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恋愛SF『ブルー・ギャラクシー 天使編』12章-1

12章-1 ミカエル

 はっとして、目が覚めた。

 寒い。躰がぎしぎしと痛むほど、冷えきっている。なぜ、こんなに寒いんだ?

 自分のいる場所が、すぐには理解できなかった。濡れた地面の上だ。枯れ葉が厚く積もった、森の中。雨の直後らしく、どこもかしこも、ぐっしょり濡れている。あたりにはまだ霧がかかっているが、うっすらと明るいのは、明け方だから?

 自分を見下ろしてみた。着ているものは、白いシャツブラウスとダークグレイのパンツスーツ。靴も履いている。だけど、全て泥まみれだ。

 ぼくは下着一枚で、快適な船室のベッドの中にいたはずなのに!?

 これは夢!?

 それともまさか……これまでのことが、全て夢!?

 ばかな。しっかりしろ。リリーさんは現実だ。ぼくの想像力で、あんな人が創れるものか。

 身震いしながら起き上がったが、服も髪も湿って凍りつきそうだ。雨は上がっているが、木々は雫を垂らし、地面には水溜まりができている。

 麗香さんの船は? ぼくはどうして、こんな所に転がされていた? 湖はどこに……いや、ここはまだ《アヴァロン》なのか!?

 とにかく寒くて、じっとしていられない。歩こう。そして、道を見つけよう。どこへ通じる道かはわからないが。

 腕をさすり、枯れ葉の上で足踏みしながら、周囲の藪の中に、通れそうな道を捜した。林道か、獣道くらいはあるはずだ。誰かがぼくをここへ運び、置き去りにしたのだろうから。

 ところが、霧の向こうで何かの叫びが聞こえた。甲高い人の声。それに、複数の犬の太い吠え声が重なる。

 どきんとして、身がすくんだ。

 違法組織は大抵、警備犬を飼っている。知能強化された、大型の犬たちだ。上位者に従わない者は、一噛みで絶命させられる。ぼくにも、その恐怖は染みついている。

 茂みが、がさがさ割れる気配がした。ぼくが隠れ場所を捜す暇もない。霧の奥から、誰かがよろめき出てきた。

 鏡を見ているかと思ったくらい、ぼくにそっくりな少年だ。白いシャツブラウスにダークグレイのパンツスーツ、さらさらの金髪。しかも、髪は乱れて、服は泥まみれ。

 その子はぼくを見て、驚くのではなく、ほっとした顔をする。

「ああ、よかった。もう、ぼく一人かと思ってた……」

 明らかに、ぼくを仲間と認めた顔だ。逃亡バイオロイドの仲間だと思っているのか!?

「早く、あっちへ行こう。さっき湖面が見えたから。対岸まで泳げば、きっと……」

 その子はぼくを急き立て、腕を引っ張るようにして、道のない森の中を強引に進もうとする。

 違う、ぼくはきみの仲間では……

 そう言いかけて、言えなかった。誰が見ても、同類そのものではないか。ぼくに強力な保護者がいるなんて、どこの誰が信じてくれる? 何か事情が変わって、ぼくはここに置き去りにされたのだろうか。それでは麗香さんの身にも、何か災いが?

「ねえ、きみはどこの組織から……」

 尋ねかけた矢先、後ろで再び茂みが割れ、黒い塊が飛びかかってきた。金髪の少年はあっけなく押し倒され、湿った枯れ葉の上に転がる。

 その首に、首輪をつけた大型犬が噛みついた。深く噛みついたまま、激しく揺さぶる。細い首からは、動脈血とわかる鮮血が吹き出した。少年は声もなく、弱々しくもがくだけ。みるまに、手足から力が失せていく。

 ぼくには、助けようという発想もなかった。反射的に駆け出し、遮二無二、藪を割ってそこから逃げた。

 恐怖でしびれたまま、ひたすら駆ける。木の枝でシャツが破れ、あちこち傷だらけになったが、もはや痛さも感じない。逃げなければ、ぼくも同じ運命だ。
 
 不意に視野が開け、数メートルの高さの崖の上に出た。流れる霧を通して、青黒い湖面が見える。金髪の子の言葉が甦った。対岸まで泳げば……そうすれば、犬の追跡から逃れられる!?

 崖をお尻で滑り降り、ざぶざぶと湖に踏み込んだ。しびれるほど冷たかったが、恐怖心の方が強い。必死で泳いで、岸から離れた。途中で、邪魔になる靴を脱ぎ捨てた。平泳ぎしかできないが、ひたすら沖へと泳ぎ続ける。

 背後の陸地で犬の吠え声を聞いたので、ますます必死になった。もし、あいつが泳いで追ってきたら。

 はっと気がついて、息を吸い、水面下に潜った。犬に潜水はできないはずだ。いや、できるかもしれないけれど……ぼくの姿が見えなければ、あきらめてくれるかも。

 我慢の限界まで潜っていて、息継ぎのために顔を出すと、また潜って前進した。少しでも遠くへ。

 あとはもう、泳いで、泳いで、ひたすら泳ぎ続けて……

 永遠に泳いでいる気分になった頃、靴下だけの足が地面に着いた。湖を泳ぎ渡ったのだ。こちら岸もまた、深い森が続いている。だが、霧が薄れているのが不安だ。

 水から上がると、一気に躰が重くなった。全身が鉛のようだ。すっかり冷えきっていて、力が出ない。

 倒れそうになるのをこらえ、木々を伝って歩いた。靴下だけなので、石や枯れ枝が足裏を傷つけるが、それに構うゆとりもない。少しでも、遠くへ行かなくては。

 あれは、おそらく〝兎狩り〟だ。生存期限のきた奴隷たちを森へ放ち、犬や新兵たちに追わせる……訓練と処刑を兼ねた行為。話には聞いていたし、映画でも見ていたが、まさか、自分が獲物にされるとは……

 そこでようやく、頭が働いた。自分が、あの少年とそっくりの制服を着せられていたということは……それを指図したのは、もしや麗香さんなのか!?

 誰か敵対者が麗香さんを捕まえたり、殺したりしたなら、おまけのぼくのことなど、なおさら生かしておく値打ちはない。その場で処刑して終わりだ。わざわざ服を着せ、森に捨てる意味がない。

 左手を確認した。やはりだ。ぼくの指からは、サファイアの指輪が消え失せていた。残っているのは、指輪の痕だけ。

 そういうことか。

 あの人は、ぼくを薬で眠らせ、着替えさせて、森に置き去りにした……どこかの組織の〝兎狩り〟が、翌朝に行われることを知っていて。

 なぜなんだ。自分の手で殺せば簡単なのに。わざわざ他人に殺させようとするのは、どういう了見なのか。

 頭の中がぐるぐる回る。

 足元に奈落が口を開けていて、そこへ落ちこみそうになる。

 麗香さんは最初から、ぼくのことなど認めていなかったのだ。リリーさんのいつもの〝恋愛ごっこ〟にすぎないから、預かっておいて、熱が冷めるのを待てばいいと……

 いや、違う。

 それならば、笑って放置しておいたのではないか。

 あれほど毎晩、時間をかけて辺境の歴史を語ってくれたことは、ただの暇潰しなどではなかったはず。地下の研究施設を見せてくれたのも、ぼくを教育するため。

 では、危険だと思われたのだ。ぼくが、予想よりも賢かったから。あるいは、予想よりも真剣だったから。

 このままだと、いずれ、リリーさんとヴァイオレットさんの間に、決定的な亀裂を作るかもしれないから。

 麗香さんにとっては、ぼくのような馬の骨より、手元で育てたヴァイオレットさんの方が、はるかに可愛くて当たり前。どちらかを選ぶしかないなら、実績のある方を残すのが合理的。

 ぼくのことは、治療が間に合わずに死んだことにすればいい、と思ったのか。それとも、運悪く他組織の抗争に巻き込まれた、とでも言い訳するのか。よく似たバイオロイドの子供を整形し、冷凍死体にでもしておけば……

 いや、既に火葬したとか、埋葬したとか言うだけでいい。そして指輪を形見として渡せば、リリーさんは、麗香さんの言うことを信じる。自分自身が善良だから。

 麗香さんは最初から、こういう予定で、ぼくを遠くの都市へ連れ出したのだ。

 でなければ、あるいは……

 これは、試験なのかもしれない。この程度の困難、自分で乗り越えられないのなら、リリーさんの伴侶になる資格はないと。

 それならば、昨日まで飲まされてきた薬は、ただのビタミン剤か何かだったのかもしれない。きっとそうだ。ぼくの脳内では、依然として腫瘍が育っているに違いない。試験に合格しなければ、助ける値打ちもないというわけだ。

 冷えきった躰の底から、かっと熱が湧いた。疲労した肉体を動かすに足る熱だ。

 ――死んでたまるか。

 もう一度、リリーさんに会うまでは。そして、真実をぶちまけるまでは。

 人間にとってはバイオロイドなど、ただの道具。麗香さんにとっては、一族の者たちですら、自分の研究材料なのではないか。

 リリーさんはきっと、お気に入りの作品。

 しかし、ぼくは生きている。使い捨てになど、されてたまるか。絶対に、生きてリリーさんの元へ戻る。負けるものか。あんな魔女なんかに。

 そして、リリーさんに教えるんだ。麗香さんは、貴女が尊敬するような人じゃないって。あの人のことを、信じてはいけないって。

 それでも、現実は絶望的だった。寒風が吹きつけ、体温を奪っていく。濡れた服は、すぐに何とかしなければ。犬が追いかけてきたら、その時のこと。

 人気はないので、周りを茂みで囲まれたわずかな空き地で、素裸になった。濡れた服を堅く絞って、乾かすために茂みに広げる。下着を絞って全身を拭き、そのままごしごし擦り続けた。それに疲れると、足踏みしたり、腕を振り回したり、屈伸したりした。

 おかげでどうにか、体温が戻ってくる。戦闘用の強化体ではないが、バイオロイドはそもそも丈夫なのだ。

(それにしても、これからどうしたら……)

 まだ陽光は射さないが、霧は晴れてきた。薄汚れた服で迂闊に道路に出れば、逃亡バイオロイドだとみなされ、射撃練習の的にされるかもしれない。

 いいや、麗香さんの放った探査鳥にでも発見されたら、それで終わりだ。こうしている姿さえ、昆虫ロボットなどに撮影され、届けられているのかも。

 枯れ葉が乾いていれば、その中に潜って暖をとることもできたが、昨夜の雨で濡れたままだ。いや、昨夜ではなく、もっと前なのかも。

 服が乾くのには、まだ時間がかかる。ついに、空腹と疲労で脱力してしまい、うずくまって膝を抱えた。

 服を着ていないだけで、こんなに惨めとは。人類は裸の猿だというが、本当の猿なら、裸でいて惨めなどとは思わないだろうな……

 そこで、はっとした。何かが森を駆けてくる音がする。枯れ葉を蹴立てる気配、複数の荒い息づかい。

 あっと思った時には、前足の体当たりで地面に押し倒されていた。首輪をした猛犬が、ぼくの喉を狙ってくる。湖を渡ったくらいでは、逃げ切れなかったのか。

 必死で腕を突っ張り、犬の口先をそらしたが、もう一頭いる。二頭にのしかかられて、身動きがとれない。どちらか片方だけでも、ぼくより体重がある大型犬だ。このままでは、頸動脈を食いちぎられる。そういう訓練を受けた犬たちだ。

 だが、やがて気づいた。犬たちはぼくを押さえ込んだまま、任務を果たしたというように、尻尾を振るだけだ。生け捕りに変更したのか? それとも最初から、動くものを捕まえたかっただけ?

 森の奥から、ヒューッという口笛が聞こえた。犬たちはぼくの上で向きを変え、返事をするように吠える。今度は、人間たちのお出ましだ。十人前後の気配が、ざわざわと近付いてくる。

「おやおや、はぐれバイオロイドか」

 呑気そうな声が降ってきた。

「もういいぞ。どけ」

 犬たちが、ぼくから離れた。素裸のぼくが上体を起こすと、何体もの護衛兵を連れた人間の男が、枯れた茂みの向こうにいる。

 ゆるくカールした金髪に褐色のサングラス、着古したようなキャメル色の革ジャケット。三十代くらいに見えるが、実年齢はわからない。

「ユン、どこかで〝兔狩り〟をやってるか?」

 すると、後ろにいた秘書タイプの、短い黒髪の女が答えた。

「はい、対岸で一騒ぎあったようです。事前に、管理機構に届けが出ていますね。部外者は近づかないようにと」

「ということは、湖を泳ぎきったのか。たいしたものだ」

 サングラス男の合図で、戦闘服のアンドロイド兵士がぼくの腕を取り、ぐいと引き起こした。まさか、素裸で女性の前に立たされるとは。悔しさと恥ずかしさで、どうしていいかわからない。

「やれやれ、因幡いなば白兎しろうさぎだな」

 サングラス男は苦笑している。関係ないのだったら、ぼくを放っておいてくれ。

「ジャン=クロードさま、お願いです、どうか」

 横から、澄んだ細い声がした。見ると、ぼくと同じくらいの背丈の、ほっそりした少女だ。カールした長い黒髪に淡い桜色の肌、膝まである暖かそうな白いコート。その少女が、サングラス男に取りすがるようにして言う。

「どうか、助けてあげて下さい……お願いします」

 バイオロイドの侍女なのか? だが、バイオロイドの願いなど、人間の主人が聞くはずはないのに?

「ああ、わかってる。見てしまった以上はな」

 ジャン=クロードと呼ばれたサングラス男は、気のない様子ではあったものの、少女の願いに応じた。

「一匹くらい、対岸の連中も気にしないだろう。セイラ、おまえが世話をしてやれ」

「はい!!」

 セイラと呼ばれた少女は、灰色の瞳をきらきらさせて、ぼくに近づいてきた。そして、兵に腕を取られたままのぼくに言う。

「あなた、もう大丈夫よ。安心して。わたしも前に、ジャン=クロードさまに拾っていただいたの」

 安心だって!?

 この世のどこに、安心が!?

 しかし、少女は手を振って兵たちを下がらせると、するりとコートを脱いで、紺の上品なワンピース姿になった。そして、ふかふかの白いコートを、ぼくの裸の肩にかけてくれた。そんなことをしたら、コートが泥で汚れてしまうのに。

   『ブルー・ギャラクシー 天使編』12章-2に続く

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