「粗にして野だが、卑ではない」 (短編小説)
5月の緑の風はどんな身分にも平等に吹いてくれる。 昼間からこうして縁側にいて、何もせずにいる自分にも同じだ。
いい歳してと思うかもしれないが、世の中なかなか上手くいかないもんである。
そうして何度めかの居眠りをはじめた時、玄関の方からカギを差し込む音に気付いた。
今年から高校に通っている麻衣子が帰ってくる時間にしては、いかに言っても早すぎる。
しかもカギを差し込む音がガチャガチャと何やら忙しない。
万が一に備え、身を低くしながら玄関の影に身構えた。
何もしていないとはいえ、せめて留守の家の安全くらい護らなくては。
ガチャリ。
開くドアの隙間から学生服が勢いよく飛び込んできて、走る動作のまま靴を脱ぎ去ると自室に消えていった。
目の前をあっという間に通りすぎた麻衣子の目は、赤く充血し泣いているようだった。
「麻衣子、大丈夫か」
子供部屋のドアの前で、出来るだけ柔らかく声をかけた。
しばらくすると、スッとドアが開き麻衣子が俺の頸に抱きついてきた。
麻衣子の肩越しにボロボロに切り裂かれた通学カバンが見えた。
麻衣子がいじめられていると知ったのは先週の木曜の夜。 麻衣子の母親である圭子が夕食の片づけのあと、ひとり言のように漏らした。
不安そうな圭子の頬にキスをすると、堰を切ったかのように抱きしめて俺を求めた。
俺の愛する圭子が、女手ひとつで育ててきた麻衣子。
俺の愛する女が大切にしているものは、俺にとっても大切なことに変わりない。
あの日、世の中の底辺でただ群れている仲間という「鎖」を切ろうとして、ボロボロになって逃げ込んだガード下。
夜の冷たい雨が刺すように降り、失血による体温の低下に拍車をかけていった。
「手当てだけでも……」
そんな圭子の気まぐれがなければ、今の俺はいなかっただろう。
麻衣子は感情を確かめるように、ひとつひとつ俺に話した。
「麻衣子さぁ、世の中って弱肉強食じゃね?」
そう言って幕を開ける毎日の行為は、未熟な幼児性の残虐さがもたらす「愚行」の数々であった。
ただの鬱屈した気分の捌け口として、おとなしい麻衣子が選ばれたのは想像に易い。
俺の中の忘れ去ろうとしていた古い血が、ぞわぞわと身体の芯を焼きながら疾走っていくのが判る。
抑制に慣れた意思を本能が巻き込んで、より大きな感情になっていく。
噛み締めた歯が欠けんばかりに音を立てた。
「怒ってくれてんだね…… ありがとう」
麻衣子はそう言って、怒りの業火の色を映す眼を正面から覗き込んだ。
「麻衣子、そいつらは俺がやってやる」
大切なものを犯した罪を償わせてやる。
自己の欲求のために他者をも引きずり下ろすことも当たり前と考えるクズに、復讐の牙を突き立ててやる。
弱肉強食、それが自然の摂理。
頬の涙をすこし舐めると、麻衣子はすこし笑った。
家事を終わらせて就寝のあいさつをする圭子を見送ると、俺は暗い部屋をそっと抜け出した。
音を立てないように廊下を進み突き当りのお風呂に向かう。
戸締りに気をつかう圭子でも、お風呂の窓だけは換気のために開けていることは知っていた。
窓から飛び降りるともう一度、家を振り返り、これからの母子のことを考えた。
そうして俺の名前の入った首輪を前脚を掛けて無理やり外すと、庭のすみにそっと置く。
「やつらの喉笛を噛み切ってやる」
抑えきれない感情が遠吠えになって弾ける。
隠せない感情が尻尾に現れていることも気にせず、しっかりと4本の脚でアスファルトを蹴った。
疾走りながら蘇る熱い野良犬の誇りを、5月の夜風はすこしでも冷やそうとしているかのようだった。
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