恋愛SF『ブルー・ギャラクシー 天使編』14章-9
14章-9 ミカエル
杭を打ち込まれた吸血鬼のように、リリーさんは凍りついた。
やはり、ここが最大の弱点。
「そんなことをしたら、あの人は耐えられません。今だって、ぎりぎりで持ちこたえているんですから。もしも、ヴァイオレットさんの心が壊れてしまったら、リリーさんも傷を負います。それこそ、取り返しがつかないくらい。リリーさんがリリーさんであるためには、ヴァイオレットさんが必要なんです……これまで通り、貴女の伴侶は、あの人だけです」
「ミカエル!!」
リリーさんは悲鳴のように叫んだ。多分、これだけは聞きたくなかったに違いない。しかも、ぼくの口から。
「やめてよ!! 変なこと言わないで!! そんなの考え過ぎだってば!! きみは恋人で、ヴァイオレットは親友!! それでいいでしょ。何も問題ない。男と女が結ばれるのが、自然なんだから!!」
しかし、人類はとうに自然から離れている。それにまた、変わり種を用意するのも自然の仕組み。
「あの子の男嫌いだって、いずれは治るわ。いい男と出会いさえすれば。あたしがきっと、いい相手を探すから」
そう言いながら、リリーさんにもわかっている。ヴァイオレットさんにとって、自分が全てだと。幼い頃から今日まで、ヴァイオレットさんはリリーさんの最大の理解者であり、強力な味方であった。そして、今後もきっとそうだろう。
「いいえ、そんなことは起こりません。貴女以上の騎士なんて、この世のどこにいますか。ヴァイオレットさんは人生の最初から、男なんて必要としていません」
「ミカエル、やめて」
リリーさんはもう、泣きそうだ。ぼくだって、泣いて済むものならそうしたい。
「いいえ、言います。リリーさんだって、ヴァイオレットさんの愛情に、どっぷり浸ってきたでしょう。利用してきたと言ってもいい。ハンターとして好き放題に暴れるためには、この上ない補佐ですからね。その恩義は、とても返せるようなものではありません。貴女はまず第一に、ヴァイオレットさんの幸福を考えなければ。それがすなわち、貴女の幸福でもあるんですから」
「やめてよ!! そんな考え、誰に吹き込まれたの!!」
鋭い手刀の一閃で、あたりの花が飛び散った。リリーさんは豪華な金褐色の髪を振り乱し、両手を広げて叫ぶ。
「あたしの幸福はね、優しくて凛々しい王子さまと暮らすことよ!! ミカエルは、あたしの王子さまになってくれるんでしょ!! そのために、他組織で武者修行してきたんでしょ!!」
「そうです。少しは世界を見てきました。だから、〝リリス〟がみんなの希望の星だとわかるんです。リリーさんはこれからも、悪党に恐れられ、子供たちに憧れられる英雄でなくてはなりません。ヴァイオレットさんは、貴女の補佐として必要です。ぼくが割り込んだら、理想のペアが崩壊してしまいます」
ほら。単純剛直なリリーさんを言いくるめることなんて、こんなに容易い。もう、最初の勢いは弱まっている。
「だけど、ミカエルが、あたしの補佐をしてくれるなら……ヴァイオレットは、屋敷に帰ってもいいんだし……ミカエルがいてくれれば、あたしはそれで十分なんだから……」
「ヴァイオレットさんが、ひっそり自殺しても、構いませんか? それでも、ぼくと楽しく暮らせますか?」
「………!!」
リリーさんは何か叫ぼうとして、叫べなかった。呼吸ができないかのように、胸を押さえる。そして、くるりとぼくに背中を向け、あとは黙って耐えている。
ぼくの言い分が正しいと、認めたのだ。どんなに辛くても、真実と向き合える人だから。
「そもそも、リリーさんが戦いを始めたのは、何のためですか。ヴァイオレットさんが安心して暮らせる世の中を創るため、でしょう?」
ようやくこちらを向いたリリーさんが、力なく尋ねてくる。
「それは、麗香姉さまから聞いたの……?」
悪辣なぼくは、心得顔で答える。
「はい。リリーさんたちが子供の頃、〝試練〟を受けたそうですね。屋敷の敷地の外れで、わざとチンピラたちに行き合うよう仕組まれた。ヴァイオレットさんがさらわれかけるのを見て、リリーさんは夢中で戦い、初めて人を殺したのだと聞きました……」
その時は、リリーさんも動揺したらしい。わずか十四歳。高度な強化体である自分が、手加減なしで殴ったり蹴ったりしたら、人は簡単に死んでしまうのだと、まだ知らなかった頃。
ただし、怯えたのは、自分が人を殺したからというよりも、屋敷の敷地から出るなという、お祖母さまの言いつけに逆らった結果だったから。違法都市では、殺人自体は珍しくも何ともない。
しかし、その場でヴァイオレットさんにとりすがられ、感謝されたことが、リリーさんの自信になった。
『紅泉、あなたが、わたしの命を救ってくれたのよ』
自分は、か弱い従姉妹を守ったのだという自覚が、リリーさんの支えになった。ヴァイオレットさんだって強化体だから、本当は、そこらの普通人の男より強いのだけれど。
「それ以来、リリーさんは、明確な目的を持って、自分を鍛えるようになったのですね。それが〝リリス〟の誕生につながったのだから、試練の意味は十二分にあったわけです……」
それが一族の伝統なのだと、麗香さんは言っていた。恵まれた環境で守り育てられるだけでは、子供は大人になれない。だから成長の過程で、あえて痛い目に遭わせる。一度で足りなければ、二度、三度。それに耐えられなかった子供は、淘汰される。
少女時代のヴァイオレットさんも、何かを悟り、決意したのだろう。リリーさんが邪悪と戦う戦士になるなら、自分は、その補佐を務めると。
「そうだね。そうだった……あれであたしは、自分に自信をつけたんだ」
リリーさんは、躰の脇で拳を握り締めて言う。
「それまでは、お祖母さまに、落ち着きのない乱暴者だと叱られてばかりで、ずっと、優等生の探……ヴァイオレットに、劣等感を持っていたから」
ぼくはつい、下を向いてしまう。ぼくはもう、知っているんですよ。貴女たちの本当の名前を。紅泉と探春。それは、漢字文化圏で育った麗香さんがつけた名前だと。
「リリーさんに劣等感があったなんて、不思議ですね。今のリリーさんを見て、自信に欠けるなんて、誰も思いませんよ」
「それって、あたしが単純馬鹿だと言ってない?」
むくれてみせた顔が、とても可愛い。したたかに傷ついているのに、ユーモアは忘れていないのですね。さすがです。
「剛胆で魅力的だと言っているんです。この世に舞い降りた、戦いの女神ですよ」
リリーさんは、仕方なしのように笑った。もう既に、心の整理をつけ始めている。わかってはいたが、強い人だ。
「ありがとう。ミカエルはいつも、あたしの聞きたいことを言ってくれるわ。婚約解消だけは、聞きたくなかったけどね」
「ごめんなさい」
「謝らないで……もう、決めたことなんでしょ」
「はい」
柔らかいそよ風がリリーさんの長い髪を揺らし、花の野原を吹き渡っていく。外界にどんな争いがあっても、ここは別天地だ。最高権力者の住まいは、この上なく厳重に守られている。
「リリーさん、婚約を解消しても、ぼくは生涯、あなたを愛し続けます。この気持ちは、誰にも消せません。ぼくはここにいて、麗香さんの研究の手伝いをしながら、〝リリス〟の活動を応援します」
と誓った。
「いつでも、便利に使って下さい。貴女のために新兵器を開発したり、情報集めをしたり、裏工作を手配したりしましょう。ぼくはそれで十分、満足して生きていけます。たまに、貴女がこうして会いに来てくれれば」
そのくらいなら、グリフィンの職務の邪魔にならない。それどころか、ぼくが生きる励みになる。
「年に一度か二度のことなら、ヴァイオレットさんも、許してくれるでしょう。七夕の恋人たちより、だいぶましですよ。必要な時には、連絡が取れるんですから」
リリーさんはしばらく深呼吸をしていたが、やがて、真っ直ぐにぼくを見据えた。
「あたしを嫌いになったわけじゃ、ないのね。ここにいて、あたしのために、裏方の仕事をするというのね」
「そうです。麗香さんには、その許可をもらいました。ぼくを、弟子にしてくれるそうです。色々と教わって、賢くなりますよ」
りりしい金褐色の眉が、少し曇る。
「ミカエルは、それで平気なの。年に一度か二度しか、あたしと会えなくても、構わないの」
「……寂しいけれど、我慢します。離れていても、貴女が元気で活躍してくれることを、ぼくは喜べます。だから、お願いです。この指輪だけは、ぼくに持たせておいて下さい。お守りとして、一生、大切にしますから」
婚約の印にもらった、サファイアの指輪。嘘は、真実を織り交ぜた時が一番強い。リリーさんはもうほとんど、あきらめをつけた顔になっている。長年、命の瀬戸際を歩いてきた人だけに、見切りというものができているのだ。
「一生、友達か……」
リリーさんは深く息を吐き、簡潔に言った。
「いいわ。婚約は解消。ミカエルはここで暮らす。探春には、そう言っておくわ」
「はい」
リリーさんの目が、鋭くぼくの顔を見る。これはもう恋人の目ではなく、戦士の目だ。
「あたしたちの本当の名前、もう聞いているの?」
「はい。麗香さんは、ぼくを一族に準ずる者として扱うと言ってくれました」
「わかった。ミカエルが安泰なら、それでいい」
紅泉というのは、いい名前だ。でも、ぼくにとっては、いつまでもリリーさんだ。その名前で、心に刻み付けられたのだから。
リリーさんは自分の左手からエメラルドの指輪を抜くと、惜し気もなく、花畑の向こうの池に放り投げた。素晴らしい遠投で、指輪は見事、池の真ん中の深みに沈んでいく。
それからリリーさんは、ぼくに背中を向け、花畑の中を歩み去った。屋敷とは反対方向だ。心が落ち着くまで、一人になりたいのだろう。ぼくは立ち尽くしたまま、自分に言い聞かせる。
(これでいいんだ。これしかなかった)
一緒に暮らすことは無理でも、たまには会える。友人として。
その時には、少女のように甘やかしてあげよう。それができるのは、たぶん、世界中でぼく一人だろうから。
***
「ミカエル。あなた、お姉さまに何か言われたの?」
優雅なワンピース姿のヴァイオレットさんが、そう問いかけてきたのは、気まずい夕食が終わった後のこと。
リリーさんがむっつりしたままだったので、食卓は暗かった。正装する気力もないようなので、他の者も普段着のままだったのだ。麗香さんとヴァイオレットさんは普通に会話していたが、ぼくもまた、最低限の相槌しか打てなかった。
「いいえ、何も」
アンドロイド侍女が立ち働く厨房で、後片付けを手伝っていたぼくは、大皿を棚に仕舞いながら答えた。
「それじゃ、あなただけの考えで、婚約解消を言い出したというの?」
「何か変ですか」
ヴァイオレットさんは、何か裏があるのを感じているようだ。でも、それを追求するのも危険だと感じているらしい。
「もしかして、身を引かないと、わたしに殺されると思ったから?」
冗談めかしているが、それが必ずしも冗談でないことは、お互いわかっている。
「それは難しいでしょう。戦闘のどさくさでない限り、リリーさんに疑われないようぼくを殺すのは、大変ですよ。ぼくだって、用心はしますからね」
と笑って答えた。向こうも仕方なしのように、苦笑する。
「可愛い顔をして、あなたもきついわね」
「お互い様です」
そうでなければ、リリーさんを愛することはできない。
「ぼくがいずれ去っていくと思ったからこそ、ヴァイオレットさんも、我慢していたのでしょう。これまで、リリーさんに関わった男たちは、みんなそうだったから……」
「あなたは違うかも、と思い始めていたわ。だって、リリーの役に立ちたいから、他組織で修行してきたんでしょう」
「おかげで、長生きしたい欲が出てきました。辺境はやはり、怖いですよ。ここにいて、麗香さんにかばってもらう方が楽です」
「確かにあなたは、お姉さまとは相性がよさそうだわ」
身勝手で冷酷なところが?
「そうだといいなと思います。ぼくは居候ですから、麗香さんに気に入ってもらわないと」
ふっと、ヴァイオレットさんは息を吐いた。
「正直なところ、わたしはとても嬉しいわ。あなたが婚約を破棄してくれて。リリーも今は落ち込んでいるけれど、いずれ立ち直ると思うの。どこかでまた、他の王子さまを見付けるでしょう」
それでも、ぼくには確信がある。どの男も、ぼくほどには、リリーさんを愛せない。
だからこそ、ぼくが一番、グリフィン役に相応しい。
同じ一族のシヴァですら、リリーさんのためより、初恋のヴァイオレットさんのために努力していた。それほど愛してくれる男がいたのに、なおも男嫌いを続けるのは、この人の傲慢さだ。少しは憐れみをかけてやれば、彼も家出などしなくて済んだだろうに。
もっとも、それでは、麗香さんの計画にそぐわなかったか?
あの人は先でまた、シヴァに何かの役を割り振るつもりだ。彼もまた、麗香さんのお気に入りの作品の一つ。だからこそ、ショーティというお守り役を付けて守らせている。
「それでは、ぼくも正直に言いますが、貴女がリリーさんを残して先に死んだら、ぼくはすぐさま、リリーさんに結婚を申し込みますからね。貴女さえいなければ、ぼくとリリーさんの間には、何の障害もありません」
トパーズ色の目をした可憐な美人は、しばし硬直したが、すぐに能面のような笑顔になった。
「おかげさまで、急に、生きる意欲が倍増したわ。励ましてくれて、どうもありがとう」
ぼくも負けじと、意地悪くにっこりする。
「どういたしまして。リリーさんはお人好しだから、あなたの悪知恵で守ってあげて下さいね」
ヴァイオレットさんも、凍った笑顔のままで言う。
「もちろん、言われなくてもそうするわ」
そしてぼくらは、別々の方向に立ち去った。
『ブルー・ギャラクシー 天使編』14章-10に続く
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?