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恋愛SF『ブルー・ギャラクシー 天使編』8章-3 9章

8章-3 ミカエル

 もつれ合うように芝生に寝そべって、ぼくたちは幸せに浸っていた。いつ終わるか知れないからこそ、鮮烈な幸福。

「でも、リリーさんは、事件に呼ばれる人ですからね。司法局では今頃、帰りはまだか、とやきもきしていますよ」

 ぼくは、リリーさんの長い髪を指に巻いてみる。リリーさんは、ぼくの心臓の鼓動を聞いている。リリーさんの体温は、熱いくらいだ。

「いいのよ、そんなの。あたしだって、たまには長期休暇をもらう権利があるんだから」

「はい、それはそうです……いくら強化体だって、休みは必要です」

 ぼくが逆らわないと、リリーさんは自分で思い直して後を続ける。

「まあ、往復だけで時間はくってる……できたら、ミカエルがここに慣れるまで、一緒にいたいんだけど……」

 ぼくはもちろん、リリーさんを引き留めたりしない。いつかまた会える、という希望があるのだから。

「大丈夫ですよ。ぼく、麗香れいかさんのよい生徒になれるよう頑張ります」

 するとリリーさんは、それにも不満そうだ。

「だからって、無理はしなくていいからね。ミカエルは、これまで辛い人生だったんだから」

 どうしたんだろう、これまでにない不機嫌ぶり。いつもは、たとえ何か心配事を隠していても、陽気に振る舞う人なのに。

「辛くなんか、なかったですよ。他のバイオロイドに比べたら、ずっと恵まれていました」

 今は、心からそう言える。他に何十億人のバイオロイドがいても、ぼくより幸運な者はいない。本物の人間の中にだって、ぼくより幸福な者がいるかどうか。

「もしかして、ちょっと心配になったんだけど……ミカエルって、姉さまみたいなタイプが好み?」

 リリーさんが冗談半分の態度で、それでも底に不安の混じる声で言ったので、はっと気づいた。

 もしかして、これは焼き餅!? うわあ。何という贅沢だろう。女神に妬いてもらえるなんて。

 ぼくは、あえて笑い飛ばした。

「そうですね。とても綺麗で神秘的な方ですから、よろめいてしまいそうです。でも、麗香さんから見たら、ぼくなんか小猿程度のものですよ」

 もしかして、麗香さんもやはり、リリーさんのいつもの恋愛騒ぎ、と思っているだけかもしれない。冷却期間を置けば、醒めるはずだと。

「そんなの、わからないよ。姉さまはずっと独身だし、浮いた噂もないけど、あたしたちの知らない所でロマンスを楽しんでるかもしれないし……ミカエルが気に入ったら、ちょっかい出すかも」

「それは光栄ですね」

「だめ。よろめかないで」

 と、しがみついてくる女性が可愛い。天下の豪傑が、実はこんなに純情可憐な女性だなんて、他の誰が知るだろう。

 いや、知られてはいけないのだ。リリーさんの弱点は、世界から隠さなければ。たとえば、もし、ぼくやヴァイオレットさんが人質に取られるようなことになったら……

 そんなこと、あってはならない。もしもの場合は、自分で自分の始末をつけてでも。

「……心配ないですよ。ぼくには、リリーさんが全てです。他の女性はどんなに綺麗でも、造花のようなものです。ぼくにとっては、リリーさんだけが、生きた花ですよ」

 と言ったら、受けた。リリーさんはきゃあきゃあ言って身をよじり、芝生に転がって嬉しがる。

「いやあん、ミカエルったら、もう、女慣れしたプレイボーイみたい!!」

「そうですか。じゃあ、もっとプレイボーイの研究をしておきます」

 リリーさんが喜んでくれるなら、何でもするし、何でも言う。何をしたら、この人を笑わせてあげられるのか。

「ここでいい子にして待っていますから、リリーさんも、お仕事で無理はしないで下さいね。ぼくが一人前になったら、その時は、どんなにしてでもお役に立ちますから」

「うん」

 リリーさんは微笑んで、ぼくの額にキスしてくれた。長い髪がぼくの顔を撫でるのが、くすぐったい。

 それから、再びぼくの胸に顔を預けて、脱力した。

「次の休暇が取れたら、すぐに飛んでくるからね。その頃にはきっと、ミカエルの治療も終わっているだろうから」

「はい」

 本当は、額にキスだけでは物足りない。それでは全然……ぼくの気持ちを表すには、はるかに足りないのだ。

 リリーさんにキスされると、ぼくもむずむずしてきて、キスのお返しをしたくなる。豊かな胸の谷間に、もっと頭をこすりつけたくなる。

 でも、リリーさんは、ぼくが大人になるまで『本格的なキス』は遠慮する、と言っている。当然、『それ以上のこと』も。

 とことん公正な人なのだ。ぼくがまだ子供だから……純真だから……と思っているのだろうけれど、本当は少し違う。

 バイオロイドは、純真でなどいられない。

 《ルーガル》の研究基地では、人間の科学者たちの助手として働くだけでなく……気晴らしの〝遊び道具〟にされたこともある。男の科学者たちが、気分転換に、ぼくらを〝使用〟したのだ。

 もちろん、こちらには苦痛でしかなかったから、全然〝むずむず〟なんて起きなかったけれど。

 彼らの大半は、相手が少女でも少年でもお構いなしだった。いかにおぞましくても、拒絶することは考えられなかった。それが、バイオロイドの仕事の一つでもある。

 だから、ぼくたちは男たちを喜ばせる技術を知っていた。その技術を、彼らを油断させるために使ったこともある。さもなければ、ぼくらがウィルスのサンプルを持ち出す隙は得られなかった。

 でも、そんな過去を口にすれば、リリーさんが悲しむだけだとわかっていたから、あえて何も言わず、清純そうな顔をしていた。

 リリーさんが、ぼくを無垢な存在だと思ってくれるのなら……バイオロイドの暮らしの実情を知ってはいても、〝穢れている〟と思わないでくれるのなら……そうでありたい。

 神さま、どうかリリーさんをお守り下さい。ぼくが、この人を守れる男になるまで。

 そう、リリーさんと神社詣でをしてからというもの、ぼくは前より素直に『神に祈る』ことができるようになっていた。神などいないと知っていても、祈ることは救いなのだ。どうせ、祈っても損はしないのだから。

9章 探春たんしゅん

「あなたの心配は、わかっているわ」

 麗香お姉さまは、テーブルをはさんだ席で言う。新しく注がれたダージリンが、香り高い湯気を立てている。

「わたしには、何も助けてあげられないけれどね……」

 そう、一族のみんなは、わたしの気持ちをよく知っている。そして、知らないふりをしてくれている。当の紅泉こうせんに、その気がないのは明白だから。

 もちろん紅泉は、わたしのことを誰より愛してくれている。家族として、親友として。いざという時は、他の誰を犠牲にしてでも助けてくれる。

 でも、自分自身はあくまでも、理想の王子さまを探し続ける。

 まさか、あんな小さな男の子がそうだとは、わたしは思いたくないけれど。

 いいえ、彼がこのまま成人したら、そして紅泉への愛情を持ち続けたら……その時は、限りなく理想の男性に近付くはず。

 ミカエルには勝てない、という気がした。彼は、わたしと似ているからだ。聡明で冷静な補佐役。澄ました顔をして、汚い真似もできる。わたしの位置に、彼はすんなり収まることができてしまう。

「……ミカエルのことで、お姉さまにご迷惑をかけるのは、申し訳ないと思っています」

「いいえ、迷惑ではないのよ。賢い子だし、助手を欲しいと思っていたのは本当だから。もしかしたら、ミカエルには、ずっとここにいてもらうかもしれないわ」

「《ティルス》に?」

「あるいは、この屋敷に」

 それは、奇妙な話だった。好んで独り暮らしをしてきたお姉さまが、一時の客ならともかく、この隠居屋敷に誰かを長く住まわせるなんて?

「まあ、ミカエル次第ね。あの子にどれほど根性があるか、楽しみだわ。シレールの役目を引き継げるようなら、教えたいことが色々あるし」

 お姉さまは、ミカエルが気に入ったのかしら。生きるために人を殺して平然としていられる、そのくらいの強さがないと、紅泉とは釣り合わないから?

「とにかく、ミカエルの治療をお願いします……紅泉が、とても心配しているので」

 そして、健康体になったら、新しい人生に出発してほしい。紅泉のことなんか、あっさり忘れてしまって。これまで、何人もの男たちがそうしてきたように。

「それは、確かに引き受けました。それより、あなたたちこそ、無理をしないようにね」

「はい」

 でも、わたしたちがハンターの仕事を始めた時に、励ましてくれたのはお姉さまだ。一族の総帥であるヴェーラお祖母さまは、断固として反対だった。

『紅泉、あなたは〝正義〟の名を借りて、好き放題に暴れたいだけなんでしょう。そのために他組織の恨みを買ったら、一族全体が危険にさらされます。あなたの勝手は許せません』

 その意見は真っ当だった。中央の市民たちが、違法組織も人体改造も認めないのであれば、違法強化体のハンターに頼ったりせず、自分たちの安全は自分たちで守るべきだろう。

 それでも、一族の最長老であるお姉さまが〝リリス〟の後援を決定したのだ。

『人類の存続を願うなら、誰かが〝正義〟のために戦わなければならないでしょう。それなら、紅泉以上の適任者はいないわ。紅泉と一族の関係は、隠せる限り、隠し通してみましょう。その上で、できるだけの応援をしてちょうだい、ヴェーラ、ヘンリー』

 現役を退いたとはいえ、麗香お姉さまが一族の最高指導者であることに、変わりはない。《ティルス》、《インダル》、《サラスヴァティ》という三つの違法都市と、その防衛艦隊。他都市に張り巡らせた通商網と情報網。

 その全てについて、最終的な決定権は、移民第一世代の生き残りである、麗香お姉さまが握っている。

 第二世代のヴェーラお祖母さまや、その伴侶のヘンリーお祖父さまでさえ、もうじき四百歳に手が届く麗香お姉さまから見れば、ほんの駆け出しに過ぎない。

 わたしたちもまた、辺境の各星域にある一族の工場や拠点を利用できるからこそ、私有艦隊を効果的に動かせる。〝リリス〟が実力を蓄え、独自にダミー組織を動かせるようになってからは、一族への依存度はいくらか低下しているけれど。

 それでも、最新鋭の武器や艦船は、一族を通してしか手に入らない。

 〝リリス〟が最高幹部会に敵視され、幹部会の代理人であるグリフィンの公表する懸賞金リストの最上位に載せられるようになっても、一族はわたしたちを後援し続けてくれる。

 それは、麗香お姉さまの揺るぎない信念のためだ。人類の未来のために、市民社会は存続しなければならないと。

 それならば、お姉さまは、いつか違法組織を束ねる〝連合〟と正面対決することまで、視野に入れているのだろうか。それとも、そんなことにはならないと、確信しているのだろうか。

 一族は今のところ、〝連合〟と距離を置いて共存している。けれど、最高幹部会が本気で〝リリス〟を抹殺しようと決意したら、お姉さまは、どこまでかばってくれるのだろう……

 人工の楽園を人工の夕映えが照らす頃、紅泉とミカエルは籠に一杯、薔薇の花を摘んで戻ってきた。赤やピンク、白やクリームの花びらが贅沢に折り重なっている。今夜はこれで、薔薇のお風呂に入るつもりらしい。

 とはいえ、まだ二人一緒に入る段階ではない。それは当面、わたしだけの特権であるらしい。

 お互いに裸で、花を浮かべたお湯に浸かり、紅泉の膝の上に抱っこされる時間、そのために、わたしはハンター稼業に耐えているようなもの……狡猾な獲物を狩る知的なゲームという側面も、確かにあるのだけれど。

「じゃあまた、夕食の時間にね」

「はい」

 と互いの部屋に別れる様子がわかった。ミカエルが青年になるまで、軽いキスだけで我慢するというのは、紅泉の真面目さである。それがまた、ミカエルを感動させてしまうのに。

 あの子は本当に、紅泉を恋い慕っている。もしかしたら、理想の伴侶になるかもしれない。わたしが遠慮して、脇へどかなければならないような。

 それでも、未来のいつか、ミカエルが紅泉を裏切らないという保証はない。恋は、冷めるものなのだ……わたしが抱いているような、究極の愛情に進化しない限り。

   ***

 夕食の前にシャワーを浴び、着替えをした。お姉さまの屋敷では、夕食は正装と決まっている。わたしたちが泊まる時のために、部屋は常に準備されていた。服も小物も揃っている。

 鏡の前のわたしは、茶色い髪をあっさりと結い上げて、シトリンのイヤリングを下げ、淡いミモザ色のドレスを着ている。この姿は、二十歳の頃と何も変わらない……

 いいえ、そんなことはない。戦いの歳月が、やはり重い何かを刻印している。

 表情が違う。振る舞いが違う。言葉の選び方も違う。

 人生の疲労が、蓄積しているのだ。肌がなめらかであっても、バレエの稽古で鍛えた軽やかな動作があっても、世慣れない若い娘ではないことは、誰にでもわかってしまうだろう。

 かといって、第二世代のお祖母さまや、第三世代のおばさまたちのような、成熟した貴婦人というのでもない。まだ何も、悟ってはいないから。単なる年齢不詳の……ひねくれた魔女ではないだろうか。

 自分がどんな大人になりたかったのか、もう忘れてしまった。子供の頃に抱いていた、漠然とした夢や憧れは、十三歳の時、粉々に砕かれたままだ。

 従兄弟のシヴァのせい、だけではない。他の男たちもまた、わたしに絶望的な嫌悪と軽蔑を抱かせた。

 子供の頃から、薄々とは知っていた男の正体。幾度かの事件が、それをはっきりと思い知らせてくれただけ。

 この世は地獄。

 地獄が薄皮一枚かぶっているだけで、どんな喜びも楽しさも、それを当然と思った瞬間に奪われてしまう。

 だから、地獄と知ったまま、地獄で得られる"はかない幸福"を慈しむしかない。どんな嫉妬にあぶられても、紅泉といられる日々が幸福なのだ。どうせ、すぐに終わりの日が来るのだから。

 たとえ何万年、何億年生きられても、死ぬ時は、あっという間の人生だったと感じるだろう。その時、満足して死ねるように、今はあがく。紅泉に重たがられても、離れない。

 もしも、紅泉をすっかりミカエルに奪われてしまったら……それは、その時にまた考えよう。

   『ブルー・ギャラクシー 天使編』10章に続く

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