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恋愛SF『ミッドナイト・ブルー ハニー編』7章-2 8章-1
7章-2 シヴァ
俺は家出を決行した。
ささやかな抵抗にすぎないが、このまま屋敷にいたら、尻尾を振って女を待ち受けていたみたいではないか。
俺が暮らしていた屋敷は湖畔にあり、桟橋には遊覧用のクルーザーが停めてある。そいつに食料を積み込んで、出航した。この居住区には大小合わせて二十もの湖があり、相互に川で結ばれている。陸上の森林地帯にはほとんど道がないから、移動は川の方が便利なのだ。
当面、この船で暮らせばいい。食料が尽きたら、森にいる鹿でも猪でも仕留めて食おう。湖で釣りをしたっていい。野原にはハーブが生えているし、果物の木だってある。飢え死にすることはあるまい。
湖に流れ込む川を遡り、他の湖を目指した。土地の高低差はほとんどないので、川の流れは人工的に作られている。ポンプ施設を避ければ、船の移動は簡単だ。
気候は穏やかで、野原には花が咲き、蝶や蜂が飛ぶ。鳥がさえずり、山猫や野兎も走る。生態系を維持するために、小型の豹や狼、猛禽類も放されている。澄んだ湖には、大小の淡水魚が泳ぐ。
バカンスなら、申し分のない環境だ。しかし、幽閉では。
湖で泳ぐのも、もう飽きた。道のない森林をバイクで無理に走るのも、もう飽きた。映画も読書も、実体験の代用にはならない。
誰かと話したい。喧嘩でもいい。外の世界に出たい。何か意味のあることをしたい。
そこへ、女だ。
俺が我慢できずに飛びつくと、ショーティは思っている。そうなるかもしれない。だが、少しは抵抗したい。自分が、そこまで腐っているとは思いたくない。他の男を思ってめそめそしている女に、手を出すとは。
屋敷から遠く離れた湖に着くと、そこにある桟橋に船を寄せた。砂利の敷かれた浜に上陸して、周囲の野原や森を探険する。まず、このあたりで暮らしてみるか。
薪を集め、果物を収穫した。レモン、オレンジ、枇杷、石榴、無花果、オリーブ、葡萄。
浜に石を積んで簡単な炉を作り、火を焚いた。クルーザーから鍋や食器を持ち出して、コーヒーを淹れる。ソーセージを炙り、チーズやパンをむしって食べる。
最長老の隠居所で育てられていた子供の頃は、こうやってショーティと野宿ごっこをしたものだ。あいつが近くで寝そべっていてくれれば、何も不足はなかった。そこから一族の本拠地である《ティルス》に移されて、自分と大人たちの他に〝女の子〟という生き物がいるのだと知って、驚異の感覚に満たされたが……
どうやっても、〝女の子〟というものは謎のままだった。むろん、紅泉だけは向こうから友好的に挑戦してきたが、あいつはとにかく、取っ組み合いの相手が欲しかっただけだからな……男同士の付き合いのようなものだった。とうに成人した今でさえ、あいつの行動は男と変わらない。
紅泉の向こうにいた探春は……永遠に手が届かない幻のようなものだ。
今ならわかる。子供の俺がどう足掻いても、探春に近づけるはずはなかった。あいつは最初から、紅泉のことしか愛していない。そして、それで満足しているのだ。宇宙のどこかで一緒に死んでも、それで満足だろう。
従姉妹のことを思い出すと感じる痛みも、今はかなり薄かった。グリフィンの任務も奪われ、俺の生活には何も残っていない。有り余る体力を持て余し、走ったり泳いだりして時間を潰すだけ。
(……だからって、他の男から女を奪って、俺の退屈しのぎに与えるのかよ)
ショーティの考えることは、もう俺には理解できない。あいつが親友だった時期があるなんて、それこそ夢か幻のようなものだ。
人工の日差しの下で、衰えかけた炎に小枝を追加した。寒くはないし、蚊や毒虫もいないから、まあ快適だ。しばらくは、こうして暮らそう。いずれアンドロイド兵士が来て、俺を力ずくで連れ戻そうとするかもしれないが、せめてそれまでは。
8章-1 ハニー
わたしたちが到着したのは、似たような小惑星の中に紛れた、目立たない岩石質小惑星だった。この星系の銀河座標は教えてもらえない。でも、たぶん、他組織の船が行き来しない場所なのだろう。
イレーヌと二人、外周桟橋に停泊した船から小型トレーラーで降り、一G居住区に向かった。
巨大な回転体の内部は、温暖に保たれた緑の楽園になっている。そこを、舗装もない砂利道がくねくねと通っていた。カーブを曲がる度、新しい景色が開ける。これは、ドライブの楽しみのために作った道なのだろうか。
ポピーやチューリップの乱れ咲く野原、桔梗や撫子の揺れる川岸、コスモスやラベンダーの丘、針葉樹と広葉樹の混ざった森。放し飼いの馬が駆ける姿も見た。先に何が待っているとしても、このドライブは素晴らしい。
「好きに散歩していいけれど、肉食獣もいるから、護衛兵かサイボーグ鳥をお供にするといいわ。調教した馬もいるから、遠乗りもできるわよ。ボートやクルーザーも置いてあるわ」
イレーヌは、生活上で必要なことを説明してくれた。人が住める建物は、湖畔の屋敷だけ。道路らしい道路は、外周桟橋から屋敷へ通じる、この道のみ。他は林道と遊歩道、獣道程度。
野菜や果物を育てる温室はあるが、ほとんどの食料や雑貨は、補給船で届けられる。雑用はアンドロイド侍女がするから、わたしは遊んで暮らせばいいという。でも、遊んで暮らすことに耐えられなかったから、事業を始めたのに。
「ここは、わたしの隠れ家の一つなの。今は、シヴァが一人でいるだけ。実は、組織から切り離して、閉じ込めてあるの」
閉じ込めてある?
「でも、あなたの組織の警備隊長なんでしょう?」
イレーヌは、幼子を見るような微笑みを浮かべた。
「ごめんなさいね。全て本当のことを言ったわけではないの。色々と事情があってね。彼は五年ほど、ここで幽閉生活を送ってきたの。詳しいことは、シヴァ本人から聞くといいわ」
――いったい、何が真実なの。幽閉されて怒りを溜め込んでいる男なんて、考えただけで怖い。
アンドロイド兵士がわたしを守ってくれるというのも、どこまで信じていいものか。これまで連れてこられた女たちは、みな彼の怒りの捌け口にされ、なぶられた挙句、殺されてしまったのではないの?
やがて、大きな湖のほとりに建つ白亜の屋敷に着いた。中型ホテルくらいの規模がある。お城と言ってもいいかもしれない。前庭には見事な薔薇園があって、無数の花が咲きこぼれ、甘い香りが漂っている。裏庭から階段を降りていくと、湖岸に出られるようだ。
「あなたの命令権をシヴァより上位に設定したから、あなたの屋敷のようなものよ。好きに使ってね」
イレーヌに案内されて玄関ホールを通り、湖に面した広間に入った。アンティーク風の大時計と本物の暖炉、優美な家具。ガラスの花瓶には、溢れるほどの百合と矢車菊。
「お帰りなさいませ、イレーヌさま。ようこそ、ハニーさま」
古典的なメイド服を着たアンドロイド侍女が数体、待機していた。窓辺のソファ席に案内され、ナッツ入りの美味しいパウンドケーキと、何種類ものサンドイッチ、香り高いミルクティでもてなされる。
それにしても、静かだ。聞こえるのは、鳥の声くらい。違法都市の喧噪からしたら、全くの別世界。本当に力のある者は、こういう安息所を持てるのね。
わたしとマックスは、大組織所有のリゾート惑星を利用するのが精々だった。それも、高い利用料を取られて。先に辺境に出た者が優位を得て、後から来た者を搾取する。
「それで、シヴァは?」
とうとう、しびれを切らして質問してしまった。紅茶のカップを手にして、イレーヌは苦笑する。
「通話して、あなたのことを説明したら、すっかりへそを曲げてしまってね……クルーザーで家出してしまったわ。食料を積み込んでいったようだから、持久戦の構えね」
呆れた。それが本当なら、思春期の男の子みたい。それとも、それも嘘か演技なの?
「まあ、そのうち迎えに行ってやってちょうだい。自分からは、なかなか折れないでしょうから」
ちょっと待って。
「もし、わたしが迎えに行かなかったら、シヴァは、この屋敷には戻らないというの?」
「たぶんね」
だったら、是非そうしてもらいたい。
「わたしが彼を迎えに行かなくても、構わない?」
「まあ、あなたの好きなように」
イレーヌは他人事のように言う。何であろうと、シヴァの気が紛れれば、それでいいのね。やはり、肉食獣の檻に放り込まれた餌だわ。シヴァはそのうち、夜中にこっそり戻ってきて、眠っているわたしの首を絞めるのかも。
その後、イレーヌはわたしを三階の部屋に案内してくれた。寝室と居間と書斎から成る、贅沢な続き部屋。女が必要とするものは、全て揃っている。たくさんの衣類の他、イレーヌがわたしの店で買った雑貨や宝石類もあった。最初から、このための買い物だったのかしら。
広いバルコニーからは、深いエメラルド色をした細長い湖と、周辺の丘陵地帯が一望できた。白い発光雲が浮かび、遠くの景色を隠している。この屋敷で、一番いい部屋なのではないかしら?
それからイレーヌの誘いで乗馬服に着替え、夕方まで、馬を連ねてあたりを回った。イレーヌは乗馬も巧みだ。わたしはただ、彼女に付いていくだけ。訓練された馬だから、こちらが止めない限り、前の馬に従っていく。
ずっと船内に閉じ込められていた後だから、花の咲く草原や、林の中の小道を馬で走るのは、とても気持ちがよかった。人工の季節は、秋の半ばというあたりだろうか。
違法都市と違って、狙撃や誘拐を心配する必要はない。人目を気にすることもない。本物のバカンスなら、理想的な場所なのに。
走り疲れて屋敷に戻ると、アンドロイドの馬丁が馬を預かってくれた。部屋でシャワーを浴びて、一休み。
それから髪を結い、山ほどの衣装の中から、白いロングドレスを選んだ。真珠のネックレスとイヤリングを合わせて、装いを完成させる。夕食はきちんとした格好で、とイレーヌに要求されたから。
日暮れ時、一階に降りてイレーヌと合流したら、彼女は藍色の地に白い花を描いた絹の着物を着て、深緑色の帯を締めていた。
「あなたの着物姿、初めて見るわ」
わたしもたまに和服を着るけれど、それはマックスが喜ぶからだった。自分のためなら、ドレスの方が楽でいい。
「ええ、わたしも滅多に着ないわ。背が高いと、どうにも間が抜けてしまって」
それでもイレーヌは帯を幅広く低めに締め、上手に着物を着こなしていた。かなりの修練を積んだらしい。
わたしも最初は、浴衣から入門して、帯の締め方を練習したものだ。美しいのは確かだけれど、これほど、着るのに苦労する民族衣装はない。ドレス風にアレンジしたものなら、店でもよく売れていたけれど。
ああ、いけない。思い出すと暗くなる。わたしはもう、あそこには戻れないのよ。いくら待遇がよくても、囚人には違いない。
「夕食は、和食でいいかしら?」
なるほど、そのための着物というわけ。イレーヌは、どこにいてもイレーヌなのね。
芸術品のような懐石料理を、アンドロイド侍女に給仕されて堪能した。厨房には、人間の一流シェフの技能を持たせた料理専用のアンドロイドが何体もいるそうだ。酒類も万全の品揃え。
「あなたがメニューを指定すれば、何でも作ってくれるわよ。食材でも雑貨でも、欲しいものは、好きに取り寄せればいいわ」
至れり尽くせりのもてなしようだ。ただ、二人きりでは食堂が広すぎる。静かなクラシック音楽を流していても、まだ寂しい。
窓から見渡す限り、外は真っ暗だ。他に建物がないということは、夜景が楽しめないということか。かろうじて周囲の庭園に、石灯籠の明かりが幾つか見えるだけ。
この屋敷から逃げ出した男は、真っ暗な森林地帯に一人でいるのか。いったい、何を考えているのだろう。もしかして、近くの森の闇の中から、この屋敷を見上げていたりして。
わたしの考えを読んだのか、イレーヌは、上品な日本酒のグラスを持って言う。
「シヴァは、女が怖いのよ。自分の意志を持った、本物の人間の女がね。あなたにどんな要求をされるのか、怖くてたまらないから、こそこそ隠れているの。お馬鹿さんよね。いずれ、対面しなければならないのは、わかっているのに」
「待って。そこが変よ。シヴァは、わたしを生かすも殺すも自由のはずでしょう。なぜ、わたしを恐れる必要があるの?」
イレーヌは面白そうに言う。
「だって、あなたを傷つけるような真似をしたら、わたしが許さないもの」
本当かしら。
イレーヌの真意が、まったく読めない。わたしの護送のために自分の時間を一か月も使って、採算は合うの? 弟が満足する女を探すために、どこまで手数をかけるつもりなの?
「つまり、彼が怖いのは、あなたなのね? 彼をここに幽閉しているのも、あなたなんでしょう。あなたはいったい、彼の何なの? 本当に、肉親なの?」
イレーヌは、ゆっくり微笑んだ。
「確かに、姉弟というのは、便宜的な説明に過ぎないわ。でも、それに近い関係なのは本当よ。わたしは長年、シヴァの家族であり、親友であり、保護者だった。これからも、そうであるつもり。でも、わたしだけでは足りない。シヴァを幸福にするにはね。彼には〝自分が守るべき誰か〟が必要なの。それでこそ初めて、彼の力が活かせるわ」
説明になっていない。なぜ親友なのか。なぜ保護者なのか。どういう経路をたどって、二人はここまで来たのか。そして、ここからどこへ向かうつもりなのか。
「あなたがシヴァを頼るようになったら、彼はあなたのために、何でもするでしょう。だから、どうか試してみて。シヴァを好きになれないかどうか」
『ミッドナイト・ブルー ハニー編』8章-2に続く
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