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恋愛SF『ミッドナイト・ブルー ハニー編』12章

12章 マックス

 夜の浜辺には、静かな波だけが打ち寄せている。

 小さな月が、空高くにあった。地球本星の月より、かなり小さい。わずかな雲の他は遮るものなく、満天の星が眺められる。

 天気がいい限りは、こうして毎晩、浜を散歩した。暗くても、慣れた道だから、困ることはない。危険な獣もいない。

 島流しには、最適の島。

 この星が、辺境のどこにあるのかは知らない。どこの組織の持ち物なのかも、知らない。ぼくがこの惑星上に置き去りにされてから、もう何か月過ぎたのか。

 日数は数えているが、この星の自転は二十四時間ではないだろうから、標準暦での日付はもうわからない。

 小さなコテージが一軒あるだけの無人島が、ぼくの流刑場だった。処刑される様子はなく、人体実験にも使われず、なぜか放置されているのだ。

 自分で勝手に暮らせとばかり、ささやかな野菜畑と果樹園はあった。放し飼いの鶏の群れもいた。海で貝や魚も捕れる。だから、飢えることなく生きてはいける。

 だが、このまま老人になれというのか?

 不老不死を夢見ていた、このぼくに?

 毎日、毎日、海を眺めては考える。ハニーは権力者の愛人になって、楽しく暮らしているのか。そんなはずはない。ぼくが与えたような本物の愛情を、他の誰がハニーに与えられる。

 ――許せない。絶対に。

 それは、ぼくを陥れ、ハニーを奪った奴らのことではない。慢心し、防備を怠っていたぼく自身のことだ。

 自分は十分に賢く、有能だと思い上がっていた。この辺境でも、上を目指せるはずだと。それがとんでもない間違いだったことを、後ろ手にかけられた手錠の感触が教えてくれた。あの屈辱を、終生忘れることはないだろう。

 もし、ここから脱出できさえしたら。

 だが、他の陸地の影も見えない、絶海の孤島だ。木を切り倒して舟を造ろうにも、道具がない。コテージには、果物ナイフが一本あったきり。

 他に陸地があったところで、違法組織の管理するリゾートになっているだろうから、ぼくは捕獲されて、この島に戻されるだけだろう。

 確かにぼくは優秀だが、全能ではなかった。ぼく程度の者なら、人類社会の中に何十万人もいるだろう。

 そういう奴らが、既に辺境を支配しているのだ。そして、互いに食い合い、進化し続けている。後からのこのこ戦列に加わって、彼らの牙城を崩すなど、ほとんど不可能……だが、わずかな可能性に賭け、挑戦したのに……

 ぎくりとした。星明かりの下、前方の浜辺に誰か立っている。すらりとした、細身のシルエット。

 あれは、女か?

 それとも、寂しさのあまり、幻覚を見るようになったのか。

「ご機嫌よう、マックス」

 この声、聞き覚えがある。誰だったか。

「久しぶりだから、わからないかしら。イレーヌよ」

 イレーヌ。ハニーの顧客の一人だった女。話は聞いていたし、記録映像も見ていたが、それが、なぜここに。

 ゆっくりと、一つの考えに焦点が合っていく。

「……まさか、おまえなのか。ぼくの組織を乗っ取ったのは」

 柔らかなアルトの声が答える。

「ええ、そう。そのために時間をかけて、ハニーと親しくなっておいたの。彼女のことは心配しないで。新しい保護者の元で、安楽に暮らしているわ」

 それがぼくを怒らせると知っていて、わざと言っている。

「何のつもりだ。何しに現れた」

「あなたもいい加減、島流しには飽きた頃だと思って。どう、ここから出たい?」

 つまり、何か交換条件があるのだろう。

「ぼくに何をさせたいんだ。いよいよ、人体実験か?」

「実験なら、とうに始めているのよ。ここは現実空間ではないの」

 何だって。何をぬかす。

 現実ではないというのなら……これが、作り物の仮想空間だと?

 そんな馬鹿な。風も波も重力も、収穫した野菜の味も、鶏をさばいた時の血の匂いも、全て本物……そうとしか思えない……いや、辺境の技術は中央の技術より、数十年分進んでいるとは聞くが……

「ほら」

 女が片手を上げると、まぶしい光が射した。ぼくは反射的に目を閉じたが、用心しながらゆっくり目を開くと、そこは真昼の世界になっている。

 星空の代わりに、白い雲を浮かべた青空。

 短い黒髪、ココア色の肌をした女が、サーモンピンクのサンドレス姿で砂浜に立っている。背景は、白い波頭を寄せてくる海。

 ぼくは足元の砂を蹴り上げ、彼女に目潰しを食らわせた。次の瞬間、飛びかかって押し倒した……つもりが、自分が一人で砂の上に倒れているだけなのを発見した。

 イレーヌは、少し離れた海の上にふわりと浮いている。何の支えもなく、魔法のように。単なる映像ではない。一瞬だが、この手に女の肉体を感じたのだから。皮膚も筋肉も、その下の骨格も確かに存在した。

「納得したかしら?」

 これまで、疑いもしなかった。これが現実でないなどと。

 すると、時間の感覚すら、調整されているのかもしれない。数か月経ったようでも、三日しか過ぎていないとか。あるいは逆に、十年過ぎているとか。

「あなたの本来の肉体は、専用カプセルの中で横になっているのよ。あなたの精神だけが、この夢の中にいるの」

 納得しがたいが、納得せざるを得ない。起き上がって、砂を払った。本物としか思えない砂を。中央製の仮想空間では、ここまでの現実味は得られない。ぼくが行っていた実験など、幼稚園のお遊戯だ。恥ずかしさを通り越して、虚脱感になる。

「何のつもりだ? 何のために、こんなことをする?」

「あら、超越化は、あなたの念願だったでしょう。わたしはあなたに、超越化の機会を提供しているのよ」

 世界がぐらりと揺れ、自分が裏返しになるような気がした。

 この状態が……あれほど実験しても届かなかった……超越化の初期段階だというのか!?

「この世界は既に、古株の超越体の掌に載せられているけれど、その人物は……繰り返し、若い超越体を育てる実験を行っているの」

 若い超越体だと!?

 それは、ぼくを、実験的な超越体として育てるという意味なのか。そして、他の超越体と競わせ、進化を促す? 思うような結果にならなかったら、抹殺する?

「わたしも、その人物に育てられた実験体の一人。あなたも、うまくすれば、わたしのように、その支配者の下で働けるようになるわ」

 倒れ込みそうなほど、ショックを受けた。

 人類はとうに、時代遅れの旧種族になっている。世界はもう、人類を超えた新種族の実験場にすぎないのだ。

 これまで、空想や仮説として聞いたことはある。だが、もはや、認めるしかない。人間同士で争っている場合ではないのだと。人間を超えないことには、実験材料にすらしてもらえないのだ。

「きみが……ぼくを、超越化の実験台にするのか」

「ええ、この銀河を陰から支配している、古い超越体の意向を受けてね」

 いるのか、そんな奴が。本当に。

「そいつが、〝連合〟の本当の支配者なのか?」

「わかりやすく言えば、そう。そのことを知っている者は、ごく少ないわ。あなたも今から、その希少な一人になるの」

 震え上がらせておいて、次はおだてる、か。ぼくたち人間がバイオロイドを支配していたように、こいつらは人間を支配し、使役するのだ。

「あなたがどれだけ進化してくれるか、その人物は……既に人間とは言えないけれど……楽しみにしているわ。優秀な被験体の確保には、苦労しているのでね。あなたなら、怖じ気づいたりせず、冷静に意欲的に、超越化の実験に乗り出してくれるでしょう?」

 よくわかった。

「現実世界でぼくを絶望に突き落とせば、自棄になって、どんな実験にでも協力するだろうと踏んだんだな」

 そうと知っても、ぼくにはもう選択肢はない。退路は断たれているのだ。ハニーも《ディオネ》も、とうに取り上げられている。

「まあ、そういうことね。ずっとこの島で、世捨て人の暮らしをしていたいなら、それでもいいけれど?」

「冗談じゃない」

 危険な実験だということは予測できるが、それしか脱出の道がないなら、受けるしかない。

 たぶん、これまでの実験体は発狂するとか何かで、ことごとく使い物にならなくなったのだろう。だが、このぼくなら、耐えられるかもしれないというわけだ。

「どんな実験なんだ? 何をさせたい?」

「理解も決意も早くて、助かるわ。被験者が超越体として自立するには、本人の決意が必要なの。それがない者は、混乱して自滅してしまうからよ。でも、あなたには生き延びたい理由があるのだから、耐えてくれるわよね」

 とイレーヌの幻はにっこりする。

 そうだ。ぼくは生きたい。自由になりたい。

 奪われたものを、取り返したい。

「あなたが超越体として生き延びられたら、ハニーを取り戻しに行けばいいわ。その時なら、大抵の相手には負けないでしょう」

「ぼくを焚き付けるために、まずハニーを奪ったんだな」

「あらあら、自惚れないで」

 う!?

「ハニーに目を付けたのが、先よ。あなたのことは、そのついで。そのまま抹殺するより、実験に使う方が無駄がないと思ったの」

 ぼくの方が、おまけだと。まさか。

 ハニーは確かに聡明な女だが、それでも普通の女に過ぎない。自分の趣味の店に打ち込んでいれば、それで満足なのだ。それを支えてやるのが、ぼくの喜びだった。

「ほら、わかっていない」

 イレーヌの映像は、憐れむように笑う。

「あなたが一番、ハニーの値打ちをわかっていないのよ」

 何だ? 何を言っている?

 ぼくは、頭の悪い奴らが大嫌いだ。おかげでこの世に、ありとあらゆる混乱が生じている。ところが、いまや、ぼくの方が愚か者として哀れまれているらしい。

「それじゃ、ハニーはいま……」

「最高幹部会に保護されているわ。辺境に、より多くの女性を呼び込むために、彼女の育てた《ヴィーナス・タウン》が役に立つのよ」

 膝が崩れそうになった。何ということだ。ぼくの事業より、女相手のファッション・ビルの方が重要視されるとは!!

 だが、それでは……もしかすると最高幹部会も、その背後の超越体も、思ったほど高度な相手ではないということか。そんな見当外れの抜擢をするようでは……

「ほらほら、それが間違いよ」

 イレーヌは楽しげに笑う。

「あなたは女を、男の人生を飾る花だと思っている。女相手の商売が、どうしてそんなに大事なのかと見下しているわね」

 腹を寒風が吹き通るようだった。ぼくの考えは、ことごとく読まれているらしい。ぼくの脳内で起きる電気的変化や化学的変化は、全て計測され、記録されているのだ。

 いや、もしかしたら、このぼくは、マックス本体の意識の複製だという可能性すらある。実験に使うための複製品その一、その二、その三。失敗したら廃棄すればいいのだから、気軽なものだ。

 既に何十体ものコピーが作られ、様々な試練にさらされ、利用され、記録を取られ、廃棄されているのかもしれない。ぼくはいったい、何十番目のマックスなのだ!? これから、何百体のマックスが創られる!?

 だが、幻のイレーヌは微笑んでいる。

「話が逆よ。生物の本流は、女。男こそ、徒花に過ぎない。遺伝子プールを攪拌するのが役目。考えを変えることね。でないと、たとえハニーと再会できても、あなたは見向きもされないわよ」

 もういい。

 勝手にほざいていろ。

 とにかくぼくは、今のぼくにできることをする。

 ハニー、待っていてくれ。きっと取り戻すから。古株の超越体だって、全知全能ではないはずだ。いつかは間違いをやらかすだろう。その隙を突いてやる。

 だから、それまでは絶対に生き延びなくては。たとえ、どんな目に遭わされても。

   『ミッドナイト・ブルー ハニー編』13章に続く

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