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【小説】真っ赤なマニュキア

 窓から朝日が溢れる中に揺れる埃のように、僕は満員電車の中で揺れていた。昨日の夜は良く眠れなかったから、視界がぼんやりと歪んで、世界が光の霧の中にあるようだ。僕はその埃を払うように人の香水の匂いや、前に立つ女性の髪の毛、寝不足の気だるさを全て払った。だが、払った埃は空へ舞うものだ。自分の香りがついた他人の匂いが空気中に撒き散らされて行く気がして、僕はくしゃみをした。すると側の人々は苛立ち、不機嫌な様子で僕を睨みつけてくる。
 だが僕はもうこんなことには慣れてしまった。この東京という都市は様々な埃で溢れている。郊外のベットタウンでは、昼間には皆都心の方へ働きに出ているから誰もおらず、降り積もった埃の中に子供の足跡だけが残る。都心は昼夜問わず外国人や、何をしているか分からないような若者や、汗にまみれたビジネスウーマンにまみれ、埃のように風に吹かれて流れていく。だから僕はいつも目が痒くなって、くしゃみが止まらないのだ。
 僕は周りの人たちに軽く会釈をしたが、胸の動悸が激しくなって汗が酷くなったので、とっさに胸からハンカチを出して汗を拭った。すると電車のアナウンスが鳴り、中野駅に到着することが告げられた。近頃女性の駅員の数が男性のそれを抜いたとニュースで見たことを思い出した。
 中野駅では、大体いつも右側のドアが開くことを知っていたから、あらかじめ左側に乗っていた。そのため、特に下りずに済んだが、中野で降りた人たちよりも多くの人が電車に乗ったため、社内は非常に窮屈で、スマホで妻に連絡することさえ出来なかった。
 電車が出発するとすぐ電車が大きく左右に揺れ、後ろの人に軽くもたれかかったが、この車線変更のカーブが終わると比較的直線なため、何とか落ち着くことができた。しかし、僕の汗が止まることはなかった。なぜなら、僕が落ち着いた矢先に、臀部に触れる温かい感触が伝わってきたのだ。最初はたまたま手が当たってしまったのかと考えたのだが、その手はやはり僕の臀部を弄るように、舐めるように触るのだ。おそらく妻が僕の頭を撫でてくれるのと同じように、心地よく優しく撫でられているが、その心地よさとは似ても似つかない様な恐怖が臀部から心臓へ流れ込んできた。
 次第にその手は腰へ、そして局部へまで回ってきたところで爪には真っ赤なマニキュアが付いていたことから、その手は女の手であることがわかった。女は蛇のように体のすべてを僕に巻き付けた。右足を僕の足の間に突っ込み、赤い右手で局部を撫で、胸を僕の背中に押し付け、ドクダミのような香りの髪を僕の顔に貼り付け、彼女の唇はちょうど僕の耳の三角窩の部分を吸い付けていた。
 このような状況では、快感は嫌悪に、嫌悪は怒りに、怒りは恐怖に、恐怖は驚きに飲まれると思う。僕の身体は全く動かなかった。まるで彼女の身体に全身の体温の全てが、そして僕の声までもが吸い取られるような気がしたからだ。普段あっという間に感じてしまう新宿までの4分間は、埃にむせた時のように、苦しみは肺の中で連鎖し、その最終地点には疲労感と虚無感と気管の炎症だけが残る。今日はどうして男性専用車両に乗らなかったのかという後悔より、妻への申し訳なさが勝った。
 アナウンスは聞こえなかったが、目の前のドアが開き、後ろからの圧力が高まり、ホームへ放り出されたため、僕は新宿に着いたのだと気づいた。足に力が入らず、僕は電車に向かうように尻餅をついた。ポップコーンが弾けてフライパンから飛び出すように、沢山の人が弾けていく。誰も僕には目もくれず、ホームの階段を目指していく。僕は彼女らの後ろ姿を眺めたが、人並みの中に見た真っ赤なマニキュアの一瞥が、僕を恐怖させた。

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