恋愛SF『ミッドナイト・ブルー グリフィン編』10章-2
10章-2 リアンヌ
「あの子が、何か失敗でも? 一生懸命勤めているのに」
「その、一生懸命が困る」
シヴァは説明をためらったが、言うしかないと覚悟したようで、苦々しく白状した。
「今夜、俺の寝室に裸でいた」
あ。
「そんなことを要求したつもりはないんだが、何か誤解があったらしくてな。叱りつけたら、泣き出しやがって」
胸が痛んだ。リナがとうとう、そんな挑戦をしたのか。それでシヴァは、船から逃げ出してきたわけだ。
可哀想に。リナにとっては、父親代わりのリザードの他に、辺境で初めて出会った、まともな男だろう。捨て身でぶつかったのに、叱られて突き放されて。
確かに、シヴァとリナでは、無理な組み合わせだと思うが。しかし……もう何年かすれば、リナも大人になるはずだ。
「なぜ、抱いてやらなかったんだ」
と言ったら、シヴァはぎょっとしたようだ。
「まだ子供だぞ!!」
わたしは内心、可笑しくなった。こういう面では、シヴァは鈍すぎる。
「あの子がきみに恋しているのは、きみ以外の誰の目にも明らかだ」
と言ったら、愕然としたようで、腰を浮かせては座り直し、上を向いたり横を向いたり、気の毒なくらい狼狽えている。辺境で何十年も生き抜いてきたはずなのに、世慣れない少年めいた素顔がのぞくのは、基本的に善良だからだろう。
「そんなはず、あるか。あのガキ、何度も俺に溶解弾を……」
「それだけ、きみを意識しているんだ」
誰かが気になって、些細な言動で一喜一憂してしまう。それは、今のわたしのことだ。こうやって、二人で向き合える時間がどれほど貴重なことか。レティシアはきっと、わたしの内心に気付いただろう。部下を差し向ければ済む用事に、わざわざ自分で出張るなんて。
「だからって、唐突すぎるだろ!!」
やはり、男は鈍い。リナはもう何か月も、シヴァに熱を上げていたのに。
「本人だって、悩んだ挙句のことだろう。リザードだって、別に文句は言わないはずだ。愛人にしてやればいいだろう。きみに損はないはずだ」
すると、シヴァは、わたしに食ってかかってきた。
「おまえ、男には感情がないと思ってるのか!? 女に迫られたら、どんな女だろうと、直ちに尻尾を振って喜べとでも!?」
わたしは戸惑った。なぜ怒る。リナのような可愛い娘に迫られて。
「据え膳喰わぬは何とやら、と言うじゃないか」
シヴァは立ち上がった。本気で怒ったらしい。
「もういい!! おまえら女の傲慢と無神経は、もうたくさんだ!! 男の側にだって、事情も都合もあるんだからな!!」
そしてヘルメットを取り、外の雨の中に出ていこうとする。わたしは急いで動き、扉の前に立ち塞がった。やっと捕まえたのに、また逃しては厄介だ。
「待て。それなら、きみの都合とやらを聞こう。とにかく、単独で走るのは困る」
もう、そんなことが許される立場ではないのだ。
「勝手に困ってろ。そこをどけ。俺のバイクを返してもらおう」
彼の手がわたしの肩にかかり、無造作に横へ押しのけようとした。それだけだ。しかし、大きな手の感触を感じた途端、何かが弾けた。もう二度と、こんな機会はない。雨の夜中に森の奥で二人きり、などという機会は。
わたしは咄嗟に、両手でシヴァの手首を掴んだ。彼がぎょっとしたのを見て、余計、捨て鉢の勇気が湧いた。どうせ既に、嫌われている。これ以上、悪くなることはない。
「行かないで」
シヴァが理解不可能という顔で、呆然と立ち尽くしている。
「まだ、行かないで……」
シヴァの手を両手で握り直し、そろそろと自分の胸に引き寄せた。彼は唖然としたまま、黒い目でわたしを見下ろしている。大柄なわたしより、更に大きく強靭な男。彼が怒れば、一撃でわたしを殺せるだろう。その彼の手を自分の胸に抱えるようにして、訴えた。
「頼むからから、もう少しだけ、ここにいてくれないか。怒ったのなら……謝る。でも、きみにはわかっていないんだ。女には、女の本能がある。セレネもレティシアも、きみが〝本物〟だとわかったから、きみに甘えているんだ」
本当の男。ハンターとして飛び回る従姉妹たちを守りたいために、グリフィンという憎まれ役を引き受けた。これから、何十年続くかわからない苦労なのに。
「甘え……甘えている、だと? あいつらが?」
シヴァは面食らっている。辺境で出会う女は、みな男を食う鬼女の類だと思っているのだろう。そうではない……ただ、それぞれの事情で、市民社会を離れただけのこと。
不老不死が目的かもしれない。好きな研究がしたかったのかもしれない。惚れた男に騙されたのかもしれない。何であれその結果は、自分で引き受けるしかない。
「そうだ。女である限り、男を求める本能がある。リナだって、きみが大好きなんだ。それを、彼女なりのやり方で表した。なのに、きみがそんな風に怒ったら、彼女は立ち直れない」
こう言ったのは、リナのためではない。わたし自身のためだ。
「優しくしてやってくれ。哀れみで構わない。きみが愛しているのは従姉妹たちだけだと、みんな承知の上なんだから」
シヴァは凍りついたように、動かない。わたしの手を、振りほどくこともしない。ただ、息を深く吸い込んだ。
「わからん」
心底、混乱しているような声だ。
「おまえは、何がしたいんだ? 俺を、どんな罠に落としたい?」
つい、かっとした。人がここまで真剣に訴えているのに、まだ疑うのか。
わたしはシヴァの手を放し、浅黒い顔に平手打ちを見舞った。普段の彼なら避けたかもしれないが、今はまともに打たれて、後ろによろめく。信じられない、という顔をして。
勝手に怒ればいい。
わたしだって、怒っている。
辺境にいる女たちはみんな、男たちの冷酷、身勝手に呆れ、自衛のために強く振る舞っているのだ。そうでなかったら、たちまち餌食にされ、転落してしまう。
「きみにとっては、従姉妹以外の女は、本当にどうでもいいんだな。リナがどれだけ傷つこうと、平気で見限れるんだ。あの子は精一杯、きみのために尽くしているのに。セレネだってレティシアだって、きみに惚れているのに。わたしだって……」
しまった。自分が、耳まで真っ赤になるのがわかる。これでは、リナより幼稚ではないか。
(まだ懲りていないなんて、何という馬鹿なんだ。シヴァはわたしのことなんか、厄介な監視人としか思っていないのに……わたしなんか、女のうちにも数えていないだろう)
皮肉な話だが、女としてのわたしに価値を認めてくれたのは、わたしをポルノ映画に使った連中だけだった。それも、元軍人という経歴が売り物になったから。どれだけ痛めつけても、自殺せず、回復したから。他の女なら、百回は死んでいただろう。
「もういい……引き留めて、悪かったな」
わたしはシヴァの顔を見ないまま扉を開き、彼を冷気の中へ押しやった。
「さあ、どこへでも行けばいい。きみがどうなろうと、もう心配などしてやらないから。事故を起こして死んでくれたら、わたしには好都合だ!!」
けれどシヴァはなぜか、扉の横のバーに掴まったまま、最後のステップから降りようとしない。外から吹き込む雨が彼を濡らすが、いまさら、寒いのは嫌だと言うつもりか。
「ちょっと待て。自分だけ言いたい放題言って、俺には反論させないのか」
「何の反論だ」
「それを考えさせろ。俺に考える時間を与えないのは、卑怯だぞ」
驚いた。卑怯とは。
つい顔を上げてしまったら、段差の上にいるせいで、間近に向き合ってしまった。疑問を浮かべた真剣な目が、真正面からわたしを見ている。視線を合わせてしまったことが苦しくて、目をそらせてしまった。
「単細胞のくせに、何を考えるんだ。女の気持ちなんか、いくら無視しても平気なくせに。一生涯、従姉妹のことだけ見ていればいい」
ああ、もう、何が言いたいのか、支離滅裂だ。シヴァもまた、怒った声で言う。
「だから、人を、人でなしみたいに決めつけるな。俺だって、好きで雨の夜中に走り回ってるんじゃない。だいたい、なんでおまえにぶたれたり、追い出されたりしなきゃならないんだ。おまえ、俺を迎えに来たはずだろうが!!」
この馬鹿。
死んでしまえ。
わたしは身を寄せ、彼の頬に手をかけて、口にキスをした。唇を通して、体温が伝わってくる。頑丈な骨格と、鍛えられた筋肉もわかる。どちらの顔にも雨が流れ、襟元から冷たく染み込んでくるが、そんなことはどうでもいい。
(最初で最後だ)
あとは、いくらでも勝手に怒れ。わたしはもう、気が済んだ。これでもう、こいつのことは拭い去れる。元の自分に戻れる。こんな奴、どうとでもなってしまえ。死のうが生きようが、好きにすればいいのだ。わたしだって、明日の運命などわからない。何か失敗をすれば、リザードに切り捨てられる身だ。
ところが、シヴァから離れようとした瞬間、がっと背中に腕を回された。あっと思った時には、彼の胸に強く抱え込まれて、キスを返されている。最初は慎重に、やがて積極的に。
何が起きたのだ。
どうしてこうなる。
これまでの人生で、ただの一度も、こんなキスをしてもらったことはない。逃げられないほど強く、情熱的なのに、それでもどこか遠慮がちなのがわかる。
わたしが噛みつくとでも思うのか? それとも、隠し持ったナイフを抜いて、刺し殺すとでも?
抱かれているうちに、ゆっくりと力が抜けていった。酔ったようになり、膝から崩れ落ちてしまいそうだ。けれど、強い腕に支えられているから、倒れられない。
キスが終わっても、シヴァはわたしを離さなかった。腕でわたしを囲ったまま、じっとしている。いや、気がついたら、身を震わせ、低く、むせるように笑っているではないか。
「何がおかしい!!」
わたしがつい、うっとりしてしまったから、それを笑いものにしたいのか。そんな底意地の悪い奴だったのか。
シヴァは両腕をわたしの背中に回したまま、笑いながら言う。
「おかしいよ。おかしいだろ。人生で、やっと二度目なんだ。女の方から、キスしてもらったのなんて……」
えっ?
この声、まさか……泣いている? こんな、殺しても死なないような、ふてぶてしい大男が?
シヴァが膝を折り、ずり落ちた。わたしに腕を回したまま、わたしの腹に顔をつけて、泣いている。声を殺して。
わたしは、わたしの魂が裂けたと思った。シヴァの魂も、裂けて血を流している。
そうなの。
魂の居場所を探していたの、あなたも。
前にあなたにキスをしたのは、死んだバイオロイドの娘? その娘のことを、思い出したの? 他には誰も、愛してくれる女はいないと思っていたの?
わたしも床に膝をつき、シヴァを抱きしめた。黒髪の頭を撫でてやり、雨と涙で濡れた顔を胸に抱き寄せた。
難破船が二隻、嵐の海の中でぶつかったようなものだろうか。彼がわたしに弱味を見せるのは、今夜だけのことかもしれない。でも、それで構わない。わたしも今だけ、ただの女に戻るから。
『ミッドナイト・ブルー グリフィン編』10章-3に続く
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