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恋愛SF小説『ブルー・ギャラクシー ミオ編』1

ミオ編1 1章 エレーナ


 ――ここはどこ。

 わたし、なんでこんな所にいるの。

 目覚めた時は、裸で、天蓋つきの大きなベッドの中にいた。金と白とクリーム色でまとめた、華麗な内装。アンティーク風の家具。ホテルの一室のように見える。それも、かなりの豪華ホテル。大きなフランス窓の外には、よく晴れた青空が見える。

 でも、わたしは今、モデルクラブの宿舎で寝起きしているのよ。どうしてホテルなんかに……

 ずきんと、躰の芯に鈍い痛みが走った。そのあたりに、今までに経験したことのない違和感もある。

 これは何?

 生理痛とは位置が違う。痛み方も違う。

 ぎくしゃくと身を起こし、あたりを見回して、自分のドレスが布張りの椅子にかけてあるのを発見した。淡いオレンジ色のロングドレス。椅子の下には、金色のハイヒールが揃えてある。横の小卓には、小さなパーティーバッグ。

 そう、盛装して、他のモデルたちと一緒に、宿舎から移動用のバスに乗ったのを覚えている。みんなで遠足のように、きゃあきゃあおしゃべりした。でも、それから先はどうなったの?

 裸の上にドレスをすとんとかぶり、理由のわからない痛みを感じながら、ふらふらとバルコニーに出た。白い手摺りにもたれて眺めると、眼下には、鏡のような青い湖が広がっている。一キロ近くありそうな対岸には、ぽつぽつと別荘やホテルが散っていた。新緑の季節だから、風も甘い。

 左右にも、同じようなバルコニーが張り出している。わたしがいるのは、三階の高さ。上にもまだ、階がある。建物の端には、とんがり屋根を持つ丸い塔がついている。

 見覚えがあった。ここはもしかしたら、パーティ会場になっていた屋敷ではないか。

 そうだ。コンパニオン業務の指名が来た時に、行く先を調べた。地球時代の城館をイメージして設計したという、広壮な屋敷で、首都の名士たちを集めたカクテルパーティが開かれるという。

 わたしは『会場の彩り』として、他の娘たち、青年たちと一緒に、銀の盆に載せたシャンパンや、色とりどりのカクテルを客に勧めて回るはずだった。それがどうして、一人でこんな所に……

「やあ、お目覚めかい」

 室内を振り向くと、寝室の入口にあたる扉が開いて、朝食のワゴンを押した男性が入ってきた。金茶色の髪を七三に分けた、四十代のハンサム。気楽なオープンカラーのシャツ姿で、休日の朝という雰囲気を漂わせている。

 顔は知っていた。この屋敷の持ち主で、幾つもの企業を親から引き継いだ、名家の御曹司。首都社交界の有名人。女優の誰かと噂になったのを、ゴシップ記事で見たことがある。

「あの……わたしは……」

 それとなく説明を求めたつもりなのだけれど、彼はワゴンをバルコニーに押してきながら言う。

「そうだね、ここの方が気分がいい。一緒に食べよう。そしたら、宿舎まで送るから」

 彼はわたしが立ち尽くしているのを見ると、苦笑する。

「おいおい、他人みたいな顔しないでくれよ。昨夜はあんなに、楽しく過ごしただろ?」

 頭から血が下がるのがわかった。本当に、さーっと血が引いていくのだ。

 そんなばかな。よりによって、任務中に、そんなこと。

 ――わたしにとっては、初めての潜入捜査だった。モデルクラブ内の誰かが違法な薬物の小売りをしている、という噂の真偽を確かめるのが任務。

 もし、背後に違法組織が隠れていたら、大捕物になる。男子部にも一人、軽く整形した男性捜査官が入っていた。他星の大学を出たわたしは、ここではほとんど顔を知られていないので、素顔のまま。

 ただし、薬物汚染の広まりを警戒して、モデルクラブの社長にさえ、わたしたちの身分を知らせていない。

 もちろん、最初から公開捜査にして、モデルクラブとその周辺の人間を一斉の薬品尋問にかければ早いけれど、それでは大袈裟すぎるし、主犯がその網の外にいたら、むざむざ取り逃がすことになる。

 レンタル船に飛び乗られ、違法組織の割拠する辺境星域に逃亡されては、もはや軍でも追跡は不可能。公開捜査にする前に、少しは的を絞っておかなければならないのだ。

 正直に言えば、少しは怖かったけれど、でも、それ以上に張り切っていた。実績を積んで、いつか上級捜査官になるというのが、わたしの夢だ。

 そうしたら、〝伝説のハンター〟とだって組めるかもしれない。もちろん実物の〝リリス〟は、娯楽映画に描かれた姿とは違うだろうけれど。その違いも、自分の目で見てみたかった。

 それなのに、これは。自分から、記憶が飛ぶほど、お酒を飲むはずがない。常に周囲を警戒していたし……

「まさか〝初めて〟とは思わなかったけど、いつかは通る道だからね。きみも楽しんだだろ。下着はそっちに置いてあるよ。シャワーでも浴びてきたら」

 男は慣れ慣れしく、わたしの腰を抱いて、額にキスしようとする。わたしは混乱したまま、身をよじって逃げた。バッグと下着の残りを取り上げ、裸足のまま、寝室に隣接する浴室に入る。扉を閉めてから見ると、壁一面の鏡の中には、血の気の引いた惨めな女がいた。

 嘘よ、そんな。酔っ払って、記憶のないうち、『初めての体験』をしてしまうなんて。

 奥手すぎるのはわかっている。でも、学生時代はずっと勉強一筋だったし、司法局に入ってからは、仕事を覚えるのに懸命だったから。

 わたしの理想は、あんな安手のプレイボーイじゃない。パーティを開いては、女の子をつまみ食いする男なんて。

 覚悟してドレスをたくし上げ、脚の間に指を入れた。内部はまだ濡れている。血液の汚れと、精液らしい液体が拭いとれる。

 ぞっとしたけれど、おかげで頭は冴えた。氷を背中に入れられたように、しゃんとする。

 学生時代、おおかたの女の子と同じように、処女膜の切除手術は済ませていた。恋人はまだいなかったけれど、『いつか』のために。だから、苦痛や裂傷は最小限で済んだのだ。

 任務が先よ、エレーナ。もし、記憶が飛ぶような薬を使われたのだとしたら。あの男は、わたしをただの女の子だと甘く見て、合意の上だったふりをすれば平気だろうと計算したのだ。

 とんでもない。

 わたしはシャワーをあきらめ、顔だけ洗うと、バッグから取り出した通話端末を手首にはめた。寝る時でも外さないものが、バッグに入れられていたのは、あの男の仕業だろう。

 まず、捜査チームの仲間に緊急信号を送った。すぐに来てもらい、わたしの体内に残った体液の検査をすれば、強姦容疑で逮捕が可能だ。それから、わたしの血液検査をする。薬物反応があれば、更に好都合。

 もしかしたら、これが薬物疑惑の正体だったのかもしれない。あの男が、以前からモデルたちに、あるいは他の女性たちに、こういう卑劣な真似を繰り返していたのだとしたら。

 わたしはもう一度、冷たい水でざぶざぶと顔を洗った。泣いちゃだめ。泣いてる暇なんかない。それどころか、勝ち星よ。これで、小悪党を退治できる。

 それでも、惨めな気持ちは消せなかった。いつか、本当に愛する相手に巡り逢うまではと思って、遊び半分の誘いは、全て退けてきたというのに。

 それに、これから先、どうやって同僚たちと付き合えるだろう。彼らはきっと、何もなかったような顔をしてくれるはずだけれど、わたしはいつまでも、この屈辱をひきずっていくことになる。

 犯罪の被害者になるのは、無防備な女性のはずなのに。わたしは人より強く、賢く、身を守る力を備えているはずだったのに。

   ***

 表面だけ身繕いしてバルコニーに出ていくと、男は呑気に朝食を楽しんでいた。白いガーデンテーブルに二人分の料理を並べ、わたしの顔を見ると、優雅なアンティーク風のカップにコーヒーを注ぐ。

「さ、ここへお座り」

 わたしは冷然としたまま、手招きして男を立たせた。湖の対岸から、銀色の機体が二機、飛んでくるのがわかる。首都の司法局ビルから飛び立ったエアロダインだ。わたしのチームに、応援の部隊が加わっているはず。

「わたし、どうして昨夜のことを覚えていないのかしら?」

 男はにやついて言う。

「おや、せっかくの情熱の時間を忘れてしまったとは、勿体ない。ちょっと飲みすぎたらしいね」

「いいえ。わたし、仕事中に飲んだりしないわ」

 男は呑気に両手を広げてみせた。

「もちろん、パーティが終わった後だよ。ぼくが誘ったら、喜んでついてきてくれたじゃないか。モデルクラブの方には、うまく言ってあげただろ?」

 わたしは黙って拳を握り、隙だらけの男の顔面に正拳を叩き込んだ。加減はしたけれど、鼻の骨が折れただろう。男は椅子とテーブルを倒して床に転がり、両手で顔を覆った。血がだらだらこぼれて、白いシャツを汚す。何か抗議するようにふがふがと言い、血の跡を残しながら、お尻で後ずさりしては、伊達男も台無しである。

「わたしは司法局《テンシャン》支局、エレーナ・ソワソン捜査官です。あなたを違法薬物使用の容疑で逮捕します」

 男の薄青の目が見開かれ、全身が恐怖で固まった。何という、愚かな遊び人。ただのナンパで、満足していればよかったのに。

 屋敷の庭にエアロダインが着陸し、捜査官たちの緊迫した声が交錯した。屋敷内の人間は、泊まり客も使用人も、全員尋問を受ける。この男の交友関係も、全て明らかにされる。

 忘れよう。犬に噛まれたと思って。どうせ覚えていないんだから、幸いだわ。絶対に泣いたりしない。少なくとも、同僚たちの前では。わたしは自分で望んで、この仕事に就いたのだから。

ミオ編1 2章 ミオ

 目が覚めた時は、全身がぎしぎしと痛くて、妙にだるかった。それに、頭が重くて、気持ちが悪い。

 どうしてこんなに、躰がきしむの。

 だいたい、裸で寝ているのはなぜ。

 厚い遮光カーテンのかかった、暗い部屋だった。わたしは一人で、広いベッドの上にいる。ごくわずかに漏れる光では、ホテルの一室のようだった。なぜ、ホテルになんか……

 はっとして、身がすくんだ。その途端、唇がぴりっとする。舌で嘗めたら、血の味がした。唇の端が切れている。

 とにかく、間違いない。まだ躰の芯が濡れていて、しかも、異様な違和感がある。奥深い部分に、痛いような、しびれたような感覚。膣だけではなく、肛門まで。

 悲鳴をあげたくなった。またなの。また、やってしまったの。避妊セルも埋めていないのに、どうして、こんなことができるのよ!?

 一度や二度ではない。これでもう、四回目。休みの日に、一人で街をぶらついていただけなのに、どこでどう酔ったのか、朝になると、裸でどこかのホテルにいるのだ。

 どんな男が相手だったのか、どこでどう出会って口説かれたのか、それともこちらが酔って口説いたのか、まるで覚えていない。

 いったい、わたしはどうなっているの。もう二度と絶対、外では飲まないと誓っていたのに。そんな単純な決心すら守れないほど、だらしのない性格なの!?

 腕の端末を探し、ソファセットのテーブルの上から取り上げて見たら、もう昼近かった。男の姿など、影もない。テーブルの上に、料理の残骸やお酒の瓶、幾つものグラスが残っているだけ。

 ソファの上には、わたしの下着と、お気に入りの薄紫のワンピース。小さな葡萄の房を飾った、麦藁の帽子。いつものバッグ。靴がその下に、揃えて置いてある。

 とりあえず、撮影のない日でよかった。こんなざまで仕事に出ても、まともな笑顔が作れない。笑ったら、また唇が切れてしまうから、気をつけなくちゃ。

 のろのろと起き上がったら、テーブルの上の紙片に、走り書きがあった。

『昨夜はとても楽しかった。心から礼を言うよ。ありがとう。支払いは済ませてある。しかし、きみの場合、酒は控えめにしたほうがいいね。飲むと、大胆になりすぎるようだ』

 紙切れを握り潰し、思い直して引き裂き、料理の残骸の隅に捨てた。頭を動かすと、ズキンと重い痛みが広がる。

 とにかく、異様にだるい。まるで、一人ではなく、何人もの男の相手をしたかのよう。それに……手首に赤い痕があるのは、まるで……いえ、足首にもあるわ。縛られた痕のような。まさか、そんなことまで。いえ、もし、相手の男がそういう趣味だったら。

 浴室で熱いシャワーを浴び、全身をきれいに洗った。脚の間の痕跡からすると、コンドームは使われなかったらしい。家に帰ったらすぐ、アフターピルを飲んでおかないと。前に処方してもらった残りがあって、よかった。でも、そんな劇薬、何度も使うものじゃないって習ったのに。

 子供の頃、学校で授業を受けた時は、

(避妊もしないで、そんな真似をするなんて、ありえない)

 と軽蔑混じりで思ったのに。その自分が、まさか、何度もアフターピルを服用することになるなんて。

 大学時代、ボーイフレンドのいた時期には、避妊用のホルモンセルを埋め込んでいたけれど、別れてからは、その必要がなくなっていた。でも、やはり、常に埋めておくべきなのかも。

 ウェーブのついた長い髪をざっと乾かし(邪魔だと思うこともあるけれど、これを切ろうと思ったら、モデルクラブの許可が要る)、服を着ると、すぐさま部屋を出た。

 通路の大きな窓から、明るい街路が見下ろせる。首都のどこかであることは、間違いない。見覚えのあるビルに気づいて、少し記憶が戻った。ここは、昨日の午後、マレーネと会ったカフェテラスの近くだわ。

 マレーネは、付き合っている男性がかなりのマザコンなので、結婚するべきかどうか迷っている、と話してくれた。それでしばらく、紅茶とケーキをお供にして、あれこれと話し込んだ。

 でも、マレーネと別れてからどうしたのか、記憶がない。すぐに家に帰らずに、うろうろしているうちに、ナンパ男にひっかかったのかしら。

 おかしな話だった。わたしはこれまで、くだらない男たちは全て避けてきているのに。ラブレターもデートの誘いも、片端から断ってきた。外見だけでちやほやしてくる男たちに、用はない。彼らはただ、目立つ女を連れて歩いて、自慢したいだけ。口説き文句に耳を傾けるだけで、時間の無駄。

 でも、本当は、心の深い部分で、そういう禁欲生活が嫌になっているのかしら? 欲求不満がたまっているから、時々、羽目をはずしてしまうの? やっぱり、一人くらい、ボーイフレンドを持っておくべき?

 でも、これまでに付き合った数人には、あまりいい思い出がなかった。別れて初めてほっとする、という男たちばかり。やはり、どうしても、

(美人を連れて歩くのが、嬉しくてならない)

 という、幼稚な見栄を感じてしまったから。

 でも、そういう男しか寄ってこないというのは、わたしにも、人格的に何か足りないという問題があるのかしら。

 他の客や従業員と顔を合わせるのが厭で、麦藁帽子を深く下ろして、足早に一階ロビーを通り過ぎた。フロントで聞けば、あるいはホテルの管理システムで確認すれば、部屋を借りた男の名前はわかる。でも、知りたいとも思わなかった。どうせもう、二度と会うことはない。

 街路に出ると、まぶしい秋の日差しを受けて、目がくらんだ。空腹だし、喉も渇いている。あの部屋にいるのが苦痛で、水一杯すら飲んでこなかった。

 早く帰らなきゃ。またしても、無断外泊だわ。パパとママが旅行中で幸いだけれど、タケルが心配しているんじゃないかしら。顔を合わせたら、尋ねられてしまう。姉さん、昨夜はどうしたのって。

 マレーネの所に泊まったことにするしかないわ。二人で飲みながら、遅くまでおしゃべりしていて、そのまま眠ってしまったの。連絡も入れないで、ごめんなさいね……

   ***

 突然、地面が消えた。躰が宙に浮いて、そのまま前に落ちていく。

 うそ、階段!?

 そのままだったら、何メートルも転落して、大怪我をしていただろう。地下街の出入り口だったのだ。でも、わたしは誰かの肩にかつがれるようにして、がっしり受け止められていた。視野が逆さになり、帽子もバッグもどこかに消え失せている。

「危ない、危ない」

 アルトの声で苦笑混じりに言ったのは、わたしを支えている誰か。とても強い肩と腕を感じるのに、女の人なの!?

 わたしは逆さのまま地上まで運ばれ、そっと平らな歩道に降ろされた。それなのに、足がいうことをきかず、そのまま崩れ込んでしまう。

 わたしの前には、濃色のサングラスをかけた、屈強な体格の女性がかがみこんでいた。白いシャツブラウスが、まぶしくて目に痛いほど。黒いミニスカートからは、力強い長い脚が伸びている。

「貧血かな? 大丈夫?」

 いったんは足を止めた周囲の通行人も、わたしが無事とわかって、再び流れだしていく。階段下でバッグと帽子を拾ってくれた若い女性が、身軽に上がってきた。淡い緑色の優雅なワンピースドレスに、きちんと結った長い髪。わたしなんか、ろくに髪も梳かさないままなのに。

「お嬢さん、お顔が真っ青よ。タクシーを呼びましょうか?」

 落ち着いたソプラノの声を聞いて、サングラスの女性が、まじまじ、わたしの顔をのぞきこんでくる。

「病院に連れていこうか?」

 わたしは反射的に顔をそむけ、逃げようとした。こんな時に、人と関わりたくない。

「いえ、何でもありません。ちょっと寝不足で、ぼんやりして。大丈夫ですから」

 もしも病院で、何か重大な〝心の病気〟だと診断されたら。多重人格とか何かで、即座に入院、なんてことになったら。

 それなのに、サングラスの女性は、わたしを横抱きにして立ち上がっていた。子供でも扱うように、軽々と。

「大丈夫かどうかは、医師に診断してもらおう」

 わたしの帽子とバッグを持つ女性が、通りの向こう側を指して言う。

「サンドラ、そのビルにクリニックがあるわ」

ミオ編1 3章 紅泉こうせん

 植民惑星《ベルグラード》の惑星首都。

 今回、あたしたちはバカンスでこの星に来ていた。前のバカンスは雪山でスキーだったので、今度は街中で買い物三昧したいと、従姉妹の探春たんしゅんが言う。

 むろん、あたしに異存はなく、美しい川に面したホテルに泊まって、骨董品店や美術館、画廊やデパートを巡り歩いていた。

 今朝は、探春の好きな着物の店を覗いてきたところ。あたしは夕涼みの浴衣しか着ないが(本式の着物なんて、拷問だ)、お茶と生け花を習って育った探春は、和服が好きなのだ。気に入った反物と帯を買い、仕立ててホテルに届けてもらう手配をして、次の店に向かう途中のアクシデント。

 民間クリニックのロビーで、あたしと探春は、ミオ・バーンズという娘の診察が終わるのを待っていた。診察の結果次第で、家まで送るか、親に連絡するか、何かした方がいいだろう。法的には成人かもしれないが、まだ一人前とは言えない若さだから。

 お昼は何を食べようか、午後はどこを回ろうか、探春と低く話していると、四十歳前後の栗毛の女性医師が出てきて、ドクター榊原と名乗り、

「ミス・バーンズのお友達ですか」

 と深刻そうに問う。

「いえ、ただの通りすがりです。具合が悪そうなので、連れてきたのですけれど」

 探春が言うと、有能そうな女性医師はしばし考えてから言う。

「では、あとは当方で引き受けます。もう、お引き取りくださって結構です」

「入院させるの?」

 と気軽く尋ねたあたしに、榊原医師は難しい顔で答えた。

「患者のプライバシーになりますので、お答えできません」

 ぴんときた。やはり犯罪がらみだ。過去数十年の経験から、そういう勘は働くようになっている。

「これを見てください。休暇中だけど、司法局特捜部のサンドラ・グレイ捜査官です」

 あたしはサングラスをはずしてシャツの胸元にひっかけると、自分の左手首の端末から、女性医師の腕の端末へ市民番号を送った。すると向こうには、あたしの身分がただちに確認できる。

 ただし、C級検索では私立探偵と出てしまうので、B級検索を指定した。すると、本部所属の上級捜査官という身分が出る。巨大な組織である司法局の中でも、わずか数千人しかいないエリートだ。

 あたしたちの正体は、実は、A級検索でも出てこない極秘事項であるのだが。

 普通の市民に可能なのは、C級検索までである。このレベルでは、最低限の情報しか出てこない。権限を持った役人や政治家、各分野の専門家なら、B級検索が許される。すると、対象者の胎児時代からの健康診断の記録や、学校時代の成績、過去の職歴など、もう少し詳しい情報が得られる。

 更に許可を得れば、A級検索が許される。対象者だけでなく、その人物の関係者全員の個人情報が得られる。ただ、これは相当な上級者でなければ、許可が下りない仕組み。

 その上の超A級情報となると、回線経由のアクセスはできない。何箇所かの惑星の極秘の保管庫に、分散されて保存されている。これが公にされるのは、五十年なり百年なりが経過して、歴史資料となってからだ。

 今現在それに触れられるのは、二百億人超の人口を有する惑星連邦全体でも、わずか十人前後。『辺境生まれの違法強化体』であり、『司法局のお抱えハンター』というあたしたちの正体は、厳重に秘匿されていた。

 もし、あたしたちが正体を宣伝して歩いたら、それこそ、命が幾つあっても足りないことになる。辺境を支配する違法組織の〝連合〟が、あたしたちの首に、史上最高額の懸賞金をかけているからだ。

 とりあえず、この場では、捜査官だと納得してもらえればよい。『サンドラ・グレイ』は司法局特捜部が用意してくれた偽装身分だから、架空の両親、生まれた病院、通った学校、子供時代の習い事、大学時代の専攻まで、完璧に作り上げてある。探春が使っている『ヴァイオレット・コールダー』という身分も同様。

「そうでしたか。失礼しました」

 と女性医師の警戒がゆるんだ。

「こちらは、同僚のコールダー捜査官。何か事件なら、職務として話を聞きましょう」

 榊原医師は納得して、あたしたちを自分の診察室に入れてくれた。ミオという娘は、まだ奥の処置室にいるという。慣れた看護師が付いているので、心配はないそうだ。

「本人の記憶がはっきりしないのですが、強姦事件のようです。何らかの薬物を使用した上で、ですね。血液は、いま分析にかけています。薬物の特定ができるかもしれません」

 そうか。見過ごさなくて、正解だ。

「体内から、五人分の精液が採取できました。膣から四人分、肛門から三人分。重複を除いて五人です。それも分離して、遺伝子検査にかけ、個人が特定できると思います」

 医師は冷静だが、探春はトパーズ色の瞳を見開き、手で口を押えた。それから、黙って首を横に振る。正気で、五人もの男の相手を承知する女はいない。

「咽頭部からも、ある種の特徴的な細菌が検出されました。つまり、オーラルセックスがあったという意味ですが。唇の傷は、そのためらしいですね」

 まったく、男というのは困った種族である。この宇宙時代になってもまだ、自分たちの獣性とうまく折り合えないのだから。

 自分と別れようとした女を追いかけて、殴ったり殺したりする事件も、いまだ絶えていない。中央星域の治安がよいといっても、事件がないわけではないのだ。女たちが強くなったので、おおかたの男は(やむなく)紳士として振る舞っているが、酒でも飲めば、中身は数千年前と変わらないのだから。

「その人数だと、たぶん、計画的犯行でしょう」

 と榊原医師は言う。

「ええ。酒と薬物とで、被害者の記憶を飛ばしたんでしょう。地球時代からある、古典的手口ですよ」

 とあたしは受けた。そして、現代でもまだ、滅びていない手口。

「血液や精液などの採取物と、分析データをまとめて、司法局に提出してくれますか」

「ええ、もちろん。負傷部位など、全てまとめておきます。犯罪関連の報告用書式がありますから」

「ありがとう。お願いします」

 全市民の遺伝子データは、胎児の頃から、かかりつけの病院を通して、惑星行政府に管理されている。

 また、全市民の行動履歴は、一年以内ならば、腕の端末の位置記録で確認できる。自宅から離れる時は端末を身につける決まりだし、それがなくても、随所の警備カメラやセンサーに記録が残る。

 重要部門の関係者なら、もっと長期間、行動記録が保存される。したがって、市民社会での重大犯罪は、ほぼ百パーセント隠蔽不可能だ。

 いや、犯罪自体は行えるが、自由の身でいたいのならば、それが露見する前に、高飛びする必要がある。レンタル船を借りて飛ぶとか、違法組織と通じる企業の輸送船に隠れるとかして、無法の辺境星域に逃げ込めば、もはや司法の追求は届かない。

 この銀河のうちで、法と良識が通用するのは、地球を中心とする、直径わずか数千光年の球状空間にすぎないのだ。あとは全て、無法の荒野。だからこそ、あたしたちのような、法に拘束されない〝ハンター〟が必要になる。

「本人は、一晩中、朦朧としていたらしいですね。ついさっき、ホテルで目を覚まして、ショック状態のまま歩きだしたようです。保護して下さって、正解でしたわ。いま、体内の洗浄、妊娠の予防処置などを行っていますから。事情聴取は、その後になさって下さい」

「わかりました。治療をよろしくお願いします」

 と探春は静かに言うが、内心では、かなりショックを受けている。またしても、男の悪辣さを見せつけられたのだ。

 ――悪いことをしたな、せっかくのバカンスに。

 普段、重犯罪者相手の苛酷な仕事をしているからこそ、こういう休暇の時には、気分を切り替えないといけないのに。

「こちらからも、お願いします」

 女性医師は、顎のあたりに力を入れて言った。

「こんなことをした連中を、全員逮捕して、二度と再び同じことができないよう、厳しく再教育してやって下さい!!」

   ***

 探春も少女の頃、通りすがりのチンピラたちに誘拐されかけたことがある。

 あたしたちは辺境の違法都市で育ったので、警備厳重な屋敷の敷地から一歩外に出ると、すぐさま『何でもあり』の無法地帯だったのだ。バイオロイドの娼婦を取り揃えた繁華街、誘拐されてきた市民の競り市、機械兵から戦闘艦まで、あらゆる兵器を売る店。

 もちろん、お嬢さま育ちのあたしたちは、

『大人の付き添いなしでは、絶対に外へ出てはいけません』

 と一族の年輩者たちに厳しく言い渡されていた。街へ買い物や食事に出る時も、アンドロイド兵士の壁に囲まれて、一族の所有する店に出入りするだけ。可能な限り、外部の邪悪や冷酷からは切り離されていた。

 しかし、子供もいつかは、大人の世界を知る時が来る。

 今でもよく覚えているが、あの肌寒い晩秋の霧の午後、あたしが散歩のついでに敷地の境界線を飛び越えたのは、ヴェーラお祖母さまに叱られた腹立ち紛れである。

(骨董品の茶碗が何だっての。そんなに大事なものなら、箱に入れて、地下室にでも蔵っておけばいいじゃないのさ)

 お茶の時間、うっかりアンティークのティーカップを割ってしまったことで、またしても、きつい厭味を聞かされたのだ。

 ――紅泉、あなたには、人が大切にしているものを、大切にしようという思いやりがないのかしら。力が強いだけ、動作は慎重にしなければならないのですよ。

 おかげであたしは、人間社会に紛れ込んだフランケンシュタインの気分だった。普通にカップを置いたつもりなのに、ちょっと勢いがよすぎてしまったのだ。何世紀も経過していた繊細な陶器は、ひとたまりもない。

(あたしの腕力がゴリラより強いのは、仕方ないでしょ。強化体なんだから。あたしをそういう風に設計したのは、誰だってのよ)

 もちろんお祖母さまは、あたしに腕力の制御を覚えさせるため、あえて貴重な骨董品を、日々のテーブルに出し続けていたのだが。

 あたしの父母は(養育係に任命されたという意味の両親だった。あたしも探春も、人工的に創られた胚から誕生したのだ)、違法都市の管理仕事で忙しく飛び回っていたから、大抵の時間、ヴェーラお祖母さまとヘンリーお祖父さまが、実際の養育責任者だった。

 探春の方も、やはり養育係の両親が一族の仕事で留守がちだったから、あたしと同様、お祖母さまの膝元で過ごしていたのだ。

 双方の両親はあたしたちが成人する頃、仲間を集めて、銀河系外への移民に出発した。人類の本体から遠く離れた彼方に、理想郷を建設するのだという。おそらく、あたしたちと再会することはないだろう。

 十四歳のその夕方、霧の中の小道をずんずん歩いて、敷地の境界線を示す小川に出た時、むらむらと反抗心が湧いてきて、あたしはそれをひょいと飛び越えてしまった。

 だからといって、別に何事も起こらない。まさか、警備砲塔が一族の娘を撃つはずもないし。

 管理システム《ティーナ》が、大人たちに報告はするだろうが、それは後で叱られればいいこと。どうせ、あたりは広大な森林地帯で、こんなうすら寒い夕暮れに、霧の中をうろつく物好きはいないだろう。

 ところが、心配して追いかけてきた探春が、あたしを連れ戻そうとして、やはり小川を飛び越えてしまった。あたしは何も、本格的な家出などするつもりはなく、禁じられた冒険をちょっぴり試したら、夕食に間に合うように帰るつもりだったのに。

 あの時、もしもあたしたちが通話端末を持っていたら、探春はあたしの居場所を正確に突き止められただろう。でも、当時のあたしたちは、付き添いなしには屋敷の敷地から出ない建前になっていたから、個人用の端末は、まだ必要ないと言われていたのだ。

 護衛犬を連れて、湿った小道の匂いをかがせ、あたしの跡をたどっていた探春が、森を貫く林道にさしかかった時、運悪く、退屈している若い男たちを乗せた車が通りかかった。

 彼らは探春を見て、はぐれバイオロイドと思ったらしく(ちょうどまた、メイドみたいな紺のワンピース姿だったから)、銃を突き付けて脅し、車に引きずり込もうとした。

 探春を守って戦おうとした犬は、その場で射殺された。幸い、あたしに追いついていたもう一頭の犬が、吠えて警告してくれたので(サイボーグの護衛犬たちは、通信装置を介して互いにリンクしている)、あたしはすぐに引き返した。

 そして、霧を透かして従姉妹の危機を見てとると、まずは拾った小石を投げて、厄介な銃を、男の手首ごと吹き飛ばした。それから突進して、唖然としている男たちを蹴り倒した。

 十四歳のあたしは、既に百七十センチを越す屈強な体格で、アンドロイド兵士を相手に、空手の稽古を積んでいたのだ。

 それでも、一蹴りずつで三人のうちの二人を即死させたことには、自分で驚いた。手首を砕かれた男は、まだ生きてはいたが、内臓破裂で虫の息だ。

 ――だって、こいつらも強化体じゃないの!? それで、この程度!?

 この事件で自信をつけたあたしは、次からは、もっと大胆に屋敷を抜け出し、ついにはチンピラ狩りを趣味にするようになるのだが、それは数年後のこと。

 その時は、自分の過失にただ狼狽していた。男たちが車内で待機させていたアンドロイド兵が、《ティーナ》によって無力化されていたことにも気づいていなかった。

 ただ、華奢な従姉妹にすがりつかれ、命の恩人だと感謝されたことで、いくらかほっとしただけ。あたしの腕力が、初めて役に立ったのだ。

 もちろん、あたしが敷地から抜け出さなければ、探春がこんな目に遭うこともなかったのだけれど。

 驚いたのは、その時、探春が道端の重い石を拾い上げ、よろよろと運んで、まだ息のあった三人目の男の頭を、ぐしゃりと潰したことだった。頭蓋骨が陥没し、血と脳細胞があたりに流れ出す。あたしは不覚にも、草むらに膝をついて吐いてしまったが、小柄な従姉妹は、本来の芯の強さを発揮して、にっこりした。

『これでわたしも、共犯だから』

 あたし一人を殺人犯にはしないという、友情の印だったのだ。

 もっとも、あたしはヴェーラお祖母さまに叱られることはなく、座敷牢に入れられることもなかった。それよりも、

『よく探春を守りましたね』

 と誉められて、唖然としたものだ。

 ――違法都市では、チンピラの命なんか、骨董品のティーカップより安いってことか。

 とにかく、探春の身は無事で済んだが、見知らぬ男たちに取り囲まれて小突かれ、卑猥な言葉を浴びせられた衝撃は強かったらしく、それ以来、頑固な男嫌いになってしまった。

 こんな事件にぶつかると、またしても嫌悪が強まるに違いない。世の中の男が全部、卑劣な強姦魔というわけではないのに。

 いや、潜在的にはそうかもしれないが、それを顕在化させないのが文明というものだろう。

 そして、文明を守るのは女の力。

 生物の本流は、雌なのだから。

 野蛮な真似は許さないと、男たちに知らしめるのは、いつの世でも、女の役割なのである。

   ***

 あたしたちは榊原クリニックで、司法局ビルから担当者が来るのを待っていた。ミオ・バーンズは治療が済み、病室の一つで横になっている。本人の希望で、家族には連絡を入れていない。司法局から、心理療法の専門家につなぐことになるだろう。

 事件そのものは単純だから、地元の捜査官に任せればよい。ホテルの記録から、ミオ・バーンズと一緒だった者を逮捕すればいいだけである。

 生まれたての赤ん坊も含め、全市民が、正規に登録された通話端末を所持して暮らしている現在、偽名でホテルに泊まったり、買い物の支払いをしたりすることは不可能である。

 全ての決済は(物々交換以外)端末を通して行われるし、端末を身につける者が本人かどうかの確認も、随時、当局の警備網で行われる。

 法律があるので、ホテルの警備システムにも、宿泊者や訪問者の映像記録が残っている。もちろん、プライバシーの侵害にならないよう、室内の映像ではなく、ロビーや通路を通る時のものだが。

 男たちの側からは、『合意の上だった』という主張ができるが、一対五ならば、事件性はきわめて強い。事件とみなされれば、薬品と催眠装置を併用する深層尋問が可能になるから、真実はすぐ明らかになる。普通人である限り、尋問の専門家に対して隠し事はできない。

「誰か一人がうまくあの子を酔わせて、それから仲間を呼んだんだろうね」

「ひどいことをするわ。信じられない」

「たぶん、前にもやってる。発覚しなかったから、調子に乗って、人数を増やしたんだろうね」

「公開処刑できないのが、残念だわ」

 探春は、八割くらい本気で言っている。ここが辺境なら、あたしもそちらに傾くかもしれない。

 だが、それでも、殺さずに済む場合はそうしたいのだ。さもないと、際限なく殺し続けることになり……あたしは本当に怪物になってしまう。あえて冗談のように受けた。

「その発言は不穏当ですよ、コールダー捜査官」

 市民社会には、死刑はない。罪状に応じて、一定期間の隔離があるだけだ。それと再教育。罪を憎んで、人を憎まずの精神だ。

 若い頃は、それが納得いかなかった。弱い者をなぶる下劣な連中は、殺して構わないと思っていた。事実、かなりのチンピラたちを、戦闘の練習台にしてきた。彼らもまた哀れなのだと……そう思えるようになったのは、いつ頃からだろう。

 奥まった病室の一つで話しているうち、男女の捜査官ペアが到着した。三十そこそこの、がっちりした固太りの男と、それよりやや若い、ほっそりした女。もちろん、細く見えても筋金入りだろう。捜査官は全員、格闘技の有段者である。

「本部のサンドラ・グレイ捜査官と、ヴァイオレット・コールダー捜査官ですね。お噂は聞いています。ぼくは、サミュエル・ベイカー捜査官」

 褐色の髪の、がっちり男が手を出し、あたしと握手した。短い黒髪の女は、にこやかに探春と握手する。

「ワン・レイ捜査官です。どうぞよろしく」

 それはいいけど、

「噂って?」

 と確認せずにはいられない。まさか、『辺境生まれのハンター』という正体が知られているわけではないだろう。

 バカンス中、ハンターとしてのあたしたちに直接連絡できるのは、ミギワ・クローデル司法局長と、特捜部のパウル・ミン本部長のみ。いったん任務を受ければ、あとはハンター管理課や担当支局と連絡を取り合うが、実体を秘匿されていないと、〝秘密兵器〟にならない。

 もしや、グレイ捜査官として、悪名が広がっているのでは。いい男とみれば、しつこく追い回す女だとか、陰で笑われているのかも。ノーと言われたら、すぐ引き下がるようにしてるんだけど。それに、妻帯者も避けているんだけど。

 あたしには、人の家庭を破壊する趣味はない。そんなことをしたら、〝正義の味方〟とは威張れない。

「本部でも、有数の腕利きペアと聞いています。お会いできて光栄です」

「この《ベルグラード》へは、バカンスでいらしたのでしょう。なのに早速、事件を見抜かれるなんて、さすがです」

 ほっとした。どうやら、普通に尊敬されているだけ、らしい。

 それにしても、あまり名前が売れると、また次の偽名に切り替えないといけなくなるから、なるべくおとなしく過ごさなくては。

 既に〝リリー・ベイ〟が有名になりすぎて、関係者からは〝リリス〟と結びつけられるようになってしまったから、サンドラに切り替えたのだ。他にもガーベラやローズという身分を使うが、あまり名前を変えると、自分で混乱するから、しばらくはサンドラでいたい。

「引き継ぎをすませたら失礼するけど、バーンズ嬢はかなり参っているから、気をつけてやって。発作的に、自殺でも図ると怖い」

 もちろん病院でも司法局の施設でも、通常の監視システムは働かせているが、想定外の事態は起こりうる。

「わかりました。専門家のいる病院に、入院の手配をしますので、ご安心下さい」

 この時点では、普通の(というと語弊があるが)、単発的な強姦事件と思っていたので、あたしと探春は本物の捜査官ペアに後を任せ、早々にクリニックを出た。

 外の青空の下に立ち、伸びをして深呼吸する。日差しはまだ強いが、さわやかな空気が気持ちいい。行き交う市民たちは何の屈託もなく、午後の外出を楽しんでいる。

 こうしている今も、辺境では、多くの命が無駄に奪われているのだが。そればかり考えていては、いくらあたしでも、身が保たない。再びサングラスをかけてから、探春に言った。

「放っておいたら、あの子、泣き寝入りだったかもしれない。事件化できて、よかったよ」

 それが、本人の立ち直りにも通じる。次の女性の被害を未然に防げた、と思うことが、自分自身の救いになるのだ。逮捕されない限り、犯人の男たちは、また次の悪さをするだろうから。

「そうね。あなたでなかったら、階段で受け止めることもできなかったし」

 探春は努力して微笑んでみせたが、すぐまた顔が曇ってしまう。気分を変えてやるのは、あたしの役目。

「さ、お昼にしよ。なに食べる?」

 戦闘用の強化体であるあたしは、普通人の二倍から三倍食べないと保たないのだ。

「あなたの好きなものにして。わたしは何だか、食欲がなくなったわ」

 そうか。小柄で細い探春も、実は一族の技術で強化された肉体であり、普通人の男よりは強いが(だからこそ、あたしのパートナーが務まる)、体力よりは知能に重点を置いて強化されている。あたしよりも数段繊細で、ストレスに弱いのだ。

「よし、お弁当を買って、ドライブに行こう」

 あたしは探春をひょいと抱き上げ、左腕一本で抱えて通りを歩きだした。利き腕の右はいつも、不意の襲撃に備えて空けておく習慣だ。

「さあて、中華がいいかな。それともイタリアン」

「だめよ、だめ、降ろして」

 と探春が慌てて言うのは、通行人が驚いて、じろじろ見ていくからだ。男が女を抱き上げるならまだしも、女が女を片腕で抱え上げて歩くのは、確かに珍しい見世物であろう。『女優の休日』……よりは『格闘技女子チャンピオンの日常』だな。

「へんなの。あのお姉ちゃん、大きいのに、抱っこされてるよ」

 と小さな子供が呆れてママに言うのが、聞こえたりして。

「お願い、降ろして、みっともないわ」

 と探春は、一粒真珠のイヤリングを揺らして身をよじる。その高さだと、さぞかし眺めがいいだろう。

「別にいいでしょ、犯罪じゃなし。さあ、好きな店を探してよ」

 ついに探春が降参して、笑いだす。

「わかったわ。わかりました。食欲が戻ったから、もう降ろしてちょうだい」

 それなら、よし。すとんと歩道に降ろすと、探春は笑いながら、あたしの左腕に腕をからめてくる。

「もう、無茶なんだから」

「それが取り柄でね」

 あたしも笑い、ちょうど通り道にあった総菜屋に入った。スモークサーモンとクリームチーズのサンドイッチ、ハニーマスタード風味のチキン、何種類ものハムやテリーヌ、小海老とオレンジのマリネ、牛蒡のサラダ、トマト風味のロールキャベツ、アップルパイやレモンケーキ。

 ワインなら、角を曲がった所に酒屋があるという。あれこれ買って、郊外へ車を走らせよう。せっかくのバカンスなのだから。

   『ブルー・ギャラクシー ミオ編2』に続く

 #古典リメイク で検索して頂くと、源氏物語を元にした『紫の姫の物語』や、レンズマン・シリーズを元にした『レッド・レンズマン』が出ます。楽しんで頂けたら幸いです。
 『ブルー・ギャラクシー』の姉妹編は『ミッドナイト・ブルー』があります。#恋愛SF で検索してみて下さい。

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