん。

はじけて泡になった。
ああそうか、ここは…。
「俺が自分から飛び込んだ海じゃないか」
「そうよ。せっかくチャンスを与えられたのに、バカな人。どこまでも沈むといいわ、死神と一緒に」
死神?
「よう、久しぶりだな。待ちくたびれたぞ」
長く伸びた爪が腕に食い込む。
「痛い」
「気のせいだ、お前はもう泡なんだからな」

ぷちん。ぷち、ぷ。ち。

「どうなるんだ、次は」
「どうもなりゃしない。お前の形は、もうない」
沈む。
混ざる。
溶ける。

このまま俺は。

存在しないどこかで。

生きる。

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