恋愛SF『ブルー・ギャラクシー 泉編』8章-5
8章-5 ダイナ
翌朝は、シレール兄さまに会うのが怖かった。昨夜の態度を叱られるのではないか、と思って。
だって、額にキスくらいで、あんな取り乱し方をするなんて。おかしいのは、あたしの方よね? 小さい頃は、兄さまにお風呂に入れてもらっていたし、兄さまの足の間に足を差し込んで寝たりしていたのに。
でも、シレール兄さまは朝早く仕事に出掛けていて、あたしは一人で朝食を摂ることになった。アンドロイド侍女が給仕してくれて、トーストやベーコンエッグ、サラダや果物を並べてくれる。コーヒーを飲みながらニュースをチェックするのは、いつもの通り。
とりあえず助かったけれど、今夜はどうしよう? 今夜も昨夜のような過ごし方をするのなら……あたしは、ちゃんと普通に振る舞えるだろうか。
改めて考えてみたら、額であれ頬であれ、シレール兄さまにキスされたことなんて、ほとんどなかった気がする。お祖母さまやお祖父さま、おじさまやおばさまたちには、あたしから頬にキスしていたけれど。
たまに遊びに来る紅泉姉さまには、頭をくしゃっと撫でられるのがいつものことだった。肩車して歩いてもらったり、空手の技を指導してもらったり。探春姉さまはピアノを弾いてくれ、優しくキスしたりハグしたりしてくれた。でも、兄さまは……?
小さい頃は、絵本の読み聞かせをしてもらううちに寝てしまうのが普通だったので、特にお休みの挨拶はなかった気がする。一人で寝るようになってからは、言葉でお休みを言われるだけだった。だからあたし、兄さまのキスに免疫がないのよね……?
一日、そわそわして過ごした。ヴァネッサ叔母さまの秘書が見ていてくれたので、大きなミスはしなかったものの、自分で自分が信頼できない状態。
あたしって本当に、個人的な動揺が、そのまま仕事に出てしまう。これでは、とても一人前の大人とはいえない。いい加減、公私の区別がつけられるようにならなくては。
夕方、仕事が終わる頃、兄さまからの使いのアンドロイド兵が来た。
『この服を着て、使いに付いて来るように』
届けられたのは、豪華な赤のロングドレスと、それに合わせたハイヒールで、金と真珠のイヤリングと、お揃いのネックレスも箱に入っていた。兄さまは、真珠が好きなのよね。宝石の中でも、一番上品だと言って。
赤というのは難しい色だけれど、ドレスは深みのある、落ち着いた赤だった。胸元に金色のレースが使ってあるので、赤毛のあたしが着ても、それなりに似合う。誰にデザインさせようが、兄さまの趣味が反映されているのだ。
身支度して、同じセンタービル内にあるホテル区域に行くと、広い続き部屋でシレール兄さまが待っていた。やはり、黒の正装だ。わざわざこのために、部屋を確保したらしい。ここのホテルは、都市で一番高くつくのに。それとも身内はタダ、なのかしら?
「赤も似合うな」
と言われたので、あたしは自分の戸惑いを隠すため、文句をつけた。
「子供の頃は、地味な服ばっかり着せたくせに!! 深緑とかチャコールグレーとか!! しかも赤毛の子には、赤やピンクは似合わないって言ってたじゃない!!」
でも、兄さまは悠然たるもの。
「子供のうちは、物事が制限されていた方がいい。その方が、早く大人になろうと思って頑張れるだろう」
うう。やはり勝てない。あたしが成人したところで、兄さまとの年齢差が縮まるわけではないのだし。
でも、華麗な赤いドレスだと、気分も浮き立ってしまい、それ以上の文句はつけられなかった。あちこちの鏡に映る自分を見ただけで、わくわくする。今夜のあたし、けっこう綺麗なんじゃない? ネックレスとイヤリングが、柔らかい光を添えてくれているし。
案内されたテーブルに着いて、白ワインを使ったカクテルで乾杯した。自宅でないというだけで、だいぶ気分が変わる。給仕してくれるのも、ホテル側のアンドロイド侍女だし。ホテル内のレストランから、美味しいフランス料理が運ばれてくる。普段、湖畔の屋敷でも、料理は最上級のものが出されるけれど。
「ひょっとして、兄さま、退屈してるの? だから、こうやって……」
デートごっこ、みたいなことを。
でも、その言葉が口から出ない。デートと言ってしまったら、とても気まずい気がする。ただの食事会だと言われたらそれまでだし、本当にデートなのだと言われたら……それも、対処に困る。泉のことが、ダモクレスの剣のようにずっと頭上にある感じだし、そもそも、自分たちは家族、のはずだから。
兄さまはワイングラスを手にして、液面に映る明かりを見ているようだった。
「長く生きていると、生活に飽きることがある。そういう時は、いつもと違うことをして、気分を変えるんだ」
そんな、老人みたいなことを。
「兄さまは、まだ若いでしょ」
少なくとも、一族の中では若手に分類されている。だから、色々な仕事を譲られているのだ。
「百年近くも生きていれば、外見はどうであれ、もう老人だ。老人の楽しみは、若い子が元気にしているのを見ることだ。わたしにそのくらいの娯楽を与えてくれても、いいだろう?」
どういうんだろう。本当に、あたしを見て〝大きくなったな〟と感慨にふけっているのかしら。
「そんな辛気臭いこと、言わないで。兄さまらしくないわ。まさか、泉にもそんなこと言ってるんじゃ……」
思わず口からこぼれた台詞に、慌ててブレーキをかけた。
「今のは取り消し。気にしないで」
これまで、泉のことは極力、口にしないできたのだ。考えたくない。兄さまが、泉と二人きりの時、どんな表情をして、どんな言葉を口にするのかは。想像するだけで、うまく息ができなくなる。
でも、シレール兄さまは澄ました顔だ。
「泉にとって、わたしは保護者のようなものだ。あの子は他で気を張っているから、わたしと一緒の時だけ、安心して甘えられるのだろう」
あの泉が、兄さまに甘えるですって。それを想像したら、こっちが赤くなってしまう。
聖カタリナ女学院にいた頃、泉は文武両道の秀才で、みんなの憧れの存在だった。いわば、学院の王子さまだったのだ。でも、わずか十七か十八の少女だったことも間違いない。泉は、自分の弱さを他人に見せまいと努力して、背伸びして、疲れきっていたのかもしれない。だから、辺境からの誘惑に負けてしまった……
急に気がついた。
もし、兄さまも、厳格なふりをし続けて疲れているなら、それはどこで癒されるの?
兄さまがあたしに求めているのは、そういうこと? あたしに、可愛い妹であれと望んでいるの? 兄さまの贈り物にはしゃいだり、若者らしい言動をしたりして、ペット的な存在になれと?
『ブルー・ギャラクシー 泉編』8章-6に続く