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恋愛SF『ブルー・ギャラクシー 泉編』2章-2

2章-2 ダイナ

 それから三日、四日、一週間、一か月……秘書見習いの仕事に忙殺されるうち、兄さまの断髪姿を見たショックは、徐々に薄れていった。

 兄さまは好きで長髪にしているものと思っていたけれど、そうではなかったのだ。子育ての責任を果たすまではと、約束の印のように髪を伸ばし、養育係に徹してくれていただけ。男性の長髪なんて、歌手とか芸術家とか、よっぽど特殊な人でなければ、あえて望まないものね。

 あたしから解放されたら、普通の独身男性の生活に戻りたいんだ。夜の街で遊ぶとか、よその女性を口説くとか。

 ……ううん、女性に甘い顔をする兄さまなんて、絶対ありえない。だってそんなの、兄さまの柄じゃないし。昔、サマラおばさまという恋人を失ってからは、新しい恋人なんて、作ろうともしていないし。

 屋敷に戻れば、兄さまはそこにいるはず。昼間は外回りに出ていても、夜には帰宅して、くつろいで映画を見たり、読書したりしているはず。

 けれど、ようやく半日、休みをもらってセンタービルから屋敷に戻ってきたら、夕食の席にシレール兄さまの姿がない。ヘンリーお祖父さまとヴェーラお祖母さま、それにマーカス大伯父さま夫妻は、きちんと正装して座っているのに。

「あの、シレール兄さまは?」

 と尋ねたら、黒髪を結い上げて、黒いドレスに真珠のネックレスを合わせたサラ大伯母さまが、あっさり言う。

「一昨日、《サラスヴァティ》に出発しましたよ」

 この《ティルス》から何日もかかる、姉妹都市へ。それも短期の旅行ではなく、数年の予定の赴任だという。

「あたし、聞いて、ませんけど……」

「あら、そうだったの? 向こうで、業務の補佐役が必要なのでね。シレールが行けば、ヴァネッサやリカルドたちが楽できるわ」

 そんなこと、誰も教えてくれなかった。お見送りさえ、できなかった。あたしが食べるのをやめ、口もきけないでいると、灰色の髪のマーカス大伯父さまが、苦笑して言う。

「ダイナも、そろそろ親離れしないとな。シレールがいなくとも、我々がいるのだから、何も困ることはないだろう? 通話なら、いつでもできるのだし」

 困るって。通話って。

 そういう問題じゃ。

 仕事のことは先輩秘書に聞けばいいし、愚痴はヘンリーお祖父さまやマーカス大伯父さまが聞いてくれるけれど、あたしの落ち着く場所が……帰る場所がない。

 いくら冷淡でも、兄さまが屋敷にいるのといないのでは、大違い。

 食事の後、ふらふら二階に上がって、兄さまの部屋に行ってみた。薔薇の咲く中庭を見下ろす居間と寝室、書斎。きちんと片付いているのはいつも通りだけれど、よく机の上にあった手帳とかペンとか、愛用の品々がなくなっていて、廃墟のように物寂しい。

 悪いと思いつつ、そっとクローゼットを開けてみたら、日常着のシャツやスーツ類があった場所が、大きく空いている。みんな、船に積み込んで行ってしまったんだ。

 主がいない部屋が、こんなに空虚だなんて。

 しかも、数年? そんな長期の赴任なのに、あたしに何も言わずに行くの?

 それが、区切りをつけたということ?

 あたしはもう、兄さまの妹じゃないの?

   ***

 それでも、毎日、仕事に駆け回らなくてはならなかった。秘書見習いとして、あちこちに使い走りに行く。付き合いの古い組織との会合の下準備、新規参入の弱小組織の代表者との面談。

 付き合いの長い相手との会合の場合、初回だけは先輩秘書が連れて行って紹介してくれるけれど、次からはあたしが《ティルス》の総督代理ということになる。失敗はできない。

 こちらから伝えるべき内容は伝え、向こうの言い分を聞き、お祖母さまの元へ持ち帰れる案件なのか、その場で断るべき案件なのか、判断できなくてはならない。

 お使いの内容も、少しずつ高度になっていった。あたしの裁量に任される部分が、徐々に増えていく。

 公園の植栽の再検討。ビル改装の認可。清掃部隊のチーム再編。組織間の契約の仲介や立ち会い。暗殺事件や乱闘事件の後始末。百万都市を維持するための仕事は、無限にある。

 やがて《ティルス》の管制宙域を守る防衛艦隊の演習計画の作成や、その実施を任されるようになった。

 子供の頃、確かに〝艦隊指揮〟というものに憧れていたけれど、実際にそれを担当する段になったら、かっこいいとか勇ましいとかではなくて、ひたすら細かい調整の繰り返し。もろに事務仕事。

 だって、実際の戦闘なんて、ほとんどないんだものね。

 事前に他組織の艦隊の移動状況を把握したり、兵器のお試し演習をして性能を把握したり、現場指揮官の話を聞いたり、艦長の配置換えをしたり、新入りの技術担当者と面談したり。

 全てうまく進行して当たり前で、何かトラブルが発生したら、あたしの責任。

 夜、しばしば、仕事の夢を見るようになった。会合に遅刻しそうになって、焦って知らない建物内をさまよう夢とか。何か大事なことを連絡し忘れていて、大事故を起こしてしまった夢とか。

 目を覚まして、悪夢だったとわかると、心底からほっとする。

 実際には、先輩秘書たちがそれとなく注意してくれるし、管理システムの補佐もあるから、まあ滅多に大失敗はないのだけれど。

 自分で気付いてはっとするような、細かいミスならたくさんある。三つ連絡すべきところを、二つしか伝えていなかったとか。後にしようと思って忘れ去り、締め切りぎりぎりで思い出したとか。

 その都度、

(次は気をつけよう)

 と自分に誓い、管理システムにも記録するから、少しずつ進歩はしていると思う。都市内で発生する細かいトラブルの解決も、かなり自分の裁量でできるようになってきた。

 判断に迷うことは、それぞれの部署の責任者であるおじさまや、おばさまたちに尋ねればいい。総勢で三十人ほどの一族が、手分けして三つの小惑星都市と、それに付随する工場群や防衛艦隊、輸送艦隊を切り回している。

 人数的には、本当に最小限の布陣だ。あたし一人の参加であっても、

「とても助かるよ」

 と年輩者がみんな言う。眠ることも忘れることもない管理システムが控えているからこそ成り立つ、綱渡りのようなもの。

 一族の人数を増やすことには、最長老である麗香れいか姉さまが、厳しい関門を設けている。一族内で新たに生まれる子供は、姉さまが遺伝子操作で生み出す、最新鋭の強化体だけ。

 一族の誰かと結婚して入り込む場合も、麗香姉さまやヴェーラお祖母さまたちの許可が要る。軽はずみな恋愛沙汰では、絶対に一族の内部には入れない。

「人数を増やすと、いずれは内部崩壊する」

 というのが、麗香姉さまの昔からの考えだという。だから一族は、勢力範囲を三つの姉妹都市とその周辺の無人星系だけに限り、拡大しない。

 その代わり、研究部門に力を入れ、高度な技術力を保ち続ける。

 その最小人数で他組織と張り合い、交渉し、時には戦闘になることもある。本格的な戦闘は滅多にないけれど、運悪くそうなってしまったら、都市運営の邪魔にならないよう、防衛艦隊や、各星区に伏せてある予備艦隊を動員して、速攻で片付ける。

 それができるのは、常に最新鋭の戦闘艦を配備し続けているから。

 一族の指揮下で働く人員は、あちこちでスカウトする。中央から出てきて、違法都市をうろうろしていた若者とか。若返りを求めてやってきた老人とか。

 働かせて適性を見たり、配置換えをしたり。

 時には裏切り者の記憶を抜いてから、追放することもある。きちんとした待遇をしているつもりでも、不満を持つ者は出るものだとわかった。人は、自分のことを客観的には見られないものだから。

「人事が一番、難しいのよ」

 とヴェーラお祖母さまは言う。能力の低い者は、それを自分できちんと認識できない。だから、能力の高い者が、他人の能力を正確に判定し、相応の場所に配置するべきなのだと。

 つまり、あたしも、十分な能力を示さなければ、一族の中での落ちこぼれと判定されてしまう。

「ダイナ、あなたは十分に有能よ」

 と麗香姉さまは言ってくれるけれど、それには意図的な励ましの成分が籠もっている。自惚れてはいけない。あたしは、常に自戒していた。何よりシレール兄さまに、

「自惚れたら、命を失うぞ」

 と戒められて育ったのだから。

 その兄さまは、《サラスヴァティ》に行ったきり、あたしに連絡をくれることもない。だから、こちらから通話することもない。新米の愚痴なんか、聞いてくれるはずもないし。

 でも、元気でやっているはずだった。お祖父さまやお祖母さまには、定期的に連絡が入っているようだから。

(あたしを甘やかさないためよ。きっと、気にかけていてくれる)

 だって子供の頃はあんなに、毎日、朝から晩まで、あたしの世話をしてくれたのだから。夜には、枕元で絵本を読んでくれたのだから。あの絵本はまだ、屋敷のあたしの部屋の片隅にある。何度大掃除をしても、捨てきれなくて。

   『ブルー・ギャラクシー 泉編』2章-3に続く

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