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恋愛SF『ミッドナイト・ブルー ハニー編』13章-1

13章-1 ハニー

 あまりにも馬鹿馬鹿しくて、笑ってしまう。半年もの間、繰り返し空想していたことが、全て無駄だったなんて。

 イレーヌの親切というべきか、お節介というべきか。

 シヴァがわたしの元の顔を知っていたなら、何も思い悩むことなんて、なかったのよ。彼は自分からは、決してわたしに近づこうなんてしなかったのだから。

 わたしでさえ、鏡で見るあの顔には耐えられなかった。惨めで、哀れで、そのくせ物欲しそうで。

 それなら、シヴァがわたしを危険な病原体のように避けていたのは、当たり前。健康な男なら、自分の欲望を掻き立ててくれる女を求めるのが自然なのだもの。たとえ、協力してここから抜け出す可能性があっても、わたしなんかに慕われたりしたら、耐えられないと思っていたんでしょう。

 今のこの美しい顔は、作り物。

 本当のわたしは、まだどこかに取り残されている。成仏していない幽霊のようなもの。

 誰かに愛されたくて、幸せそうな人々の中に混じりたくて……欲張ったつもりはない。ただ〝普通〟になりたかっただけ。

 でも、道を間違えた。辺境の無法地帯では、市民社会にあった建前すら、顧みられない。市民社会が残酷だと思うなんて、二十歳の頃のわたしは、何て世間知らずだったことか。

 ……とにかく、これでもう、問題は一つだけになった。いかにシヴァの協力を引き出して、イレーヌを納得させ、ここから出してもらうか。

 とにかく彼だって、この楽園に閉じ込められて、退屈しきっていたのは確かなのだから。わたしのことが嫌いだろうと、おぞましかろうと、協力するしかないはず。少なくとも、わたしは彼に協力を求めていく。それしか、出来ることがない。

 夜遅く、自分の部屋でカクテルグラスを手にして窓辺に座り、真っ暗な夜の湖を前にして、頭を冷やそうとした。冷静に、明日からの戦術を練るのよ。希望は見えたのだから。

 それでも、心は鉛色のままだった。お気に入りの部屋着を着ていても、薔薇の香りの香水をまとっていても、気持ちが落ち込んだまま浮上せず、どうかすると泣けてきそう。

 ――何をがっかりしているの。もう、口説かれる心配も、襲われる心配もしなくていいだけなのよ。気持ちを切り替えなさいよ。ここから出て《ヴィーナス・タウン》に復帰することが、わたしの最大の望みでしょ!? わたしの店、わたしが育てた部下、大勢の顧客。

 そうは思ってみても、しばらくは自分が無気力状態に陥るのはわかっていた。あらゆる薔薇色の夢想が……ただの幻想で終わるのだから。

 口説かれる夢。

 焦がれられる夢。

 たくましい腕に引き寄せられる夢。

 そうね。美人として振る舞うことに慣れてしまったから、そこから突き落とされて、やっと思い出したのよ。本来の惨めな自分を。

『ああ、あの子はただの後輩だよ。従姉妹から頼まれてたんだ。親切にしてやってくれって』

 大学生の頃、ほんのり憧れていた同郷の先輩が、友達にそう言っているのを聞いてしまった。彼に悪意はなかった。これっぽっちも。いつものさわやかな笑顔のまま、ぽろりと洩らした。自分に親切にされた娘が、どんな期待を抱くかなんて、想像もしなかったのだ。

 そう、美しくも可愛くもなかったら、男たちにとっては、透明人間のようなもの。何も期待はしないと、あの時、心に刻んだはず。マックスのような、損得の計算で動く男でなかったら、わたしになんか近づいたりしない。

 シヴァだって、イレーヌから何を言われようと、自分からは決してわたしに近づいてこなかった。わたしが真正面からぶつかったから、しぶしぶ、向き合うことにしただけ。

 なのに――いつからだろう。遠くから、シヴァの背中を目で追うようになったのは。

 部屋のバルコニーから、遠くの小道に彼の姿を見つけただけで、胸がざわめく。彼の動きを、ずっと見守り続けてしまう。

 不意に屋内で出くわしたりすると、息が止まりそうになる。平気なふりですれ違って、そっと振り向いてみた時には、彼は遠く離れてしまっている。

 あの男は、何を考えているのだろう。意地でも、あてがわれた女になんか近寄らない? 視線すら合わせないよう、徹底して避け続けるつもり?

 とことん無視されているのがわかると、最初は身の安全が得られてほっとしたけれど、そのうち悲しくなり、しまいには腹が立ってきた。

 ――いったい、あなたは何様なの。

 わたしをこのまま、広い屋敷の中に泳がせておいて、何の関心も持たないつもり。イレーヌが言ったように、失恋で不貞腐れて、自分から心を閉ざしたまま?

 だけど、わたしは生きて、ここに存在しているのよ。

 こちらを見たらどう。

 何か言ったらどう。

 少なくとも、悪辣な青髭公でないのはわかった。むしろ、隠遁者のようなもの。あんなに立派な体格をして、ハンサムで、健康そうなのに、自分の人生はもう終わったと思っているのね。

 それはある意味、傲慢なのではないの? まだ若さが残っているのに、自分を救う努力はしないの?

 わたしはといえば、女盛りの自分を持て余していた。不老処置を受けなくても、まだ肌は張りきっているし、毎月、生理は巡ってくる。肉体がうずいて、眠れない時もある。

 以前はマックスがいた。わたしの肉体を愛し、ほどよく満足させてくれた。今は……今、ここにいる男性を、つい自分の想像の中に登場させてしまう。

 シヴァに手を取られて引き寄せられ、抱きすくめられたら、どんなだろう? あの大きな手で、全身を愛撫されたら?

 困ったことに、その想像は癖になった。考えずにはいられない。もし、彼がこちらを見てくれたら? わたしが生身の女だと、気がついてくれたら?

 あの広い背中にしがみついて、頬をすりつけてみたいと思った。腕を彼の腹に回し、躰を密着させてみたい。そうしたら、彼はどんな反応をするだろう。迷惑がって、わたしを冷たく突き放すか。それとも振り向いて、あの黒い目で不審そうにわたしを見据え……困ったように尋ねてくるか。

『どうしたんだ!? 何がしたいんだ!?』

 マックスに対しては、こんな風に思ったことはない気がする。背中が素敵、だなんて。

 マックスは、わたしに向き合っている時は優しくても、他の方を向いている時には、怖いほど冷徹だったから。うっかりとりすがって、彼が振り向いた時、悪鬼の表情だったらと思うと、震えがきてしまう。

 組織内にいる者たちは、人間もバイオロイドも、全員マックスのことを恐れていたはずだ………わたしも含めて。自分の組織を拡大させようとしたら、悪鬼になることも、時には必要だったのだろうけれど。

 それが彼の仮面ではなく、本質だとしたら……まともに見てしまうことは、ひどく危険なことではないか。

 でも、シヴァの背中には、彼の包容力が現れている気がする。無愛想な顔をして、古びた服ばかり着ていても、実は、教養のある理知的な男だとわかってきた。屋敷内の図書室にある蔵書を手に取ってみたら、彼が読んだ痕跡がわかったから。

 古典文学、哲学書、歴史書……そして、少し前に流行った恋愛小説まで。この棚にも、あの棚にも、彼の彷徨の跡がある。

(あの人も、これを読んだんだわ)

 わざわざ印刷され、装丁された紙の本を。イレーヌが用意したのだとしても、シヴァの趣味がわかっていて、揃えたのでしょう?

 できたら、感想を聞いてみたい。わたしも読んだのよ、と伝えたい。でも、わたしが彼の内面を詮索するような真似をしたら、それこそ、ぴしゃりと心を閉ざされてしまうのでは。

 それからは、こっそりと様子をうかがうのが日課になった。一人で庭園を歩いている姿。厩舎で馬の世話をしている姿。湖の岸にたたずんでいる姿。

(これじゃ、わたしの方がストーカーみたい)

 そうは思っても、シヴァがどこにいるか、何をしているか、つい知りたくてそわそわする。湖岸でじっとしているかと思うと、不意に走り出して、そのまま湖の周囲を何周もしたり。時には、下着一枚になって、ざぶんと湖に飛び込んだり。驚くほど長い時間潜っていたりするので、溺れたのではないかと心配してしまう。

 そのシヴァと、朝晩の挨拶だけでも交わせるようになった時は嬉しかった。「ああ」とか「うん」だけの返事でも、じかに声が聞けて。

 いくら贅沢な屋敷でも、一人きりでは、あまりにも侘しかったのだ。アンドロイドの侍女や護衛兵たちは、最低限の受け答えしかできないのだし。

 人と話せないことが、こんなに辛いとは思わなかった。人に心を閉ざしていた少女時代でも、わたしは家族と一緒だったし、学校にも通っていたから、本当の一人ではなかったのだ。

 ずっとこのままでは、自分が生きているのかどうかも怪しくなる。ここは冥府で、わたしはとうに死んでいるのかもしれないじゃないの。

 そうして覚悟を決め、シヴァにぶつかり、初めてまともな会話ができた。共に幽閉されている者として。

 彼から聞いた話は、驚くようなことばかり。まさか、初代のグリフィンだったなんて。そして、物陰から従姉妹たちを守ってきたなんて。

 きちんと子育てしている〝違法〟組織があるというのも、驚きだった。愛犬を知能強化して、人間以上の存在にしてしまったということも。あのイレーヌが、人間の女ではなく、犬の〝端体たんたい〟の一つだということも。

 辺境の文明は、古い法や道徳など、はるかに超えてしまっている。

『ああ、あいつももう、超越体だと言っていいのかもしれないな。他にどれだけ、人間から進化した超越体がいるのか、知らないが』

 とシヴァはあきらめ半分のように言っていた。最高幹部会のメンバーがそうなのかもしれないし、彼らもまた、最高位の超越体が使う〝端体〟なのかもしれないと言う。

 底知れない世界。

 わたしのような旧人類は、置いていかれるだけ。

 もちろん、だからといって、人類が長く拠り所にしてきた『共感』や『哀れみ』を捨て去っていいとは思えない。そういう優しさがない社会は、きっと砂漠のようなもの。無限の戦いが続くばかりでは、普通の人間はとても耐えられない。

 シヴァもやはり、『誰かを愛する』ことが必要な旧人類らしい。彼が保護した茜のこと、アマゾネス部隊を率いていたリアンヌのことを、痛切な後悔と愛惜を込めて語ってくれた。

(そうなの、愛した人がいたのね……もちろん、そのはずよね。七十年も生きてきたのなら)

 聞いているわたしは、うらやましさで胸が痛くなった。シヴァは今でも、彼女たちの思い出を大事にしているのだ。マックスなんか……無事でいるのかどうか、それすらわからないけれど……わたしが死んだら、思い出しもしてくれないわ、きっと。

 そう、わたしはこれまでマックスしか知らなかったから、どうしても、彼との対比でシヴァを捉えてしまう。

 マックスは都会的で洗練されたハンサムだったけれど、シヴァは野性的で飾り気がなく、質実剛健そのもの。

 それでいて、グリフィンという権力の座に長くいたという不思議。

 あの〝リリス〟の従兄弟だというのだから、まさに辺境の中枢近くにいる人物なのだ。

 それが、うまくいけば、わたしの事業の後援者になってくれるらしい……本当に実現するなら、夢のような話。有力都市に支店を出せるし、人材も集められるし、あちこちから逃げてくる女たちの避難所にもなるだろう。

 問題は、わたしたちがカップルにならない限り、ここから出してもらえないらしい、ということ。

 その点だけは、イレーヌの見込み違いだわ。わたしの元の顔を知ってしまった男が〝食欲〟をそそられることなんて、ないはずだもの。よほど、切羽詰まった状況に陥らない限り。

 そのあたりが、わたしにも計りかねた。イレーヌはなぜ、そんな過去まで掘り起こして、わざわざシヴァに伝えたのだろう。いずれは彼が、自分で調べてしまうから? だったらその前に、苦い真実を伝えておく方が安全? あとはシヴァの自己責任?

 こんな場所に幽閉されて、何年も女なしで暮らしてきたのなら、いえ、リアンヌという恋人を失って以来、自分の意志で女を断ってきたのなら……心身の飢えが、限界に来ていると判断したの?

 彼がわたしを避けてきたのも、『つい衝動に負けそうになる自分を抑えるため』という意味があるのだとしたら……

 いえ、やっぱり違うわ。そんなやせ我慢で、半年も知らん顔し続けられるはずがない。少しでもその気があるなら、とっくに、それらしいことを匂わせていたはず。

 辺境に出て整形するまでは、マックス以外、ただの一人も、わたしに関心を持ってくれた男なんていなかったじゃない。この世に醜い姿で生まれてしまった、それがそもそも、取り返しのつかない間違いなのよ。

 魂に劣等感が刻まれてしまったら、表面だけ繕ってもだめ。演技したところで、本物の〝美女〟にはなれない。

 自分で、自分は違うと知っているのだもの。

 本物の美人は、子供の頃から自分の美しさを知っている。愛され、賛美されることが当たり前。ごく自然に、美しい女として振る舞える。美しい自分が、本来の自分。

 成人してから整形したわたしには、それができない。

(美人なら、こう答えるはずだわ)

(こう振る舞うはずだわ)

 常に、小賢しい計算をしながら動いている。だから、慣れたつもりでも、どこかでぼろが出る。人間のふりをするバイオロイドみたいなもの。美人の真似事をしているだけ。大抵の男は女の表面しか見ないから、それで騙されるけれど。

 でも、だからこそ、〝本物の美〟にこだわる性格になったとは言える。研究するのは好き。ドレスも宝石も香水も、最上のものがわかる。絵画でも骨董品でも、一流と亜流の判別がつく。わたしが醜かったことが、事業の成功につながったのだ。

 だとしたら、今はそれに感謝できる。普通に可愛い娘に生まれていたら、市民社会に疑問を持つこともなく、平凡な一生を送ったはずだから。

 こうなった以上、これがわたしの人生。余計な期待は捨てて、仕事に復帰することだけを考えるのよ。わたしには、それしかないのだから。

 明日、シヴァに会ったら、澄まして挨拶して、作戦会議を持ちかけよう。目的を同じくする同志。それなら、彼だって何とか我慢してくれるでしょうから。

   『ミッドナイト・ブルー ハニー編』13章-2に続く

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