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恋愛SF『ブルー・ギャラクシー 天使編』6章

6章 ミカエル

 意識が戻った時は、ベッドの上で雨の音に包まれていた。世界全体が、穏やかな雨の底にある。知らない部屋だが、薬の匂いがするから、病室にいるらしいこともわかる。

 桜……桜は、まだ咲いているだろうか……それとも、桜の季節はとうに過ぎている?

 あれは、夢だったのか。リリーさんと出会ったこと。海で遊んだこと。そして、落雷のような衝撃と共に、吊り橋から落ちたこと。

 川原の冷たい砂利の上に横たわったまま、暗い空に、何かが大きく飛び回るのを見た。警察か司法局のエアロダイン、と思ったことを覚えている。降りてきた職員たちに、リリーさんが何か鋭く指示していた。砂利を蹴立てる、幾つもの足音が交差して……

 情けない終わり方だったが、それでも、いい夢だった……女神のような人……柔らかい胸に顔を埋めた感触、はっきり覚えている……あのまま、目醒めなくてもよかったのに……

「ミカエルくん、気分はどうだい?」

 扉が開いて、白い制服姿の若い男性が入ってきた。快活な態度で、主治医だと自己紹介する。彼が窓の遮光機能を操作すると、半透明になった窓から、雨に濡れた中庭の木々が見えた。記憶が切れ切れなのは、脳腫瘍の切除手術を受けたからか。

 ガブリエルが、そうだった。脳の手術をすると、どうしても記憶の欠落が生じる。いつも聡明な彼が、病床で迷子のような顔をしていた。

『お兄ちゃん、だあれ?』

 彼の方が、ぼくより二つ年上だったのに。ウリエルと共にぼくを説得して、脱出計画に引き込んでくれた、しっかり者。

 それが、最後には幼児に戻ってしまい、絵本を読んでくれとか、歌を歌ってくれとか、病院の女性スタッフに甘えていた。彼女を母親だと思っていたのか。カプセルで培養されるバイオロイドに、母親はいないのに……

「きみは火傷と脳挫傷で、かれこれ十日ほど入院していたんだ。やっと昨日、集中治療室から普通の病室に移したところなんだよ。でも、心配はいらない。必要な治療はもうほとんど済んでいるから、午後には退院できるよ。後は万事、身元引受人が世話をしてくれるから。火傷の跡は、徐々に薄れるからね」

 火傷? 何だろう? いつ、そんな怪我をしたっけ? とにかく、科学技術局の誰かが迎えに来てくれるらしい。

 医師はぼくを診察し、回復は順調だと宣言すると、楽しげに付け加えた。

「いやあ、本物の〝リリス〟と握手できるとは思わなかったよ」

 え。

「映画以上の美人だったね。思っていたよりずっと、穏やかで控えめな人だったし。一生忘れないよ。守秘義務があるから、家族にも話せないのが残念だけどね」

 ぼくが驚愕のあまり口もきけないので、医師は説明を加えた。

「食事が済んだら、面会できるよ。彼女たちは、きみが目覚めるのをずっと待っていたんだから」

   ***

 夢ではなかった。それどころではない。何という馬鹿だったのだろう、ぼくは。大の男をぽんぽん投げ飛ばす姿、あれだけで〝リリス〟と察するべきだった。

 そもそも、リリーとヴァイオレットという名前の組み合わせは、映画でも小説でも、お馴染みだったではないか。もちろん、本当の名前ではなく、コード名だというけれど。

 でも、まさか、本物の〝リリス〟が、そこらを気軽に歩いているなんて。その上、ぼくなんかのために、貴重なバカンスの時間を割いてくれるなんて。

 緊張のあまり、胸が苦しい。

 夢なら、夢でよかったのに。

 これから現実のリリーさんと会って、さようならと宣告されるくらいなら、夢の方がましだった。改めて、谷底へ突き落されるようなものだ。焦がれても届かない人に、最後の日まで焦がれ続けるなんて。

 いや、それでも、会わずにはいられない。伝えなくては。貴女に会えて、時間を共有できて、本当に嬉しかったと。

 ぼくにはきっと、人生で一度きりの恋。それを知らないままで終わるより、ずっとよかった。

 後に悲しさが残るとしても、それは、会えたからこそ生まれた感情だ。心が凍りついたまま死ぬより、ずっといい。

 だから、精一杯、平気なふりで、お別れを言わなくては。

 美青年の看護師に世話をしてもらい(後で〝リリス〟の助手のアンドロイドだという正体を知った)、着替えと食事を済ませた頃合い、リリーさんがやってきた。

 目が覚めるような、美しいロイヤルブルーのワンピース姿。金褐色の長い髪は、背に垂らしている。耳たぶには、大粒の真珠。美しい顔が曇って見えるのは、ドレスの色のせいか、窓の外の雨空のせいか。

「ミカエル、ごめんね」

 リリーさんは真っ先にそう言い、ベッド脇の椅子から立ったぼくの手を取った。温かく大きな手。記憶の中の感触と同じだ。間近に見る青い瞳も、記憶の通り。

「巻き添えにしてしまって、本当にごめんなさい。あたしが馬鹿だったのよ。わざわざ、自分の正体をさらすような真似をして」

 ああ、そうか。リリーさんは、ぼくが怪我をしたことで、悪いと思っているのか。

 リリーさんでなければ、あの瞬間、ぼくを抱いて飛び降りることなどできなかったのに。普通の人間なら、岩だらけの川に墜落して、即死だったはず。

 しかし、今ではもう、リリーさんにも、ぼくが何者かわかっているだろう。罪のない子供ではなく、恐ろしい決断をした反逆バイオロイドであると。

「ぼくこそ、申し訳ありませんでした……お荷物になってしまって。それに、自分のことをちゃんと言わなくて……」

 リリーさんは、あっさり首を横に振った。

「あたしは知っていたのよ。最初から。だって、きみに会うために、この星に来たんだもの」

「えっ?」

 ぼくらは偶然に出会ったのではない……というのか?

「全部、説明するわ。でも、まず、ここから出ないといけないの」

 それは、まさか、貴女と一緒にということですか?

「世間的には、きみは数日前『治療の甲斐なく死んだ』ことになっているの。今日は郊外の墓地で、きみの葬儀があるのよ。きみの知り合いは、みんな参列しているわ」

 唖然とするぼくに、リリーさんは言う。

「お別れを言いたい人もいるだろうけど、それはあきらめてね。《ルーガル》に追跡されないためには、ここで一度、死んでもらう必要があるの」

 リリーさんに肩を抱かれるようにして、病院の地下で車に乗せられ、外の街路に出た。全て司法局が手配してくれたそうで、一般の職員がぼくらの姿を見ることはなかったという。

 雨に打たれた街路の桜は、半分散りかけていた。道路のあちこちに、淡いピンクの花びらが散り敷いている。外からは中を見られない半透明の窓なので、誰かに見咎められる心配はない。ぼくは呆然としたまま、過ぎていく市街の風景を眺めた。

 死ぬまで暮らすはずだったこの星と、今日でお別れとは。

 かりそめの職場に未練があるとは思っていなかったが、それでも、親切にしてくれた人たちが、ぼくの葬儀に集まっていることには、気が咎めた。彼らにとって、ぼくは最後まで〝気の毒な少年〟のままなのだ。

 すみません、さようなら。

 ごめん、ウリエル。ごめん、ガブリエル。

 きみたちの墓がある星を、出ていくよ。そして、たぶん、二度と戻らない。

 一緒に車に乗っていたのはリリーさんと、相棒のヴァイオレットさんだった。それと、有機体アンドロイドのナギ。紺のスーツが似合う、黒髪の美青年だが、心を持たない人形であるという。同型の人形が何体も、リリーさんたちの助手として動いているとか。

「よろしくね、ミカエル」

 と挨拶してくれたヴァイオレットさんは、ぼくより少し背が高いだけの、小柄で上品な女性だった。

 金茶色の瞳と白い肌。長い茶色の髪は、きちんと結い上げている。クリーム色のワンピースがよく似合い、名画のように繊細な風情だ。とてものこと、長年、違法組織と戦ってきた闘士には見えない。

 だが、この人はリリーさんの参謀。〝リリス〟の活躍の半分は、このヴァイオレットさんのおかげだという。

 宙港へ向かうドライブの途中、リリーさんが事情を話してくれた。上空からの砲撃を仕掛けた犯人は、わかりそうにないという。

「外部から、船の管理システムが乗っ取られていたの。中央の警備システムは、弱点が多いからね。でも、どうせ、あたしが狙われたに決まってるわ。もう三メートルずれてたら、あたしたち二人とも、蒸発してたでしょうね。ほんの少しの大気の揺らぎのせいで、命拾いしたわ」

 高出力レーザーの一撃か。民間船も、自衛のための武器は装備している。それを、何者かに利用されたのだ。危なかった……ぼくに関して言えば、あの時、蒸発していても、幸せだったかもしれない、と思うが。

 リリーさんと一緒に死ねるのだったら、この上なく贅沢な死に方ではないか?

 いやいや、リリーさんは〝正義の味方〟として、この世界に必要とされている人だ。死ななくて良かったに決まっている。

「じゃあ、やっぱり大吉ですよ」

 ぼくが笑って言うと、リリーさんはきょとんとする。

「ほら、おみくじです」

「ああ……」

「リリーさんは、大凶の運勢を跳ね返せる人だから、存在そのものが大吉なんですよ。いつだって、天が味方しているんです。だって、地上に降りた女神なんですから」

 ようやく、リリーさんの顔に苦笑が浮かんだ。

「まあ、そういうことにしておこうか……それで、ミカエル、これからのことなんだけど」

 そらきた。

 ぼくは別の星に移され、別の名前でひっそり、残りの日々を過ごすことになるのだろう。この人は義理堅く、別れの挨拶をするために待っていてくれたのだ。宙港にはきっと、出迎えの司法局員か誰かが待っている。そこまでの短いドライブが終わったら、さようなら。

「……市民社会はあきらめて、辺境に出ない? 実はもう、勝手に預け先まで決めてあるんだけど」

「辺境?」

 やっと逃げ出してきた世界に、戻れというのか?

 しかし、リリーさんは真剣な顔で言う。

「一緒に来てほしいの。ミカエルの治療は、辺境でなら、何とかなるはずだから。司法局も、内密で了解済みよ。治療が済んだら、後は好きなようにすればいいから」

 一緒にって……リリーさんと一緒に辺境へ?

「ぼくの好きにって、どういうことです……?」

「仕事とか、生活場所とか。何でも、ミカエルのいいようにすればいい。健康になったら、何でもできるでしょ。辺境でひっそり生きていけるように、あたしが知り合いに頼んであるから」

 つまり、ぼくは生きられるのか? 健康体になって? しかも、一人で辺境に放り出されるわけではないと?

 そんな……そんなことが本当に……? 司法局は、あくまでも遺伝子操作を許さないのではなかったか?

 怖い。信じるのが怖い。そんな都合のいい話。

 でも、だけど……この人は〝リリス〟なのだ。軍人も司法局員も畏怖する英雄。辺境にどんな伝手を持っていても、不思議ではない。

「どうしても戻りたかったら、市民社会に戻ることもできると思うの。顔や名前を変えてね。もちろん、市民社会のルールを破ったことになるから、そう簡単には許してもらえないと思うけど。いずれ、次の局長の代になったら、司法局の空気も変わるかもしれないし。でもそれは今後、気長に考えればいいでしょ? ミカエルはまだ、若いんだもの」

 信じられない。夢ではないのか。リリーさんは、ぼくに未来をくれようとしている。ウリエルやガブリエルには開かれなかった扉が、ぼくの前に開く。

「いいんですか? 遺伝子治療はご法度のはず……」

 だが、リリーさんは確信的に言う。

「ミカエルは元々辺境生まれなんだから、そこまで市民社会に従わなくていいのよ。違法だろうが何だろうが、治療法はあるんだから。脳腫瘍なんかで死ぬ必要、これっぽっちもないでしょ」

 何人もの関係者が、ぼくの命を救う方法を探して、司法局長を動かしたのだと知った。

 市民社会は、ぼくを見捨てたわけではなかったのだ。ごく一部の、お節介な人々のつながりが、リリーさんをぼくの元へ連れてきてくれた。ウリエルとガブリエルを救うのには、間に合わなかったけれど……

 いや、彼らが死んだからこそ、最後に残ったぼくが、同情を受けられたのか。

 それは法の公正にもとるだろうが、ぼくにはもう、感謝しかない。二人には心の中で詫び、有り難く、その申し出にすがることにした。

「ありがとうございます……全て、お任せします」

 もし、これから一年か二年ではなく、二十年も三十年も、もしかしたら、もっと長く生きられるのなら。

 そうしたら、何でもできる。市民社会に恩返しすることだって、リリーさんのために何かすることだって、できるはずではないか。

 世界は鉛色の雲と冷たい雨に閉ざされていたが、ぼくは、頭上に青空が開けた気分だった。

 そう、雲の上はいつも晴れ、というではないか。

 自殺などしなくて、よかった。自棄でテロリストにならなくて、よかった。今日まで生きていて、よかったのだ。

 広大な宙港に着くと、発着場の片隅に小型艇が待っていた。ぼくらは車ごと艇に乗り入れ、そのまま惑星の大地を離れたのである。

   『ブルー・ギャラクシー 天使編』7章に続く

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